第5話 畑と種と、育てるということ

朝。 火は、昨日よりもすこしだけ、長く燃えていた。


孝平は、貝の器に残っていた実を、 火のそばであたためて食べていた。


甘い香りが、湯気と一緒に立ちのぼる。 口に含むと、ほろりと崩れて、 昨日よりも、やさしい味がした。


「……うまいな」


器の底に、黒くて小さな粒が残っていた。 指でつまむと、つるりとしていて、 どこか、まだ生きているような気配がある。


『わたし、また実になれるよ』


「……種、か」


孝平は、しばらくその粒を見つめていた。 火の音が、ぱちりと鳴る。


「……育ててみるか」


火を見守ってくれている屋根に、 今日も行ってきますと声をかけて、 孝平は、種を握って外に出た。


林の端に、小さなひらけた場所があった。 木漏れ日が差し込んでいて、 地面は、昨日の雨でしっとりとやわらかい。


孝平は、そこにしゃがみ込んで、 手のひらで土をすくってみた。


『ここ、あたたかい』 『ここ、根が張りやすいよ』


土の声が、かすかに聞こえる。 昨日より、もう少しだけはっきりと。


「……ここにしよう」


石をどけて、落ち葉をよけて、 小さな区画を整えていく。


手のひらで掘るには限界がある。 けれど、昨日作った貝の器を使えば、 少しずつ、土をすくうことができた。


「……水、どうしような」


雨は降ったけれど、 毎日降るとは限らない。


「井戸……掘ってみるか」


地面に耳を当ててみる。 しん、とした土の奥に、 かすかに、ひんやりとした気配があった。


『ずっと下に、冷たいものがあるよ』


孝平は、貝の器を手に、 畑のそばに小さな穴を掘りはじめた。


最初は、湿った土がやわらかく、 すくうたびに、器の中に土が重なっていく。


けれど、深くなるにつれて、 土は重く、冷たく、ねばりを増していった。


器のふちが欠けないように、 そっと、そっと、土をすくう。


『もう少し』 『もう少しで、わたしに届くよ』


どこかで、そんな声がした。 それは土の声か、水の声か。 あるいは、自分の中の声かもしれない。


やがて、器の底に、 じんわりと水がにじみはじめた。


「……出た」


孝平は、泥をすくい、 水がたまるのを待った。


器に一杯ぶんの水がたまるまで、 何度も、何度も、土をならした。


『わたしは、ここにいるよ』 『でも、急がないで。ゆっくりでいい』


孝平は、うなずいた。 この水は、急いで使うものじゃない。 “育てるための水”なんだ。


畑の土は、しっとりと落ち着いていた。 石もなく、根も浅く、 種を迎える準備ができているように見えた。


孝平は、朝に見つけた種を取り出した。 指先でつまむと、つるりとした感触がある。


「……ほんとに、育つのかな」


『信じてくれたら、芽を出すよ』


その声は、種のものか、土のものか。 けれど、どちらでもいいと思えた。


孝平は、そっと土に穴をあけ、 種をひと粒ずつ、埋めていった。


「……水、いるよな」


さっき掘ったばかりの井戸へ向かい、 器に一杯ぶんの水をすくう。


それを、種をまいた土の上に、 ゆっくりと、こぼさないように注いだ。


土は、音もなく水を吸い込んだ。 まるで、静かにうなずくように。


『ありがとう』 『あとは、わたしたちにまかせて』


孝平は、しばらくその場にしゃがみ込んで、 濡れた土の匂いを吸い込んだ。


「……育つといいな」


空には、また雲が広がっていた。 風が、少しだけ湿っている。


「……雨、来るかもな」


夜。 屋根の下で、孝平は火を見つめていた。


火は、今日も静かに燃えている。 けれど、薪の減りが早い。 湿気を含んだ空気が、火のまわりを包んでいた。


ぽつ、ぽつ、と音がした。 葉の上に落ちた雨粒が、跳ねる。


やがて、それは連なり、 屋根の上をやさしく叩きはじめた。


「……降ってきたか」


畑の土が、雨を受けている。 さっきまいた種たちが、 静かに、土の中で目を閉じている。


『育つには、時間がいるよ』 『でも、ちゃんと待ってくれるなら、芽を出すよ』


孝平は、火のそばで膝を抱えた。 雨音が、屋根を通して響いてくる。


「……待つよ。ちゃんと」


火が、ぱちりと鳴った。 まるで、土と火がうなずき合ったように。


孝平は、目を閉じた。 雨の音と、火の音と、 土の中の静けさを感じながら。


夜は、しずかに更けていく。


【後書き】

第4話まで読んでくださって、ありがとうございます。

食べることができるようになって、 じゃあ次は、育ててみようか―― そんな気持ちで、畑をつくる話になりました。

すぐに芽が出るわけじゃないし、 ちゃんと育つかどうかも、まだわかりません。

でも、土に触れて、種をまいて、 「待つよ」って言えるようになったことが、 たぶん、いちばんの変化だったのかもしれません。

また次の支度で、お会いできたら嬉しいです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る