第三話 『泥濘の執念』 慈愛なき未来の監獄

 ジグルが辿り着いたのは、隠れ里から最も近い場所に位置する、大陸有数の規模を誇る学術都市だった。そこには白亜の壁に囲まれた巨大な病院がそびえ立っている。天をくような尖塔と、鏡のように磨き上げられた石畳。この周辺地域において、これほどの設備と医師を備えた場所は他になかった。


 ここより高度な医術を求めるならば、軍事大国である帝国へ向かうほかない。しかし、帝国へはどれほど急いでも一月はかかる。一刻を争う今のジグルにとって、選択肢は最初からこの都市の大病院以外には存在しなかった。だが、そこで彼を待っていたのは、診断以前の冷徹な拒絶だった。


「患者本人がいないだと? 冗談はやめたまえ。伝聞の症状だけで診断しろというのか。ここは空想家の遊び場ではない。帰りたまえ、狂人の相手をしている暇はないのだ」


 里を明かせぬジグルは、患者が誰か、どこにいるのかという問いに、ただ口をつぐむしかなかった。その曖昧な態度を高名な医師たちは傲慢に鼻で笑い、衛兵を呼んで彼を不浄の物のように追い出した。 石畳に叩きつけられながらも、ジグルは胸元に隠した紙束だけは死守した。そこには、マリィが必死に書き記した『死の予知』が、一文字の狂いもなく書き写されている。


 それから数日、ジグルは寝る間も惜しみ、大通りの立派な病院から路地裏のすすけた診療所まで、狂ったように門を叩き続けた。身なりは汚れ、目は血走り、その姿はもはや不治の病を救おうとする者ではなく、死神に取り憑かれた男のようであった。


 そしてようやく、街の最果て、スラムの境界に位置する場末の診療所で、一人の老医師がジグルの持ち込んだ記録に目を留めた。その医師は、かつて中央の病院で異端として追放された、名の知れぬ天才であった。埃の舞う診察室で、老医師は震える手でその記録を読み耽り、やがて深く、重い溜息をついた。その吐息と共に下された言葉は、氷の楔となってジグルの胸に深く突き刺さった。


「……気の毒だが。この症状が出た後では、もはや地の底を這いずり回っても、天に祈っても、手の施しようがない。手遅れじゃよ」


 老医師の言葉に、ジグルが食らいつく。


「嘘だ! 何か、何か方法があるはずだろ!? 何だってする、どんな対価だって払う! 私の命でも、魂でも、必要なら差し出してやる! だから……見捨てないでくれ!」


 老医師は苦々しく顔を歪め、手元の記録に視線を落としたまま、言葉を継いだ。


「……もし、発症の半年前ならな、発症を防げたかもしれん記録はあった。自覚症状すら出ぬ『わずかな兆候』を見抜き、その瞬間に処置を始めておれば、の話じゃが。……だが、その記録とて、別の不運な患者を治療しておる最中に、たまたま偶然見つかった代物でな。普通なら、そんな初期に病に気づくなど……それこそ神様でもない限り不可能じゃ。君が連れてきたいというその方は、症状を自覚した時にはもう、間に合っておらんかったんじゃよ」


 医師の言葉は、救いではなく、ジグルの心に消えない傷を刻みつけた。マリィに残された時間は、すでに数か月。そして、彼女が予知した病が発症する日は、今からわずか一か月後であった。彼女が未来を視たその瞬間、運命はすでに『手遅れ』の領域に踏み込んでいたのである。


「……分かっていた時には、もう手遅れだと言うのか……!」


 『未来を予知できる』はずの力が、最も救いたい人のためには、ただ『間に合わなかった』という事実を突きつける残酷なだけの宣告に成り下がっていた。ジグルは拳を握りしめ、膝を突き、喉の奥から絞り出すような、声にならない絶叫を上げた。


 一方で、ジグルと別れて『腕利きの医者』を捜していたトレルもまた、行き止まりの絶望に突き当たっていた。


 本来、行商としてのトレルは誰よりも慎重で、冷静な男だった。里の安全を守るため、外の世界では決して目立つ真似はせず、情報の尻尾も残さない。それが彼の誇りであり、役割だった。


