第3話 三人の要注意人物
日が暮れる頃、春也は自転車を引きながら、無言でジムを出た。京志と出会ってから、眠っていた何かが目覚めたかのようにジムに通っている。街灯のない道を歩いていると、気配を感じる。人気のない細道に五、六人の影がうごめいていた。いたのは
――江藤。マスクを少しズラし、間抜けな口元で近づいてくる。
「よぉ、チャンピオン」
春也は眉ひとつ動かさなかった。が、その足は止まっていた。
「正味な話、俺らのケツ拭く気ないんやろ?」
「……なんやねん、いきなり」
「ずっと見とったで。すっかり加賀谷にとりこまれちゃってよぉ……まぁチャンピオン気取っとっても、所詮はスポーツマンや。“本物の喧嘩”知らんやろ?」
その言葉と同時に、後ろから金属が擦れる音がした。
――ギィィィ……カチャン。
春也が振り向くと、川上が鉄バットを構えていた。
「お前には失望したわ。せやから、落とさせてもらうわ……」
ドンッ!
背後から来たバットの一撃を、ギリギリでかわす春也。次の瞬間、振り向きざまにカウンターのワンツー!川上が一瞬で崩れ落ちる。
「はっ……お前らのケツ、代わりに拭いたったら満足なんか?」
拳を握りしめる春也。ボクシング仕込みのフットワークで、間合いを取りながら攻防を続ける。
――が、数が違う。殴り、蹴り、またバット。ついに後ろの一人に足を払らわれ倒される。鉄バットの横殴りが襲う。
――春也の肩が悲鳴を上げる。
「……お前ら……もう、人やないな……」
江藤が歯の抜けた口元を見せて笑う。
「残念。路上に、レフェリーおらへんなぁ」
その言葉が落ちた、まさにその瞬間――
「おい」
誰かの声が、その場を貫いた。夕暮れに背を向けて立つシルエット。一歩ずつ、ゆっくりとこっちに歩いてくる。
――加賀谷京志。
その場に、ふらっと現れた京志は、春也を無表情で見つめていた。
「なんやお前、ちょろちょろすんなや!」
「別に……狭い街や。たまたま通りかかっただけや」
「……ああ? ほんならこっちは取り込み中や。よそから帰れや」
江藤が手首を払うようにして、邪魔くさそうに吐き捨てる。
「なあ、スポーツマン。ボクシングって、こんなんにも耐えられるん?」
川上が鼻血を拭いながらバットを振りかぶる。京志のことなど眼中にない。地面に倒れている春也は、声も出さない。ただ、睨み返す。その目だけは――まったく折れていない。
(……あいつ)
目の前でやられてる奴に、手を貸す理由なんてない。……けど。
(なんでやろな……)
京志の脳裏に、一瞬だけ過った。――強くなれと言われて、何も返せずに拳を受け続けた、小さい頃の自分。京志は無意識に、足を一歩前に出した。その足音に、江藤の仲間のひとりが気づく。
「お? なんやねん? 新入りぃ、まだ見学すんのか?」
誰もまだ、気づいてない。その目に、殺気が宿ったことに――江藤が苛立ち叫ぶ。
「オイ、なんか言えや春也ァ!」
春也の顔面に蹴りを入れようとした、その瞬間。江藤の腹に、京志の膝が突き刺さる。
息を詰まらせたまま江藤の身体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。衝撃音が鳴り響き、数秒間、誰も動けない。沈黙が落ちる。京志は、地に這いつくばった春也を指差し、静かに言った。
「こいつが弱いんと、お前らが調子乗ってええかどうかは、別の話や」
江藤が倒れたまま呻いている。周りの数人が息を呑む。
「な、なんやコイツ……」
「江藤を一発で……マジで何者やねん……」
京志の目線が、川上に向けられる。ただそれだけで、喉が乾くほどのプレッシャーが襲いかかる。川上は怯えて、バットを地面に落とした。
「……く、くそ……もうええやろ!」
震える声で叫ぶと、江藤の腕を掴んで、引きずるようにその場から逃げていった。
残されたのは、夕焼けと砂ぼこり。春也が立ち上がる。唇が切れて、血が滲んでいた。
「……あんな人数、一人でやれるもんちゃうで」
京志は何も言わない。ただ、じっと春也を見つめている。
「ま……、助かったっちゅうことや。礼は言わんけどな」
京志が初めてふっと鼻で笑った。
「……俺はただ、目ぇ合うたから動いただけや」
春也は少しだけ驚いたように目を細めた。くしゃくしゃのハンカチで口元を拭う。
「はは……お前――目つき悪いで」
ふっと笑い合う二人の間に、どこか風が抜けたような静けさが流れる。
少し歩いたとこにある古びた駄菓子屋の前。春也がラムネの瓶をコツンと京志の瓶に当てた。駄菓子屋のおばちゃんが、春也の傷を見るなり半ば無理やり渡してきたものだ。
「ま、今日はありがとな。喧嘩だけやない。心ん中も男前やったわ」
京志はラムネを飲みながら、どこかぶっきらぼうに返す。
「礼は言わんのとちゃうんか?」
春也は自分のラムネを見つめながら、少しだけ笑った。
「……お前さ、ほんまに西成のことなんも知らんのか?」
「知る必要あるんか?」
「そらあるやろ。ここは良くも悪くも“普通”の街ちゃう。知らんとどえらい目にあうで、マジで」
京志は黙って聞いてる。春也は壁に背を預け、語り始めた。
「うちには、三人の要注意人物がいる」
「……要注意人物?」
「一人目は俺――昔からボクシングやってて、それなりに名は売れとる」
「……お前自分で言うてて恥ずかしないんか?」
「うるさい黙って聞け。二人目が、間柴。デカい図体のやつや。あれは中坊のサイズちゃう。何考えてんのかわからんけったいな奴やけどな」
(……あぁ、あいつか)
「怒らせたら止まらん。喧嘩じゃおれでもキツいかもしれん」
少しの沈黙の後、春也は覚悟を決めたように低く呟いた。
「ほんで……三人目。……後藤竜」
空気が変わった。京志は、「ニトロ」という通称を思い出す。
「 “あいつに関わるな”ってのが、一中の暗黙のルールになっとる。“ニトログリセリン”何が引き金になるかわからん……。学校であいつと普通に話せんのは俺ぐらいなもんや」
京志は瓶を持ったまま、じっと春也の目を見ていた。
「殺人以外全部やっとるって噂されとる。施設育ちで、指導員に包丁突きつけたこともあるらしい。事実かは分からんけど……」
春也の唾を飲む音が響く。
「あいつならって思ってまう……。ほんまもんの“ 狂犬”や」
京志は少しだけ目を細めた。
「……俺に関係あるんか?」
「さあな。でも、竜は“新入り”が好きなんや。とくに“目ぇが据わっとるやつ”は、な」
その言葉の後、沈黙が支配した。春也は立ち上がり、瓶をゴミ箱に放り投げた。
「気ぃつけや、京志。ここでは“目立つ”ことは、生きることとイコールやない」
京志は瓶を片手に、遠くの夕日を見つめたまま、何も言わなかった。
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