見えるもの

 深夜、私は一仕事終えて窓際に目をやった。空気が澄んでいる。私はそこに惹かれてここに越してきたのだ。


 数年前、研究のために来たこの島に一目惚れした。妻もいない。当然子どももいない。私は研究所に一言添えるだけ添えて単身でこの場所に越してきた。

 何にそうも惹かれたのか。簡単だ。何の雑音もない、この自然だ。私が元いたあの街はあまりにも忙しない。耳を傾けても望む声は聞こえてこない。しかし、ここはなんと心地よい音ばかりなのだろう。


 海の漣の音。

 風の揺らめく葉音。

 それを見込んでの季節外れの風鈴の音。



 あそこでは味わえない、なんとも風情のある聴覚の賜物なのだろう。私はきっとここに骨を埋めるのだろうとさえ思える。生い茂る木々はまるで揺り籠のようで、随分と歳を取ってしまった私の身体を浄化する。もう腐る場所はとうに腐ってしまった。だから、私の視界に移るこの大自然は浄化剤なのだ。






 一息ついて外していた眼鏡をかける。昔はノートにかじりつき、今は現代的なパソコン。辺りが暗くなっても構わずに少量の明かりを灯し、鉛筆やらペンやらを走らせれば当然輪郭は働くことに少し億劫になる。故に私は矯正しなければ形を認識することはできない。そうして手にした地位は私の今と未来を食い繋いでいるわけだが、どうも寂しいものだ。




 私の仕事は森林の生態の研究だった。この引っ越しは半分研究のためだ。勝手に飛び出していったことに対して怒られはしたが、行く場所で反対されたことはない。小さな村だとしても今の社会ば便利なもので、ネットは繋がる。連絡手段はあるのだ。本州に向かう船が大雨や高潮で止まって研究会に行けなくなったことは多々あるが、私はそこまで研究の発表に重きを置いていない。同僚もそれを理解してくれている。呼ばれるとしても年に一回。それだけだった。



 森林には本当に驚きの連続だった。同じ場所にいても一日経てば全く違う世界が広がる。土から芽を出した花々に心を奪われていると、昨日よりも多くなった葉の数に感嘆の声を漏らす。森は個々の集合体にして、一つの生命体なのだ。一つ欠けてしまえばすべてが崩れる。かと言って、その穴は別の個によって埋めることだってできるのだ。なんと尊ぶべき営みなのだろう。ほとんど人間はこの営みについて知らない。知る価値もないとさえ思える。彼らにとって自然とは、ただの生活を送るための資源でしかない。目の前にある成果物にあやかって感謝もろくにせず、その工程を省みることもなく消費していく。脳のある生物ほど忘れることだ。私はそれを知っている。だから、私はこれほどまでに無秩序な自然に心酔しているのだ。彼らは意図せずに呼吸を続ける。それがなんと美しいのか。それを知らないなど勿体ない。だから、私は自然と生き続けるのだ。







 しかし、自然と生きるとはあまりにも過酷だった。自然は思考を働かせる選択が毛頭ない。誰かに迷惑をかけるだの、あの花は必死に太陽の光を浴びようとしているだのと考えることはない。だから、互いに根を絡ませ合って苦しみ、最終的には地上にむき出しになって崩れていく。そんな木がある。植物は長い年月をかけなければ自分の行きやすい環境を作るどころか選ぶこともできない。彼らは反射で動く生物だ。その反射的な生命維持活動に我々意志を持つ人間が付き合わなければならない。それを自覚する度に私は古来の生活に思いを馳せる。

 今の人間は何でもかんでも掌握したがるのだ。余裕というもの、自分たちの立場をわきまえていない。私たちは従属栄養生物なのだ。自然からの享受されなければ生きていけない。私たちの命はこの自然ありきで成り立っていることをまるで忘れてしまっている。あまりに愚かしい。一度吸ってしまった甘汁を忘れるのはそう容易いことではないのは重々承知の上だ。私だって、今住んでいる場所を考えてみれば分かる。木組みの家。木材のあたたかみに何度助けられたか知らない。人間の軋轢によって崩壊しつつあるこの資源の危うさを彼らは知らない。





 こう論文に書き出してみるものの、なかなか馬の合わない連中が小言を言ってくる。仕方のないことだ。彼らは私と目指すものが違う。最新鋭の技術を開発し、人間主体の社会の構築を日々高めていく。今の時代がそうさせているのだ。西洋の国で始まった紡績の革命は今の資本主義社会の基盤を作り、人間の思考で合理的であると判断した結果。私も平等に均等に分けられて管理される社会よりはマシだ。私の研究も自由にできなくなる。そこに不満を抱いたことはない。いつの時代も流行がある。そこは弁えていた。

