第二部:虹色の誓いと、白き絶望
第四話 『運命の丘』 虹色のお守り
次代の『
本来、『詠み手』の力とは、あくまで『現在の延長線上』にある近い未来を視るものである。数刻先から数日先の危機を察知し、あるいは近々訪れる吉兆を断片的なイメージとして捉える。それがこの里の平穏を守るための標準的な解像度であった。
だが、リリィの予知は次元が違っていた。
通常の『詠み手』は、未来を見通せる距離そのものに限界がある。村一番と言われた母・マリィでさえ数ヶ月先が限界であり、多くの者は数日先から一週間先を視るのが精一杯であった。しかしリリィは、自らの意志を時間の
たとえ、途中で自身の寿命が尽きる『白い闇』という壁が立ちはだかっていたとしても、リリィの視線はその限界の先、数百年後の虚無までをも容易く射抜いてしまう。ただ純粋に、未来を捉えることのできる『距離』そのものが、他の詠み手とは比較にならぬほど長かったのだ。
この『未来を視る』という感覚は、あたかも意識の中に一本の『時の流れ』を召喚し、それを自在に操作することに近い。未熟な者は未来の映像が飛び飛びに現れ、時間の前後関係すら判然としないが、リリィはその意識の映像を自在に操ることができた。まずは意識を集中させ、自身の能力が届く限界の『先』まで視線を飛ばす。そこから現在に向かって映像を『巻き戻し』たり、気になる箇所を『早送り』したりしながら、細部を精査していくのだ。
それは視覚的な映像だけでなく、その瞬間の音、肌に触れる風、体温の変化、そして病や傷の痛みといった「五感のすべて」を現在の肉体で鮮明に追体験する、恐るべき共感覚であった。
それゆえに、里の最高権威であり、リリィの師でもある祖母のジルからは、血縁ゆえの厳しさと慈愛が混じった、
「リリィ、ゆめゆめ忘れるでない。寿命という
一度言葉を切り、ジルは孫娘の小さな肩に手を置いた。五十代に入り、『詠み手』として最も円熟した時期にある彼女の佇まいは、凛としていて隙がない。その掌は、数多の巡回で杖を握り、里の境界を歩き通してきた鍛錬の証として厚く、力強い熱を帯びていた。孫娘を導く師としての鋭い眼光の奥に、血の繋がった祖母としての深い憂いが宿る。
「己の寿命の範囲内であっても、分を超えて遠い未来を覗き見ることは、精神を焼き切る毒となる。それは、今を生きる者の魂を、確定した未来という名の監獄に繋ぎ止めてしまう禁忌なのじゃ」
ジルの視線が、一瞬だけ鋭く、そして遠くを射抜くように揺れた。それは、かつて救うことのできなかった実子、ジグルとマリィへの拭えぬ悔恨であった。
「……そして、忘れるでない。お前の母が最期まで愛し抜いたこの里の光を。お前の父が、掟を破ってまで守ろうとした温もりを。二人の想いを胸に刻み、不確かな『今』という時を、ただ懸命に生きるのじゃぞ」
祖母ジルの警告は、幼いリリィの心に深く刻まれていた。
あまりに強大な力は、時として運命そのものを狂わせる。長年、里の長として住人たちの最期を誰よりも近い場所で見届け、自らも一線の『詠み手』として現役で里を支え続けているジル。愛する娘マリィが『白い闇』に呑まれ、一族が崩壊していく様を、拒むことも許されぬ最前列で凝視させられ続けた彼女だからこそ、孫娘までもがその力の奔流に溺れることを、誰よりも恐れていたのだ。
リリィはこれまで、最愛の祖母の教えを忠実に守り、波立たない水面をそっと撫でるように、ごく近い明日だけを見つめて過ごしてきた。今日を無事に終え、明日の朝食に何が出るかを知る程度の、ささやかな予知。それが、彼女に許された平穏の形だった。
――そんな不穏な資質を、まだ『予兆』として心の奥底に封じ込めていた頃。 十歳を数える、雲ひとつない晴れた午後のことである。
里を一望できる『予見の丘』の草むらに、四人の子供たちが集まっていた。 爽やかな風になびく、栗色の柔らかなセミロングの髪。見習い用の清廉な白い装束に身を包んだリリィの佇まいは、幼いながらも亡き母の面影を色濃く残し、どこか神秘的な気品を纏っている。
