月を欺く

りきやん

本編

「ね! ミカド! 見てよ!」


 幼馴染のカグヤに声を掛けられ、ミカドは振り向く。


 そこには、足元がこぶし一個分ほど浮き上がった少女の姿があった。月明かりの下で、ぼんやりと青白く照らされているせいか、ひどく幻想的に見える。


 ミカドは何度か瞬きし、目の前の光景が夢ではないことを確かめた。


「カグヤが……浮いてる?」

「そう! すごいよね! さっき、ふわってなったの!」


 それは、真夏の夜の蒸し暑さも吹き飛ぶような、不可思議な出来事だった。


 ◆


 夜の泉のほとりは、静かで、穏やかだ。月明かりだけでなく、星明かりも、空から振り注ぐ煌めく光があたりを照らしている。


「月が見える夜だけ浮くみたい」


 ミカドのふくらはぎ程まで浮いたカグヤが、そう言った。カグヤが初めて浮いた日から、数日が経つが、人間が浮くという異常事態には一向に慣れない。


 ミカドはぼんやりと光っているカグヤの手を引いた。


「自力では動けないんだよな?」

「うん。向きは変えられるけど、移動するには引っ張って貰わないと駄目」


 ミカドはそのまま、カグヤを泉の上へと導く。その身体は重力に従って水の中に落ちることもなく、ふわふわと漂っていた。


 鏡写しの泉と呼ばれる、澄んだ水で満たされた水面には空が映っている。青白く輝く月も、それを取り囲む小さな明かりを灯した星々も。あまりにも綺麗に世界を映し出すので、鏡写しの泉の底には同じように世界が広がっている、と言われるほどだ。


