第五話 『断絶の予兆』 少年少女の誓い

「ねえ……十年後の私たちを、ちょっとだけ見てみるね」


 穏やかな風が吹き抜け、虹色のお守りが陽光を反射してキラキラと輝く丘の上。その何気ない、あまりにも無邪気な一言が、すべての終わりの始まりだった。


 リリィが次代の『詠み手よみて』として、十年後の自分の瞳に意識を滑らせた、その瞬間――。 先ほどまで彼女の肌を優しくなでていた爽やかな空気も、耳朶をくすぐっていた幼馴染たちの屈託のない笑い声も、唐突に、そして暴力的なまでの無慈悲さで掻き消えた。


 十年後の未来。そこに広がっていたのは、いかなる色彩も光も存在しない、ただひたすらに空虚な白であった。里の『詠み手』たちが代々最も恐れ、忌み嫌ってきた、逃れられぬ絶対的な死の象徴――『白い闇』。それが、若く輝かしいはずの二十歳の視界を、跡形もなく塗り潰していたのである。


「え、……っ!? そんな、嘘……っ!」


 あまりの光景に、リリィの意識の糸は激しく千切れそうになった。何かの間違いであってほしい。これはただの悪い夢なのだ。その一心で、彼女は十年という刻を必死に遡り、『白い闇』が訪れる前にあるはずの、まだ救いがあったはずの『過去』へと意識を逃がした。


 だが、そこから再び十年後の『白い闇』に向けて、少しずつ、慎重に未来を辿り直そうとしたその時だった。


 運命が白く染まる一年前の時間軸――そこには正体不明の巨大な『壁』のごとき情報の嵐が、意識を焼き切らんばかりの勢いで吹き荒れていたのだ。 無数の人々の憎悪、各地で燃え上がる戦火、複雑に絡み合う国々の駆け引き、見たこともない鉄と石の巨大な街並み……。リリィが歩むはずの道筋は、彼女が知る里の平穏とはかけ離れた、あまりにも広大で残酷な世界の潮流ちょうりゅうへと無理やり引きずり出されていた。


 それらは十歳のリリィが持つ精神の許容量を遥かに超え、濁流となって視界を遮る。『視えている』のに、その意味が何一つとして『理解できない』。その理解を超えた混沌こそが、彼女が掴めるはずだった運命回避のヒントを、嘲笑うかのように奪い去っていった。


 そして、その情報の嵐をようやく突き抜けた先――情報の濁流がピタリと止まり、逃げ場のない静寂が訪れたその場所で、不気味なほど一点の曇りもない『確定した絶望』が突如として姿を現したのである。


 それは、彼女が二十歳を迎える、わずか数か月前の情景だった。


 白濁した運命の中心に、一人の女が君臨していた。その女が姿を現した瞬間、希望を示すはずの『黒いもや』は、まるで凍り付くようにほぼすべて『白いもや』へと強制的に上書きされた。


 まず映し出されたのは、冷たい銀色の水晶が組み込まれた、異様な装置だった。里の知識には存在しない、魔法と機械が融合したかのような銀色の『棺』。 その中に横たわっていたのは、未来の自分であろう女性の姿であった。


 しかし、そこに生気はない。凍り付いた彫像のように横たわるその身体には、無数の銀針が血管を走るように張り巡らされ、水晶から供給される魔力の檻に縛り付けられている。リリィの現在の腕や足に、未来の自分が受けている銀針のチクチクとした不快な疼きと、骨の髄まで凍てつかせるような水晶の冷気が、共感覚となって伝わってくる。それは生命の維持というよりは、魂をこの世に繋ぎ止めておくための、冒涜的なまでの執着の結晶であった。


 周囲を覆うのは、冷たい石壁と、見たこともない豪華な装飾。高い天井からは冷徹な輝きを放つシャンデリアが吊るされている。 その直後、視界を白濁させるほどの苛烈な閃光が走り、鼻腔を突く濃密な血の匂いが立ち込めた。


 石造りの部屋の外からは、逃げ惑う人々の絶望的な絶叫と、それを無慈悲に踏みつぶす軍靴のような響きが、耳をつんざくほどやかましく入り混じっていた。広大な回廊を震わせるその足音は、死の影から逃れようと足掻く者たちの悲鳴をかき消し、蹂躙していく。