 しかし、親友の魂が摩耗し、壊れていく様を間近で見てきた彼は、いつしかその信条をかなぐり捨てていた。なりふり構っていられなくなった彼は、ついに禁忌の領域――暗渠あんきょの奥深くで『禁じられた薬』を扱う闇の薬種商の元を訪れていた。トレルが差し出したマリィの症状の記録を、毒や死を商うその男は冷笑を浮かべて一蹴した。


「無駄だ。この病気は、どんな秘薬も、悪魔との契約も効きゃしない。この病気にかかったことを不幸だと、諦めな。噂では過去に治療できたって記録もあったというが、俺は信じねえな」


 表の医術も、裏の秘薬も、すべては「不可能」という結論で一致していた。トレルは力なく立ち上がった。ジグルの親友として、マリィの友人として、必死に手を尽くした彼にも、もはや持ち帰るべき希望は何も残っていなかった。


 しかし、ジグルはまだ諦めなかった。正常な手段で救えぬのならと、さらに禁忌の深淵へ足を踏み入れる。彼は里の戒めを捨て、あらゆる病を治し、理に背いて『死すらも覆す』という『外法の魔術師』を、狂ったように捜し求めた。 場末の酒場の地下、影に潜む情報屋に、彼は泥まみれの金貨を叩きつけた。


「……なんでもいい、噂でも、禁書の一節でも構わない! ことわりの外側にいる者、死を否定する力を持つ者の居場所を教えろ!」


 愛する妻を救いたいという一念に目を曇らされた彼は、もはやそれが正道であるか否かなど、どうでもよくなっていた。だが、そのなりふり構わぬ執念が仇となる。


 薄暗い廃屋の奥、一人の男がジグルの前に現れた。男はどこか軍人じみた硬質な空気を感じさせたが、焦燥に駆られたジグルには、それが救世主のようにすら見えていた。


「あんたが、どんな絶望も覆せるという『癒やし手いやしで』か……?」


 ジグルは震える声で問いかけた。対峙する男は、感情の読めない瞳でジグルを観察し、静かに頷く。


「……条件次第ではな。だが私の術は、土地の精霊の加護が強い場所でなければ真の力を発揮できない。お前が住んでいるというその『隠れ里』、そこなら死にかけの女を救うことも可能だろう」


 その言葉に、ジグルの瞳に狂おしいほどの希望の灯が宿る。里を売ることになるという危うささえ、今の彼にはマリィの命を繋ぐ天秤の皿に乗らなかった。


「里へ……!? 里へ来てくれるのか! ならば、どんな対価でも払う。俺の命か? 魂か? マリィが助かるなら、なんだって差し出してやる!」


 身を乗り出し、男の腕を掴んで懇願するジグル。しかし、彼が接触したその男は、救世主などではなかった。彼は、大陸を震撼させる軍事国家の命を受け、隠れ里の秘密を長年探り続けていた国の密偵だったのである。


「……交渉成立だ。案内しろ。お前の望む『奇跡』を見せてやろう」


 男の薄い唇が、暗闇の中でわずかに釣り上がった。ジグルはその笑みの意味を、地獄の底で見つけた救いの光だと信じ込み、男を伴ってひた走った。愛する妻の命を繋ぐためのその一歩が、里の数千年の静寂を切り裂く『毒』を招き入れていることなど、微塵も疑わなかった。


 だが、彼が里の境界へ近づくよりも早く、結界の内側ではすでに『断罪』の準備が整っていた。「医師を伴って帰還する」というジグルの行動は、里の安寧を乱す裏切りと見なされた。彼が連れ込もうとしている男が引き金となり、数日後、隠れ里の場所が外部に露見する最悪の未来を、里の『詠み手よみて』たちは既に視ていたのである。


 そもそも、この悲劇の糸は彼らが里を出た瞬間から手繰り寄せられていた。身元を伏せた男――トレルが不治の病の情報を携え、診断を求めて奔走している。その噂を掴んだ軍事国家の密偵は、行商である彼の不自然な動きに目をつけた。


 患者を連れず、頑なに『診断』のみを求める異様な執着。そして、本来は隙のないはずの行商が、焦燥のあまり漏らした里の断片。密偵は、この男の背後には今の地図には存在しない『空白』があると断定した。


 彼の仲間のジグルが外法の救いを求めていることを突き止めると、自ら『癒やし手』を装って接触し、その絶望を餌にして隠れ里の場所を案内させたのである。


 ジグルの脳裏には、妻が微笑む再会の光景しかなかった。しかし、森の境界に踏み込んだ瞬間、彼を待っていたのは歓待ではなく、冷え切った殺気だった。 里の掟と秩序を優先した長老ジルの命により、帰還しようと境界近くに辿り着いたジグルは、待ち構えていた『護り手まもりて』たちによって即座に拘束された。連れてきた男は、その場で正体が暴かれ、境界近くに仕掛けられた罠によって始末された。


