第六話 『昏い影の下で』 幼き者たちの記憶
リリィの口から語られた、あまりにも残酷な、一点の曇りもない確定した未来。
二十歳を迎える前に、『白い化け物』を連れた『飛翔の魔女』に襲われ、
彼らの脳裏には、今も鮮明に焼き付いている光景がある。それは五年前、リリィの母・マリィが『白い闇』に呑まれ、里全体が逃げ場のない重苦しい沈黙に包まれていた頃の記憶だ。当時、四歳のカイ、ドゥカ、あるいはミルトは、まだ大人の事情など何も知らないはずの、無垢な『子供』でしかなかった。
その日の空は、皮肉なほどに青く、どこまでも透き通っていた。
広場の隅で、カイは小さな枝を剣に見立てて無心に振り回し、ドゥカは地面に転がる色とりどりの石を熱心に並べて城を築いていた。その隣でミルトは、母・ルトナから教わったばかりの仕草を真似て、道端に生えた名もなき草を小さな指先で器用に摘み取っては、ままごとの薬草袋へと詰め込んでいた。
その時、彼らはまだ気づいていなかった。リリィの母・マリィが、つい先刻の儀式において自らの死を告げる『白い闇』を予知し、里の大人たちが『聖女』の回避不能な『死の宣告』で絶望の淵に突き落とされたことなど、幼い彼らが知る由もなかったのだ。彼らにとっての今日は、昨日までと変わらない、暖かな陽だまりの中の日常でしかなかった。
その傍らでは、三歳年上のサイドとヴォグが、戦士としての第一歩を踏み出していた。七歳になった彼らは、里の戦士『
「ほら、カイ! 邪魔だぞ、そこは俺たちの修行の場所だ!」 サイドが誇らしげに木剣を振りかぶりながら、鋭い声を出す。
「ごめん、サイド兄ちゃん……」 カイがその迫力に気圧されて下がると、そこへ槍を携えたカイの母・カナルが通りかかった。彼女は訓練の合間に息子へ優しい視線を向けつつも、里を覆う不穏な空気に、その表情は鋼のように険しく引き締まっていた。
「サイド、ヴォグ。自分たちのすべきことに集中しなさい。……今、里には『白い闇』が出て、誰もが動揺している。けれど、あたしたち『護り手』は決して惑わされないで。それが里を守るということよ」
カナルの、自分自身に言い聞かせるような厳しい言葉に、子供たちは理由もわからず息を呑んだ。『白い闇』という言葉の響きが、何やら得体の知れない恐ろしい化け物の名前のように、幼い心に冷たく刺さった。
そんな偽りの平穏を、魂を切り裂くような絶叫が叩き割った。
「離せ! どけ、イルト! そこを通せと言っているんだ!」
それは、リリィの父・ジグルの声だった。
カイたちは、広場の向こうでカイの父・イルトが、親友であるはずのジグルと激しく言い争っているのを目撃した。イルトの隣には、ドゥカの父であり、同じく『護り手』のカドゥも、苦渋の表情を浮かべてジグルを制するために立ちはだかっていた。
「パパ……?」 ドゥカが並べていた石を落とし、震える声で呟いた。
さらにその少し後ろでは、ミルトの父・トレルが、行商の荷を置いたまま顔を伏せて立ち尽くしていた。『
ミルトは、摘み取った草を握りしめたまま、父・トレルのあんなに悲しそうな、あるいは無力そうな顔を初めて見た。同時に、診療所から出てきた母・ルトナが、今にも泣き出しそうな顔でマリィの家の方を見つめている姿も、網膜に深く焼き付いた。
それから数週間、里には重く冷たい停滞が訪れた。
ジグルが「妻を救えるかもしれない」と連れ帰ろうとした医師が、実は近隣諸国の密偵であったという事実は、里にとって致命的なスキャンダルだった。里の安寧を乱し、その隠れ里としての秘匿性を露見させかねないジグルの行動は、たとえそれが最愛の妻への純粋な愛ゆえであっても、里の掟においては許されざる『裏切り』と見なされたのである。
里の秩序を最優先した長老ジルの命により、ジグルは境界で拘束された。激しく抵抗する間もなく、彼はかつての仲間たちの手によって目隠しをされ、里の奥深くにある薄暗い座敷牢へと軟禁された。
その光景を、カイ、ドゥカ、ミルトの三人は生け垣の陰から息を潜めて見ていた。
「サイド兄ちゃん、ジグルおじさんをどうするの……?」
カイの問いに、サイドは前を見つめたまま「里を守るためには、こうするしかないんだ」と機械的に答えた。
ジグルが座敷牢に放り込まれ、重い
やがて、運命の針が残酷な終局を指した。
リリィの母・マリィが予知通りの日に息を引き取ると、里中に弔いの鐘が鳴り響いた。亡骸の前で膝を突き、声を上げて泣きじゃくる四歳のリリィ。その小さな肩は、もはや戻らない温もりを求めて激しく震えていた。
