第二話 『綻びゆく平穏』 抗う者と諭す者

 避けられない運命の終局――『白い闇』。


 この里に住むリリィという少女にとって、寿命以外の理由で訪れるその色は、単なる伝承や古めかしい戒めなどではなかった。 それは幼い彼女から慈愛に満ちた平穏を奪い、家族の絆を根こそぎ引き裂いていった、逃れられぬ『呪い』そのものであった。


 悲劇の記憶は、リリィがまだ四歳だったあの頃にまで遡る。


 リリィの母・マリィは、里でも一、二を争う器量の持ち主であった。艶やかな栗色の髪を揺らすその微笑みは、戦火の絶えない大陸の片隅にあるこの里において、人々の心を照らす柔らかな光でもあった。


 彼女は未来を視る『詠み手よみて』の筆頭であり、その資質は里の長である義母・ジルさえも凌駕りょうがしていた。 通常の『詠み手』が視通みとおせるのは数日が限界とされるなか、彼女は『数ヶ月先』という遥か遠くの未来までをも鮮明に手繰り寄せることができた。彼女が視る未来は鏡のように曇りがなく、里の人々はマリィを明日を照らす『聖女』として崇めていた。


 あの日も、いつも通りの朝だった。 マリィは夜明けと共に、二人の『護り手まもりて』を伴って境界線の巡回へと向かった。一刻(約二時間)以上の時間をかけ、自分の足で土を踏みしめ、境界の草木の揺れを網膜に焼き付ける。 この『今日という歩みの記憶』こそが、数か月先の自分が同じ場所に立っているという確信――未来への地図を描くために欠かせない儀式だった。


 巡回を終え、一度家に戻ったマリィを迎えたのは、腕を振るった温かなスープと、家族の笑い声だった。


「リリィ、しっかり食べて。今日はパパと一緒にお店を手伝う約束でしょ?」


 マリィが優しく髪を撫でると、四歳のリリィはスープを頬張りながら元気に頷いた。


「うん! あたし、パパの代わりに大きな荷物も運ぶんだから!」


「ははは、そいつは頼もしい。けど、リリィが運ぶのはお店に並べるリンゴ一個からだな」


 向かいに座る父・ジグルが、深い愛情を込めて妻子を見つめ返した。ジグルは薄茶色の髪を無造作に束ねた精悍な風貌の男である。彼は『支え手ささえて』の中でも外の世界と繋がる行商人を営み、里の商店を切り盛りする真面目な父親だった。


「もう、ジグル。リリィは本気なんだから笑わないであげて」


「いや、あまりにリリィがマリィに似てきたもんだから、嬉しくてな。……今日も美味いよ。食べるたびに言ってるが、マリィの料理は世界一の御馳走だ」


 ジグルはその大きな手で娘を抱き上げ、笑いながら食事を平らげた。


「ふふ、お世辞でも嬉しいわ。……ねえジグル、今度の行商から戻ったら、三人で裏山の清流へ行きましょう。予知によれば、来週の午後はとても穏やかな小春日和になるみたいだから」


「ああ、約束だ。リリィ、楽しみだな?」


「うん! お外でピクニックだね!」


「あそこの川にはね、お日様に当たると七色に光る珍しい石があるのよ。今度一緒に探しましょうね」


「なな色!? ぜったい見つける!」


 三人の笑い声が小さな家に満ち、湯気の向こうには疑いようのない幸福が揺らめいていた。マリィにとって、このささやかな食卓を守ることこそが重責を担う最大の理由であり、夫・ジグルとの絆は魂の安らぎそのものだった。


 食事を終え、愛する夫と娘に「行ってくるわね」と微笑んで見送られながら、マリィは中央広場へと向かった。先ほど巡回して焼き付けたばかりの景色を道標に、彼女は壇上で静かに意識を未来の自分へと飛ばした。


 彼女の意識は、時間の潮流を滑るように遡り、まずは数ヶ月先の『限界点』へと到達する。そこから現実に向かってゆっくりと記憶を『巻き戻し』、里の平穏を確認していくのが彼女のいつもの日課だった。