「離せ! なぜ邪魔をする! 救えるんだ……あと少しで、マリィを救える医師を連れていけるんだぞ!」


 叫び、暴れるジグル。だが、かつての仲間たちは無言のまま、非情な力で彼を制止した。ジグルは激しく抵抗する間もなく目隠しをされ、里の奥深くにある座敷牢へと引きずられていった。重いかんぬきが下りる、冷たく乾いた響き。それが、ジグルの最後の希望が断絶した音だった。


 ジグルが牢の格子を叩き続け、呪詛を吐き散らす間にも、運命の針は正確に進んでいく。やがて予知の通りにマリィは病を発症し、急激にその身を衰弱させて床に伏した。 幼いリリィは、薬師のルトナと共に、懸命に母の看病を手伝った。薬草の苦い香りが立ち込める薄暗い部屋で、リリィは母の火照った手を握り、何度も冷たい手拭いを替えた。


「リリィちゃん、よく頑張っているわね。貴女のその優しい手は、きっといつか誰かの救いになるわ……」


 ルトナの励ましに、リリィは小さく頷いた。自分もいつか、母を、あるいは誰かを救える力が欲しい。そう願わずにはいられなかった。しかし、どれほど祈り、その手を握り続けても、確定した運命の濁流を止める術はなかった。


 死の直前、一瞬だけ意識を取り戻したマリィは、霞む視界の中で愛娘の顔を探し、弱々しく微笑んだ。


「……リリィ、ごめんね。パパに……お店、手伝えなくてごめんねって、伝えて……」


「やだ、そんなの言わないで! パパも、すぐ来るよ! お買い物終わったら、みんなでピクニック行くって約束したでしょ……! なな色の石、探しに行くんだから……っ!」


 縋りつくリリィの小さな手を、マリィは最期の力を振り絞って握り返した。


「……いい子ね。リリィ、貴女は、どうか……未来を、怖がらないで。貴女のる光を、信じて……」


 それが、母が遺した最後の言葉だった。マリィの瞳から光が消え、握りしめられていた手が力なく解けた。


 やがて、運命の針が残酷な終局を指した。母・マリィが息を引き取ると、里中に弔いの鐘が響き渡った。亡骸の前で膝を突き、声を上げて泣きじゃくる四歳のリリィ。その小さな肩は、もはや戻らない温もりを求めて激しく震えていた。


「ママ、おきて……! パパも、もうすぐくるから、おきてよぉ……!」


 縋り付いて泣くリリィの声を、牢の中にいたジグルはどのような思いで聞いていたのだろうか。ようやく解放され、変わり果てた妻と対面したとき、彼の魂はすでに修復不可能なほどに壊れていた。ジグルは亡骸に縋り付き、獣が咆哮するかのような声を上げて泣き崩れた。


 だが、泣き沈むリリィの肩を抱き上げることもなく、ジグルは燃え上がるような憎しみのこもった瞳で里の大人たちを睨みつけた。


「……未来がめても、お前たちは何も救わない。ただ、死を待つだけの檻に、この里を閉じ込めているだけだ……!」


 絞り出すような呪詛を里に残し、ジグルは最愛の娘さえも置いたまま、たった一人で里を去った。父の背中が森の向こうへ消えていくのを、リリィはただ涙で見送することしかできなかった。


 独り残されたリリィの拠り所は、母が遺した形見の櫛だけだった。鏡の前で、母がしてくれたように毎日丁寧に髪をかす。そして時折、伸びた分だけを不器用にはさみで切り揃える。その栗色の髪が、母と同じセミロングであることだけが、リリィと亡き母を繋ぐ唯一の絆だった。


 祖母・ジルの手で育てられ、母の死と父の失踪という拭えぬ影を背負いながら、リリィは皮肉なほど鋭く『詠み手』としての資質を開花させていった。


 ――それから、五年という歳月が流れた。


 十歳になったリリィの視界に、再びあの不吉な色が混じり始める。それは母を奪った病の影よりも、さらに巨大で、すべてを呑み込むほどに昏い『白い闇』だった。

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