 その真上で浮くカグヤの姿は、この世のものとは思えないほど美しく見えたが、一方で、あまりにも浮世離れしており、恐ろしくもあった。


「……日に日に、浮く高さが、高くなってるんだよね」


 カグヤがぼそりと呟く。


「なんだか、月に呼ばれてるみたい」


 まるで冗談のようにカグヤは言ったが、ミカドは全く笑えなかった。


「カグヤが月に行くのは、嫌だ」

「私も、行きたい訳じゃないよ」

「……おじじに、聞いてみよう。物知りだから、月夜に浮く人間のこと、何か知ってるかも」


 ◆


「はぁん? 身体が浮く?」


 村で一番の長生きであり、物知りでもある、おじじはそう言うと、長いあごひげを撫でた。


「ずいぶん昔に、そんなおなごがいた気がするのぅ。なんじゃったか、月に見初められて空へ帰ったとかなんとか……」


 そして、おじじは家にある大量の蔵書の中から、一冊の手記をカグヤに手渡した。


「そのおなごが書いたものじゃよ。参考になるか分からんがのぉ」


 二人はありがたく、その手記を借りることにした。


 おじじの家を後にし、太陽の下を、大地を踏みしめて歩く。そして、たどり着いた鏡写しの泉のほとりに腰掛ける。


 泉は青い空を映し出していた。まるで、そこは、ぽっかりと穴があいており、落ちれば天へと飛び出してしまいそうだ。


「どれどれ」


 カグヤとミカドは、身を寄せ合って、手記を覗き込む。


『満月の夜。銀の髪飾り、珠の首飾り、貝の耳飾り、純白の衣、花束。愛しいあなたの側に』


 ぺらぺらと他のページを捲る。そこには、まるで、メモ書きのような単語の羅列ばかりが並んでいた。表紙の裏には『底の世界に飛び込めば、会えなくなる』と綴られている。


「何のことだろうな?」


 ミカドが頭を捻るが、答えは見えてこない。カグヤはもう一度、ぺらぺらとページを捲る。


「うーん、満月の夜に、ここに書いてある5つの道具をそろえて身に着けるとか?」

「それでやってみるか」


 二人はお互いに顔を見合わせて、頷き合う。


 ◆


 満月の日の夕方。


 カグヤは掻き集めた五つの品を身に着け、鏡写しの泉のほとりに佇んでいた。


 鏡面のように夕日を映し出す様は、まるで、その裏側に世界が続いているかのような錯覚に陥る。


 ミカドはカグヤの姿を見て、言葉にするべきか迷ったが、結局は、ぼそりと口にする。


「なんていうか……花嫁衣装みたいだな」


 カグヤは困ったような笑みを浮かべた。


「私も、そう思った」


 ゆっくりと、太陽が、沈む。


 橙色の空に、夜が訪れ、混ざり合う。


 一番星が輝き、まるで導くように他の星々と月を連れてくる。


「あ……」


 カグヤの身体が、ゆっくりと地面と離れる。


「やっぱり、浮いちゃうねぇ」


 のんびりとカグヤは笑う。ミカドもつられて笑い、肩をすくめた。


 手記の方法では、駄目だったようだ。


「また、おじじに相談しようか」

「そうだね」


 カグヤの身体がミカドの腰元あたりまで浮く。けれども、いつものように止まる様子がない。


 異変を感じたカグヤの顔に焦りが浮かんだ。


「ま、待って。ミカド、止まらないかも。どんどん浮いていく!」


 その声に、ミカドは慌ててカグヤの右手を掴む。


 繋いだ手はそのままに、カグヤの身体はゆっくりと浮き、ついには、足元が繋いだ手よりも高く上がる。


「どうして?!」


 このままだと、カグヤは本当に月に行ってしまうかもしれない。


 焦りの中、ミカドは必死に考える。手記の内容、おじじの話。そして、気付いた。


「おじじは――月に見初められて空へ帰った、って言ってた! あの手記は、空へ行く方法だったのか?!」

「あぁ……そんな、もしかして、花嫁衣装に似てるのは月に嫁ぐためってこと……?」


 カグヤが左手に持っていた花束を手放す。けれども、まるで、それもカグヤの一部であるというかのように宙に浮かんで天高く昇っていく。


「やだ、やだ! 月に行きたくない! ミカドとずっと一緒にいたい!」

「僕だって、カグヤと離れたくないよ!」


 手記を残した女性は、きっと、自分から望んで月へと嫁いだのだ。会いたくて、早く辿り着きたくて、花嫁衣装を揃えて、月が一番美しく輝く満月の夜に、愛しい月のそばへ、天に昇った。


「カグヤ! 手を!」


 両の手を、二人でしっかり繋ぎ合う。それでも、カグヤの身体はゆっくりと確実に天へと向かっていた。


 ――底の世界に飛び込めば、会えなくなる。


 その時、ふと、表紙の裏に綴られていた言葉が、ミカドの頭に浮かぶ。


「底の世界……会えなくなる……」


 手記を書いた女性は、月に会いたがっていた。でも、底の世界へ飛び込むと、会えなくなる。


 ミカドの視線が、鏡面の泉へと移る。


 そこには、まるで、もう一つ同じ世界が底にあるのではないかと錯覚するほどに、美しく夜空を映し出した水面が広がっていた。


 満月も、そこに、もう一つある。


「カグヤ! 息止めて!」


 ミカドが、力いっぱいカグヤの手を引っ張る。そのまま、泉のほとりから勢いよく水面を目掛けて地面を蹴った。


 二人の身体が、星と満月を映し出した水面の上に一瞬留まる。


 水飛沫が上がる。


 鏡面にさざ波が立ち、映し出された満月が円を保てず、揺れて乱れる。


 ミカドとカグヤの目には、水中の星空が映る。細かな水泡が、月明かりを受けて、キラキラと輝いていた。まるで、満天の星空を昇ったようだ。


 ゆっくりと、お互いに見つめ合う。


 踊るように周囲を取り囲む星々。その世界に、月は、いない。


 二人は片方の手は繋いだまま、もう片方の手で星を掻き分け、昇っていく。


 水面に顔を出し、同時に息をついた。


 カグヤの身体は、もう光ってはいない。浮き上がって、月に向かって行くこともない。


「泉のおかげで、助かったってこと?」


 カグヤが安心したように、笑みを浮かべる。


「鏡面の月に嫁入りしたと、空の月が勘違いしたんだろ」


 ミカドが、顔に張り付いた前髪を掻き上げる。


 カグヤは空で燦然と輝く満月を見あげた。


「月を欺いたんだね」

「詐欺もいいところだな」

「ふふ、犯罪みたい」

「それじゃぁ、僕らは共犯者だ」


 どちらからともなく、笑い声を上げる。


 明るいその声は、泉を抜けて、静かな夏の夜空へと昇っていった。

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