彼女のすぐ隣には、里の『
赤黒い髪を短く切りそろえた彼は、まだ少年特有の細身ながらも、日々の鍛錬によって培われたしなやかな筋肉を予感させる、引き締まった体躯をしている。その瞳の奥には、いつか父のように里を、そして隣にいる少女を守り抜くのだという熱い情熱が宿っていた。彼が纏うのは、『護り手』の象徴たる深い緑と黒を基調とした、見習い用の戦装束である。
もう一人の少年、ドゥカは、カイの親友であり、同時に最大のライバルでもあった。
黒茶の髪をカイよりも少し長めに流した彼は、十歳にしては既にがっしりとした体格をしており、どこか大人びて見える。『護り手』の父・カドゥと、『
そして最後の一人は、心優しい少女、ミルト。
彼女は、『支え手』として行商として外の世界の空気を運ぶ父・トレルと、同じく『支え手』として薬師として里の命を癒やす母・ルトナの愛情を一身に受けて育った。肩まで届く柔らかな黄色の髪は、陽光を透かして蜂蜜のように穏やかな輝きを放っている。その色彩は、彼女が好んで着ている『支え手』の見習い用である、可愛らしいピンク色の服によく映えていた。
「……ねえ、これ。みんなで持っておこうよ」
ミルトが、少し照れくさそうに、しかし大切そうに差し出したのは、四つの小さな虹色の輝きだった。
それは里の最奥、峻険な岩場を流れる清流の源でしか見つからない、陽光を浴びて七色に輝く希少な『虹色の石』。ミルトが指先を赤くしながら、石の表面が滑らかになるまで何日も心を込めて磨き上げ、そこにリリィが静かな祈りを捧げて完成させた、二人で作った世界に一つだけのお守りだ。
ミルトはそれぞれの仲間の個性に合わせ、石を丁寧に削り出していた。カイには太陽のような『丸』。リリィは全てを受け止める受容の『四角』。ドゥカは力強い意志を宿した『三角』。そしてミルト自身には、溢れる愛を込めた『ハート』。
四つの虹色の石がそれぞれの形に磨き上げられ、太陽にかざすと七色の光が、自分たちの未来を祝福するようにキラキラと零れた。
だが、その虹色の輝きを改めて目にした瞬間、リリィの胸に鋭い痛みが走った。 虹色の石は、彼女にとって失われた家族の象徴でもあった。それを見るたび、どうしても思い出さずにはいられない光景がある。
父が再会を期して笑い、母が七色に光る石を探しに行こうと微笑んだ、あの日の朝食。家族三人で行くはずだったピクニック。そして、結局一度も叶うことのなかった約束。母を奪い、父を狂わせ、この里から笑顔を連れ去っていった『白い闇』という名の呪い。父と母を失ってから、リリィの心にはずっと埋まらない巨大な穴が開いたままだった。
しかし、お守りを差し出すミルトの真っ直ぐな瞳を見たとき、リリィは思い出した。この石に自分がどのような想いを封じ込めたのかを。
かつて父や母には届かなかったこの虹の輝きを、今、隣にいる仲間たちと共に、ずっと大切に守り抜きたい。その切実な祈りを、リリィは自らの資質を介してこの石に祈り込んでいたのだ。あの日お守りに託した誓いを、今改めて胸の中で強く噛み締める。掌に馴染むような石の温もりは、長らく凍てついていたリリィの心の穴を、優しく埋めてくれるような気がした。
今度は、もう二度と失わない。 リリィは溢れそうになる涙をぐっと堪え、自分たちの誓いが形になったそのお守りを、震える指先でしっかりと受け取った。
「ありがとう……。一生大切にするね、ミルト」
掌に収まる『四角』い石は、まだ幼い自分には少し重く感じられたが、その冷たいはずの石肌からは、ミルトが込めた温もりと、リリィ自身の祈りが溶け合った確かな熱が伝わってくる。
リリィは、掌に馴染む四角い石をそっと愛おしそうに撫でながら、三人の顔を順番に見つめて微笑んだ。
「あのね。ミルトと相談して、お祈りしたんだ。この石は、大切な人の心と繋がっているんだよ。だから、たとえ離れても、この石がみんなの絆を繋ぎ止めてくれるの」