 しかし、その日の予知は、これまでと決定的に違っていた。


 意識を飛ばした最果て、数ヶ月後の自分の記憶を「再生」しようとしたその瞬間。視界は鮮明な色彩を失い、底知れぬ無の深淵――『白い闇』が爆発するように広がった。


 マリィは動揺を抑え、指先で震えるフィルムを繰るように、何度も意識を『巻き戻し』ては『早送り』し、その境界線を特定しようと試みた。しかし、どれほど時間の解像度を高めようとしても、ある一点を境に、未来の自分という『主観的な記憶』は、まるで断崖絶壁から突き落とされたかのように、ぷつりと断絶している。


 その数か月後の一点で、自分は確実に死ぬ。


 儀式の場から、凍りついたような顔で戻ったマリィ。 微笑みは消え失せ、頬からは血の気が引き、その足取りはおぼつかない。 開店準備を進めていたジグルは、ただならぬ妻の様子にすぐさま駆け寄り、その細い肩を抱き寄せた。


「マリィ……!? どうした、顔が真っ白じゃないか。予知で何か、悪いことでも視えたのか?」


 マリィは震える唇を噛み締め、何とか言葉を絞り出そうとした。 だが、彼女が事実を口にするよりも早く、報せを追うように『護り手』の筆頭、イルトが店を訪れた。


「……ジグル、手を止めて聞いてくれ。今、儀式を終えたマリィの予知に、『白い闇』が出た」


 その言葉を聞いた瞬間、ジグルの身体が凍りついたように強張った。 衝撃のあまり、腕の中のマリィを壊れ物を守るように強く抱き寄せたまま、力なく後退あとずさる。その拍子に背中が棚に当たり、並べていた陶器が床へと滑り落ち、乾いた音を立てて砕け散った。


 絶望に突き落とされ、妻を抱いたまま自身も崩れ落ちそうになるジグルの肩に、イルトはそっと手を置いた。それは親友を繋ぎ止めようとするかのように強引で、しかしいつくしむような重みがあった。イルトは二人の痛みを共有するかのように、沈痛な面持ちで続けた。


「俺だって信じたくはない。だが、里で随一の能力を持つ彼女が、自らの最期を克明に視てしまったんだ。……ジグル、残された時間をマリィとリリィのために使ってくれ。それが俺たちにできる、せめてもの願いだ」


 だが、ジグルは力強くその手を振り払った。 瞳に宿るのは静かな受容などではなく、燃えるような拒絶の色だった。


「逃れられない死!? そんなはずがあるか! 未来が分かっているなら、原因を叩き潰して変えられるはずだろう!」


 ジグルは震える手でマリィを椅子にそっと座らせると、激情に突き動かされるまま叫び声を上げた。そのまま店を飛び出そうと足を踏み出した、その時だった。


「……パパ? どうしたの……?」


 足元で、小さな声が響いた。 そこには、店先で一部始終を見ていたリリィが立っていた。大好きな父親の見たこともない形相、砕け散った陶器の音、そして椅子に力なく崩れた母親の姿。 幼い彼女には何が起きているのか全く理解できず、ただ本能的な不安に小さな肩を震わせ、瞳を揺らしていた。


 ジグルは一瞬、我が子の声にぴくりと肩を揺らした。その視線がわずかにリリィへと落ちる。しかし、今の彼には娘を抱きしめてやる余裕すら残されていなかった。愛する妻を失うという恐怖が、彼から父親としての穏やかさを剥ぎ取っていた。


「パパ……いかないで」


 リリィは不安に耐えかねて、ジグルの服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめた。これまでは、こうすればパパは必ず笑って抱き上げてくれた。けれど、あの日返ってきたのは、かつて経験したことのない拒絶だった。


「……離すんだ、リリィ」


 ジグルはその手を、驚くほど無機質な力で引き剥がした。小さな指先が父の温もりを求めて空をかき、ぱらりと離れる。振り切られた手のひらに残ったのは、冬の風のような冷たい感触だけだった。


 ジグルはリリィの顔を見ることもできず、そのまま絶望を回避する望みを求めて、店を飛び出した。


 石畳の広場へ躍り出たジグルの前に、追いついたイルトと、事態を察して駆けつけた『護り手』のカドゥが立ちはだかる。ジグルの呼吸は獣のように荒く、その拳は白くなるほどに握りしめられていた。