「ママ、おきて……! パパも、もうすぐくるから、おきてよぉ……!」
石造りの床に膝をつき、動かなくなった母の腕を揺らし続けるリリィの声が、重く響く弔いの鐘に混じって里の隅々まで広がっていく。その絶叫が届く距離にある座敷牢の奥からは、鉄格子の扉を激しく打ち付ける金属音と、喉を掻き切るような男の呻き声が、途切れることなく漏れ聞こえていた。
やがて、重い閂が外される音が響く。
牢から現れたジグルの姿は、数ヶ月前に希望を胸に里を去った時とは別人のようだった。泥と埃にまみれた衣服は裂け、格子を叩き続けた両手は指先まで赤黒い血に染まっている。 変わり果てた妻の亡骸の前に辿り着いた彼は、その場に崩れ落ち、もはや人間のそれではない、獣のような声を上げて泣き崩れた。
その慟哭は里の静寂を鋭く引き裂き、周囲を取り囲む大人たちは、一様に視線を地面へと落とした。ジグルは、足元ですすり泣くわが子の小さな肩に触れることも、その顔を見ることもなかった。ただ、血走った眼を見開き、燃え上がるような憎しみのこもった瞳で里の大人たちを、そして実の母である長老ジルを正面から睨みつけた。
「……未来が詠めても、お前たちは何も救わない。ただ、死を待つだけの檻に、この里を閉じ込めているだけだ……!」
絞り出すような呪詛を残すと、ジグルはよろめきながら立ち上がった。彼は最愛の娘さえも置いたまま、一度も振り返ることなく、一人で里の境界へと歩き出した。
夕闇が迫る森の向こうへ、父の背中が完全に消えていく。リリィはその場に立ち尽くしたまま、頬を濡らす涙を拭うことも忘れ、父が消えた方角をいつまでも凝視していた。
母の遺体の傍ら、広場の中心にぽつんと一人で残された少女。生け垣の隙間から見ていたカイたちの目に映ったのは、色を失い、深い虚無を湛えて空っぽになったリリィの瞳だった。カイたちは、その絶望の深さを子供ながらに肌で感じ取り、あの日、自分たちの心に一生消えない刻印を刻んだのだ。
未来が最初から決まっているというのなら、なぜ父たちはあんなに悲しそうに友を裏切らねばならなかったのか。なぜ誰も、リリィの母を救うために手を伸ばしようとしなかったのか。
大人が口にする「仕方がなかった」「掟だから」という言葉は、子供たちの目には、自らの無力を正当化するための卑怯な逃避にしか映らなかった。理不尽な宿命への疑念と、友人を救えなかった無力感が、幼い彼らの胸の中で熱い塊となって積もっていった。
そして、五年が過ぎた。
十歳になった今、リリィが視た『刻を止められる』という最悪の予兆は、かつて無力感の中で見送ったあの日の悲劇を、あまりにも鮮烈に、そして残酷に呼び起こさせた。 あの時と同じ、逃れられないと言われる未来。あの時と同じ、大人たちの冷たい沈黙が予想される状況。
だが、今の彼らはもはや、ただ何もできずに見ているだけだった子供ではないのだ。
「あの頃の大人たちのように、最初から無理だって諦めたくない! 誰かに足止めされて、絶望しながら終わるなんて真っ平だ!」
カイは、かつて幼すぎて何もできなかった自分を、あるいは座敷牢の閂を下ろした父・イルトの背中を振り払うように、力強く言い切った。
「リリィ。あの日、俺たちはただ見てるだけだった。でも今は違う。俺たちは、運命という名の怪物に立ち向かうために、本物の武器を手に入れるんだ! この里の『当たり前』に、俺たちは絶対に屈しない!」
カイの言葉に呼応するように、ドゥカとミルトも力強く頷いた。 ドゥカの瞳には『守り損ねた父』の影を超えようとする静かな闘志が、ミルトの震える手には『誰も救えなかった母の薬草』ではない、真の救いへの祈りが宿っていた。
五年前、大人たちが『掟』の名の下に諦め、一人の少女を孤独に突き落としたあの惨劇を、自分たちは決して繰り返さない。十歳の少年少女たちの瞳には、もはや迷いはなかった。
それは、大人たちから見れば、あまりにも幼く、無謀としか言いようがない決意だったかもしれない。だが、静かに燃え始めた彼らの意志は、すでに『確定した未来』という巨大な氷壁に、確かな、あるいは修復不能な亀裂を入れ始めていたのだった。
彼らがこの時誓ったのは、単にリリィを救うことだけではない。
それは、里が千年近くにわたって積み上げ、守り続けてきた『諦念という名の平穏』そのものに対する、初めての叛逆であった。
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