 ただ忘れてはならないのは、私たち人間が自然にとって最大の脅威であることだ。時たま加えてしまう撹乱は仕方のないこと。しかし、巨大ダムの建設やら人工林など馬鹿げた事をするなと言う話。高度経済成長期に建設されたダムは別として、今は山肌を切り崩してパネルを建てている。それを切り崩す度に人間の醜い利己主義的な欲望が見え隠れして思わず顔を歪めてしまうのだ。これは、おそらく同じ学問の界隈でも私しかいないだろう。あまりに頭が硬いと同僚から言われるが、時にはそんな学者がいたって良いじゃないか。嫌われ役なら望んで買ってやろう。私はただ単純に自然を愛しているのだから。





 そうして思いにふけていると、今日自分の育てる花々に水をやっていないことに気づく。庭の花には水をやったが、今目の前にある窓際の花には水をやっていない。いけないことをしそうになった。私は立ち上がってじょうろに水を溜める。夜になるとさすがの村は誰一人として活動していない。静かな空間に私だけが取り残されていく。そんな感覚も悪くない。バイオテクノロジーに人生を売った彼らは私を懐古主義だと豪語しているが、まぁ仕方のないこと。現に先人の知恵が現代に生きている。それで分かるだろう。今の時代の技術にとやかく言う権利はない。乾いた土に水が染み込んでいく。私はこの瞬間がたまらなく好きなのだ。無知の脳に知識が浸透していく。その知識は私の今を作っているのだ。



 しかし、その知識は終わりを迎える。命という不可視のものを持つ生き物は『死』と言う終焉を迎える。老いることで渇きはすぐに繰り返す。ほら見てみろ。今やった水もいくらかは鉢から溢れ出る。根が吸収しないのだ。限界がある。それでも、それを忘れた我々人間は貪欲に求める。そのために意思を持たぬ他を犠牲にするのだ。なんと愚かしい。







 しかし、最近思うのだ。果たして私が見ている世界は真実なのかと。森は本当に私にすべてを見せてくれているのだろうか。この花は私が世話したことによって咲かせているのだろうか。

 真理はいつだって無責任なのだ。私たちにあたかも正当だという顔をしておきながら、すぐに矛盾という名の欠陥を導き出させ、姿形を変えてしまう。それによって混乱する人間を嘲笑っているとさえ思える。研究職とはその真理を求める職業だというのに、振り回されてばかりだ。森は一年の周期を一定の枠組に沿って繰り返す。しかし、それはあくまで平均的な話だ。自我を確立していない赤子が突拍子もない行動をとるように、森もまた未知の生命体を地表に起こす。いつだって私たちの想像をはるかに超える。それが真理になどという定型文に当てはまるわけがないのだ。





 私の目に見えるものはあまりにも軽薄なのだ。主観をあたかも真理かのように騙り相手を転がす。私が見たものだから間違いないと辺りが持て囃されているせいで忘れていた。私もまた愚鈍な人間だ。生かされている側の人間が生かしている彼らを語るのはなんと烏滸がましいことか。懐古主義が愚かしいわけじゃない。未来に思いを馳せ進化を望む者が浅ましいわけではない。何もかも知りたいという探究心は称えるべき習性だが、すべてに名前をつけ、当然だと決めきることが忌むべきことだということだ。我々は不定義的な世界に生きている。たまたま誕生するに至った生命体の分際で、たまたま発達した脳を持ち得ただけだというのに。すべてを掌握しようと手を伸ばして手当たり次第に手繰り寄せる。人間の所業は紀元前より間違っているのだ。





 深夜は誰も私を知らない。ましてや、脳裏に何を思い浮かべようが誰も私を咎めない。反社会的思考を働かせるにしても、誰もそれを知る由もないのだ。より鮮明に事を捉えるための眼鏡はあまりに世を化かせるようで、窓から見える青々とした木々の鮮明な輪郭を脳に送り込んだ。その視覚から知識を引き出す。まだ研究は続けていきたい。どうやらこの老木にも水は必要なようだ。なんとまあ貪欲な生き物よ。だが、それでいい。こうして非難する私もまた、研究を専門にする探究者なのだから。







〜オーダー〜

【水やり】、【眼鏡】、【深夜】を使って、純文学ジャンルの作品を書いてください。

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創作短編 白雲ガイ @Sh1raKawaNayuta

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