「離せ! どけ、イルト! そこを通せ!」


 親友同士の激しい言い争いに、広場の者たちは息を呑んだ。そこへ、里の長であり、ジグルの実母でもあるジルが静かに歩み寄る。その瞳には、慈愛よりも厳格な『長』としての色が宿っていた。


「ジグル、いい加減になさい。確定した『白い闇』に抗うことはことわりを乱すこと。外の世界へ助けを求めるなど、一歩間違えれば里の秘匿を破る毒杯となるでしょう。一人の命のために、千人の安寧を捨てるというのですか!」


 母の峻烈な言葉に、ジグルは足を止め、地を這うような低い声で応えた。


「……母さん、あんたにはマリィの余命が、ただの『数ヶ月という数字』にしか見えないのか? 俺にとっては、今この瞬間から始まっている『残酷な拷問』なんだ! 掟を守って指をくわえ、愛する女が底なしの虚無に飲み込まれていくのを、ただ見送れと言うのか!」


「ジグル!」


「里の場所は漏らさない……絶対にだ。俺だって、ここには守りたい奴らがいる。だが、俺はマリィを諦めない。たとえ天を敵に回しても、俺は『答え』を掴んで戻ってくる!」


 ジグルは、母の制止を、そして里のすべての視線を背に受けながら、一歩も引かずに宣言した。その瞳に宿る執念は、周囲の者が言葉を失うほどに凄まじいものだった。その瞳に宿る執念は、周囲の者が言葉を失うほどに凄まじいものだった。


 彼は強い執念で、妻の運命を書き換えるべく、行商仲間のトレルや薬師ルトナに詰め寄った。


「トレル、外の世界には未知の医術があるんだろう!? マリィを救える医者がどこかにいるはずだ!」


 トレルは行商の荷を置いたまま、顔を伏せて立ち尽くした。 「ジグル、落ち着け。外の医者を頼れば里の場所が露見する。それは掟に反することだ」


「掟だと!? 掟がマリィの命より大事だと言うのか!」


 ジグルはさらに、診療所から出てきたルトナを問い詰める。 「ルトナ、里一番の薬師のお前ならどうにかできるだろ! 症状を抑える方法は一つもないのか!?」


 ルトナは泣きそうな顔で、マリィの家の方を見つめながら首を振った。 「無茶を言わないで、全く症状が出ていない今の状態では調べようがないわ。ジグルさん、お願いだから今はマリィさんの側にいてあげて……」


 誰に訴えても、返ってくるのは拒絶と諦めの言葉ばかりだった。里の誰もが、マリィの死を『変えられぬ運命』として、静かに受け入れようとしている。


 しかし、ジグルにそんなことはできなかった。予知から数日間、彼は非難を覚悟で、なりふり構わず周囲を動かし始めた。


「頼む、一週間先でいい! お前たちがリリィと遊んでいる未来の中に、何か異変はないか!? 背景の隅にでも、マリィが咳き込んでいたり、顔をしかめていたりする姿が映り込んでいないか視てくれ!」


 本来、数日先までしかることのできない詠み手に、数ヶ月先の死の原因を問うのは時間の無駄でしかない。ジグルもそれは分かっていた。だが、リリィと仲の良い『詠み手』や、一週間先まで視通せる実力者なら、針の穴を通すような確率で『手がかり』を視ているのではないか――そんな絶望的な足掻きに縋るしかなかったのだ。


 『詠み手』たちは、ジグルに急かされるまま、自分たちの能力の限界点である数日先の闇の向こう側を、血の滲むような思いで覗き込もうとした。意識を無理やり『早送り』し、視えぬはずの未来に手を伸ばし、情報の断片を拾い上げようと必死に足掻く。


 しかし、他人の主観をいくら繋ぎ合わせても、得られたのは霧のような断片に過ぎなかった。結局、死に直面しているマリィ自身の『目』から情報を引き出すしかないのだ。


「……すまない、マリィ。だが、もう一度視てくれ。もっとだ……瞬きする間の変化も見逃さないくらい、じっくりと、隅々まで視るんだ! 病気が始まる瞬間の予兆がどこかに……!」