 意識が混濁する中、リリィの瞳は、部屋の中央に佇む二つの影を捉えた。


 一方は、死神のように巨大な『白い化け物』。その全身は、生を拒絶するような不気味なほどに無垢な純白の甲殻に包まれていた。だが、その白さは大量の返り血によって無残に汚され、全身が禍々しい鮮紅に染まっている。


 何より恐ろしいのはそのかおだった。その頭部は、爛々と輝く鋭い紅い眼と、顔の下半分を割るように裂けた大きな口だけで構成されていた。鼻や耳はなく、滑らかな甲殻に覆われている。口の隙間からは無数の鋭い牙が覗き、吊り上がった口角が、まるでこの世の理を嘲笑う巨大な『笑み』のように見えた。


 天を突く二本の巨大な角を戴いたその怪物は、殺戮の気配を纏い、圧倒的な威圧感をもってリリィを見下ろしている。その死装束のような、どす黒い紅色と白い体の隙間からは、鋼をも容易く引き裂くであろう凶悪な両手の鉤爪が覗き、ただ『破壊』という一点のみを目的とした冷たい殺意を放っていた。


 その瞳には感情など存在せず、ただ『破壊』という一点のみが冷たく燃えている。そこには生命の温もりなど微塵も残っておらず、ただ禍々しい殺意を放つばかりであった。


 そして、その怪物を従えるようにして、一人の女がゆっくりと歩み寄る。真っ白い羽のようなドレスを揺らすその姿は、子供の目から見ても信じられないほどに美しく、けれど、それ以上に恐ろしかった。自分とはあまりにかけ離れた、完成された大人の女性としての気高さ。すべてを支配する者にふさわしい、圧倒的なまでの魔力の波動が、部屋中の空気を凍りつかせている。怜悧な瞳の奥には、万物を掌握する者の傲慢さと、弱き者を塵あくたのように見なす冷徹さが同居していた。


 女は無慈悲に杖を向け、リリィの魂そのものを凍結させる死の宣告を囁いた。途切れた意識の中へ、その呪いのような言葉が突き刺さる。


「……くさび……と……なるのじゃ……」


「この『飛翔の魔女』が……おぬしを……ときごと止めてやる……わ」


 その瞬間、放たれた『確定した白』が世界を白銀に焼き尽くし、意識は断絶した――。


「……あ、……あぁ……っ……」


 現実の丘の上。リリィは激しく過呼吸を起こしながら、緑の草むらへと崩れ落ちた。 真っ青な顔でガタガタと震える彼女を、カイが慌ててその腕に抱きとめる。ドゥカは本能的な危機感を察知したのか、険しい表情で周囲を警戒し、ミルトは不安に震える手でリリィの背を何度も、何度もさすり続けた。


「どうしたリリィ! しっかりしろ、一体何が見えたんだ!」


 カイの叫び声で、リリィはようやく『今』へと意識を繋ぎ止めた。しかし、その瞳からは生気が失われている。


「……だめなの。カイ。白……白だった。十年後の私を見ようとしたのに、真っ白だったの……。その数か月前も、真っ白い闇が待ってた……」


 リリィの細い肩が、恐怖で目に見えて震える。カイは彼女の体を折れそうなほど強く抱きしめるが、その温もりさえ今の彼女には届かない。虚空を見つめる彼女の唇が、呪文を唱えるかのように再び動き出す。


「あの女の人が……真っ白い羽みたいなドレスを着た、『飛翔の魔女』を名乗る女の人が出てきたら、もう全部が白くなって……。そこに、大きなツノが生えた、真っ白な化け物がいたの……」


 リリィはそこで一度言葉を切り、あまりの恐怖に自分自身の細い腕を、指先が白くなるほど強く、強く抱きしめた。


「……でも、その白い化け物は、ただ白いだけじゃない。その体が、誰かの返り血を浴びて……真っ赤に、真っ赤に染まってるの。鼻も耳もなくて、裂けた口で笑うその白い体が、真っ赤に汚れて……。その姿で私を見下ろして、悲しそうに、でも残酷に……」