その言葉は、予知という残酷な力を持つ彼女が、心の底から願った唯一の『魔法』だった。
視線を上げれば、そこには各々の形をしたお守りを手に、未来への希望に瞳を輝かせる三人の仲間がいた。この虹色の輝きが、いつか訪れるかもしれない闇を払う光になると、リリィは信じたかった。
「リリィちゃんの言う通り、これをつけていれば、もし……もしも何かの拍子で離れ離れになっても、心は繋がっていられる気がして。リリィちゃんと一緒に、一生懸命作ったんだよ」
ミルトが言葉を添えると、カイは照れ隠しに赤黒い髪を掻きながら、「……おう、ありがとな。大事にするよ」と短く笑った。ドゥカも「へっ、悪くないな」とぶっきらぼうに応じたものの、その逞しい指先でお守りを愛おしそうに摘み上げると、緑と黒の装束の下、肌身離さぬよう大切に仕舞い込んだ。
仲間の温かい反応を目の当たりにし、リリィは胸元に光る四角い石をそっと指でなぞった。四人の絆が目に見える形になったことが、たまらなく嬉しかった。悲しい記憶の上から、新しい思い出の色彩が鮮やかに上書きされていく。その確信が、リリィの心を内側から温めていた。
そんな幸福感に包まれた、ふとした拍子だった。 リリィの脳裏に、ある好奇心が芽生えた。それは、少し背伸びをしたい年頃ゆえの、ほんの軽い遊び心のつもりだった。
「ねえ……十年後の私たちを、ちょっとだけ見てみるね」
その瞬間、頭の隅で祖母ジルの厳格な声が警鐘を鳴らした。『あまりに遠い未来を覗くことは、掟で禁じられている』。 だが、リリィは無邪気に考えてしまったのだ。数十年先ならいざ知らず、たった十年後くらいであれば、それは『遠い未来』には当たらないはずだ。自分たちの輝かしい成長を少しだけ確認し、みんなを喜ばせる程度のことなら、きっと許されるに違いない――。
その幼い慢心と、未来への純粋な好奇心が、彼女の自制心を容易く上回った。
リリィの提案に、真っ先に反応したのはカイだった。「よ、よせよ! 十年後なんて、どうせ俺は今より身体がデカくなって、剣どころか魔法だって使えるようになってるぜ。リリィやミルト、皆を一番前で守ってるに決まってんだろ。わざわざ確認することじゃないって!」
照れ隠しの言葉とは裏腹に、その瞳には自らの未来への期待が、隠しきれずに宿っている。
そんなカイの横から、ドゥカがニヤリと不敵に笑って身を乗り出した。「俺は見てほしいぜ! 十年後の俺は、カイよりもさらに一回りデカくなって、里で一番の『護り手』になってるはずだからな。なあリリィ、俺がカイを追い抜いてるか、ちゃんと確かめてくれよ!」
「私は……十年経っても、みんなが元気で、今みたいに笑い合えていたら……。それでいいと思うな」 膝を抱えて呟くミルトの耳たぶは、彼女の纏うピンク色の装束に負けないくらい、ほんのりと赤らんでいた。
三人の賑やかな反応を背に、リリィは胸の奥に確かな幸福を感じていた。 みんなの期待に応えたい。未来の自分たちがどんな顔をして笑い合っているのかを知りたい。ジルに禁じられた『遠すぎる未来』ではない。自分たちが立派な大人になっている、その確信を今ここで得たい――。
そんな純粋で無垢な、しかし致命的な過ちを孕んだ好奇心に突き動かされ、リリィは静かにまぶたを閉じた。意識を集中し、次代の『詠み手』として、未来の自分の瞳を通して意識を滑らせる。
時の奔流を逆らわず、十年先の『自分の記憶』へと精神を飛ばした、その瞬間。
穏やかな陽光が降り注いでいたはずの色彩あふれる視界から、すべての色が、唐突に、そして暴力的に剥ぎ取られたのだった。残ったのは、温もりを拒絶するような、不気味なほどに無垢な『白』。それは、かつて母の命を呑み込んだ時と同じ、いかなる抗いも許さぬ終焉の色であった。
死装束のようなその白銀の視界の中で、リリィは自分自身の悲鳴さえも凍りつくような、決定的で残酷な絶望を、五感すべてで追体験することになる――。
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