 予知とは、未来の自分の記憶を追体験する行為だ。死の瞬間を視ることは、その苦痛を精神的な劇薬として摂取し続けることに等しい。


「何度も繰り返し視るんだ! 巻き戻して、何が起きたのか全部俺に言え! マリィ、頼む、頼むよ……!」


 マリィは夫の震える声に応えるように、血の気の引いた顔で深く頷いた。彼女自身、死の恐怖に震えながらも、それ以上に「ジグルとリリィを残して消えたくない」という執念を燃やしていた。


「大丈夫、ジグル。……まだ、視えるはずよ。リリィの成長した姿を、あなたの隣で一緒に見る未来が……どこかにあるはずだわ」


 彼女は自ら、自分を殺す『未来の断末魔』へと意識を投げ入れた。発症が起きる直前の様子を何度も『巻き戻す』ように凝視し、その瞬間の音、肌を刺すような寒気、肺を押し潰される激痛といった『五感のすべて』を現在の肉体で引き受けながら、震える声でその光景を説明していく。


 ジグルの怒号が響く中、死の記憶を何度も心に刻み込まされ続けたマリィは、廃人のように痩せこけていった。もっとも、 彼女がこれほどまでに衰弱したのは、単にジグルに無理を強いられたからだけではない。彼女自身が、家族との約束を守るために――自らを検体として差し出してでも助かる道を見つけようと、精神を限界まで研ぎ澄ませていたのだ。


 しかし、傍目から見たその光景はあまりに凄惨だった。自ら地獄に飛び込みボロボロになるマリィと、それを狂ったように煽るジグル。


 薬師のルトナが絶句し、耐えきれずにジグルの腕を掴んだ。


「もうやめて、ジグルさん! マリィさんは今、未来の自分が死ぬ時の『痛み』や『窒息感』をそのまま肉体で喰らっているのよ! 私たちには見えない地獄を、彼女は健康な体で何度も体験させられているの。これじゃ心が壊れてしまうわ!」


「黙っていろ、ルトナ! お前はマリィから聞いた情報を元に病名を絞り込み、薬を調合しろ。トレル、お前もだ。俺は一度里を出て大きな街の医者を当たる。お前は別のルートで、腕利きの医者や薬師を当たってくれ。頼む、二人とも……お前たちだけが頼りなんだ!」


 ジグルはマリィが命懸けで持ち帰った情報をすべて脳に刻みつけ、ルトナは震える手で薬草を、トレルは沈痛な面持ちで旅路の準備を始めた。ジグル自身もまた、周囲の制止を力ずくで跳ね除け、外の世界へと飛び出した。


 里に取り残されたリリィは、ただ困惑の中にいた。 あの日を境に父は戻らなくなり、母は日に日に生気を失っていく。


「ねえ、ママ……パパはどこへ行ったの?」


 リリィが震える手でスカートを掴むと、マリィは無理に作った微笑みで娘を抱きしめた。


「パパはね、遠くまでお買い物に行ったのよ。リリィ、大丈夫。来週には戻ってきて、一緒に七色の石を探しに行きましょうね」


 その優しい声を聞きながらも、リリィの脳裏には、あの日、無造作に振り払われた自分の手の感覚がしつこく残っていた。父は、私を見なかった。私を置いて、一人でどこかへ行ってしまった。


 お買い物に行くだけなのに、どうしてあんなに怖い顔をしていたのだろう。


 リリィは自分の小さな右手を、もう片方の手でそっと包み込んだ。数日経った今も、そこには父に拒絶された時の痺れるような痛みがこびりついているような気がした


 だけど、その約束だけが、リリィにとって唯一の光だった。 しかし母の腕は冬の枯れ木のように震えており、その瞳は誰もいない窓の外の空を、恐ろしい死の足音でも聴いているかのように見つめていた。


 必死の思いで外の世界へ向かったジグルとトレル。 だが、二人がそれぞれの場所で突きつけられたのは、あまりにも残酷な回答だった。

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