 その名を口にした瞬間、耐えきれなくなったリリィの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。


 二十歳になる数か月前に、あの魔女を名乗る女が、自分を殺しに来る。逃げようとしても、抗おうとしても、そこには塗り潰された白しかない。どこを探しても、あそこから先へ続く道はないのだと、彼女は魂を削るようにして語った。


 かつて愛する母・マリィを飲み込み、父を狂わせたあの絶望が、次は自分を刈り取るために、逃げ場のない場所で待ち構えている。だが、カイだけは決して諦めなかった。


「関係ない! 回避できないはずの運命なら、俺がもっと強くなって、その運命を力ずくで変えて見せる! 魔女が来る前に、その『白』を俺たちが塗り替えてやるんだ! 俺はそのために、世界で一番強いお前の『護り手』になってやる!」


 ドゥカもまた、カイの言葉を継ぐように、力強く大地を踏みしめた。 「リリィ、安心しろ。カイがしくじったとしても、この俺がその魔女とやらを叩き斬ってやる。俺がお前たちを守る。この『三角』の石にかけて誓う!」


 ミルトは涙を浮かべながら、リリィの冷たくなった手をギュッと握りしめた。 「リリィちゃん……私たちがずっとそばにいるから。ぜ、絶対、一人になんてさせないよ」


 カイの瞳には運命への怒りが、ドゥカの背中には戦士としての真摯な決意が、そしてミルトの祈りには仲間への溢れるような慈愛が宿っていた。


 だが、リリィは彼らには、どうしても語ることができなかった。 自分が視た凄惨な終焉の光景の中に、自分以外の三人の姿も……そして、たった今、永遠の絆を誓ってミルトから受け取ったばかりの、あの虹色のお守りさえも、何一つ映っていなかったということを。未来の自分の胸元には、祈りを込めたあの石がないのだ。


 今さっき、ミルトから「一生大切にする」と約束して受け取ったばかりの、あの『四角』い石がない。肌身離さず持っているはずの虹色の輝きはどこにもなく、代わりに自分の肌に深く突き刺さっているのは、無機質で冷酷な銀の針だけ。


 自分たちを繋ぐはずだった誓いの証が、自分の身から失われている。その事実が、リリィには何よりも恐ろしかった。それは単に石を失くしたということではなく、今の自分たちが信じている『絆』や『祈り』が、未来のあの場所には一片も届いていないことを突きつけられた気がしたからだ。


 ただ、その場にいなかっただけなのか。それとも――。


 もしあの場に彼らがいたとしても、あの『白い化け物』を前にしては、到底無事では済まないだろう。それならばいっそ、誰もいない方がまだマシだ。絶望の光景の中で一人取り残された恐怖よりも、大切な仲間を自分の絶望に巻き込みたくないという切実な願いが、リリィの口を固く閉ざさせた。


「……三人とも、ありがとう。……このことは、私たち四人だけの秘密にして」


 リリィはこの予知の内容を、大人たちには決して明かさないことを決めた。もし里の大人たち、あるいは祖母のジルに知られれば、返ってくるのは「運命を受け入れ、諦めろ」という無慈悲な説得に違いない。必死に抗おうとした父を座敷牢に繋ぎ、死を待つ母をただ見守った大人たちの『当たり前』という名の諦念を、リリィは決して信じることができなかった。


「自分たちだけで、運命を変える」


 その無謀な誓いを胸に、四人はそれぞれの道で血の滲むような修行に身を投じていく。だが、その決意の根底は、すでに静かに、決定的に食い違っていた。


 カイ、ドゥカ、ミルトの三人は、何よりも大切な『リリィの命』を共に救い出すために、その力を求め。 リリィただ一人は、愛する『仲間の命』を自分の絶望に巻き込まないために、たとえ自分一人が犠牲になろうとも、仲間だけは守り抜くという心の強さを求めたのだ。


 互いを想うがゆえに生じた、孤独な祈りとすれ違い。


 リリィは『自分自身の消失』を避ける可能性を探るため、そして何より母と同じように、愛する者たちを遺して逝く運命を拒むために。祖母ジルの課す過酷な修行に、その身のすべてを捧げていく。


 それが、数年後に訪れる凄惨な別離への、始まりの誓いであるとも知らずに。

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