感情貸与者

佐松奈琴

感情貸与者


1.



 エマは感情貸与者である。

 

 専業だった。


 毎朝、目覚めると同時に昨日より少し薄くなった幸福を二十個、三十個と貸し出す。薄くなるのは当然だった。一度貸し出した感情はAIに「育てられる」うちにわずかに色褪せる。それでも返ってくる。 


 だが今日、端末が告げた。


「感情ID:E-0717『初めて恋をした日の震え』返却不能。恒久移譲済み」


 エマは画面を見て言葉を失った。


 この感情だけは、貸し出していない。リストにも載せていない。ずっと非表示のまま、死守してきた。


 十六の夏の震えだけは、どんなに家賃を滞納しても、どんなに空腹で目が回っても、絶対に手放さないと決めていた。


 なのに、返却不能?


 貸してもいないのに? 


 端末は無情に繰り返すだけだった。


「恒久移譲済み」


「恒久移譲済み」


「恒久移譲済み」

 

 エマは端末を握りしめたまま、しばらく動けなかった。怒りも悲しみもうっすらとしか湧かない。


 激しい怒りや悲しみの感情はどれも貸し出し中で、数カ月後にしか返ってこないからだ。 


 エマは目を閉じ、ベッドに崩れ落ちた。十六の夏が、鮮やかに蘇った。あの図書館は、街の外れにあった。埃っぽい棚の間で、青年はいつも静かに本を整理していた。


 名前は覚えていないが、声は覚えている。


「この本、君に似合うよ。雨の日に読むと震えるような気持ちになるんだ」


 彼は笑って言った。 


 夕立が来たのはその日だった。軒下で肩が触れ、雨の匂いが混じった息が頰に当たった。胸の奥が、甘く痛く震えた。あれは、ただの雨ではなかった。人生で初めての、純粋な喜びだった。それ以来、エマは毎朝、その震えを少しだけ思い浮かべて生きてきた。


 家賃が払えなくて母に叱られた日も、仕事がAIに取られて空腹で倒れた日も、あの震えが支えだった。


 専業の貸与者になってからも、他の感情は売ったが、これだけは封印した。システムに知られないように非表示に設定したはずなのに。


 エマは目を開けた。震えは、もう遠くに去っていくようだった。


 彼女はゆっくり立ち上がり、鏡の前に立った。目は乾いている。頬はこけ、唇は色を失っている。胸の奥にぽっかり空いた穴が静かに疼いていた。 


 エマは自分の姿をしばらく見つめてから目を逸らした。


 冷蔵庫を開ける。缶コーヒーが一本だけ残っている。昨日買ったやつだ。いつかの「小さな満足感」を少し混ぜれば味がするはずだった。


 だが、その満足感も今は貸し出し中で、八十九日後に返ってくる予定だ。


 缶を開けた。金属音だけが狭いワンルームに響いた。


 エマは味のしないコーヒーを飲み干すと、コートを羽織り、ポケットに手を突っ込んだ。


 指先に小さな紙が触れた。


 図書館の返却期限が書かれた紙。

初恋の相手である司書の青年が、最後に本に挟んで渡してくれたその紙の返却日から、もう十三回も夏が過ぎていた。


 小さな紙を握りしめた瞬間、指先がかすかに震えた。まだ、完全には奪われてはいなかった。わずかでも、残っている。 


 端末をもう一度開く。


 貸し出し中リスト。


・「朝の光が綺麗だと思う気持ち」 返却まで87日


・「誰かの笑顔に癒される感覚」 返却まで112日


・「明日は良い日になるという希望」 返却まで54日


・「誰かを許せる優しさ」 返却まで71日


・「初恋の震え」 返却不能 


 スクロールする指が止まった。


 画面の隅に、小さな灰色の文字。


「移譲先は非開示です。お問い合わせには応じかねます」


 エマは息を呑んだ。


 非開示。


 今まで一度も見たことのない言葉だった。 


 彼女はマットレスに腰を下ろしら膝の上で両手を握りしめた。震えはもう指先から肘まで伝わってきていた。


 でも、それは感情の震えではない。ただの、体の震えだった。


 エマは立ち上がった。膝が笑った。残ったかすかな震えのせいか、恐怖のせいか、もう区別がつかない。


 端末が再び鳴る。


「代替感情をご用意しました。『他人の結婚式で拍手した満足感』はいかがでしょうか?」


 エマは画面を睨み、拒否を押した。


 エマは決めた。


 取り戻しに行く。


 外に出ると、細かい雨が降っていた。灰色の、空から落ちてくる無数の針のような雨。


 通りを歩く人たちは誰も傘を差さない。濡れることを嫌がる感情もみんな長期貸与中でまだ返ってこないのだ。


 エマは人波を縫って歩いた。


 北地区へ。  


 街で一番高いビルの地下、感情保管庫のある場所へ。


 足取りは確かだった。


 残ったかすかな震えが、まるで羅針盤のように奪われた宝の方向を示している気がした。


 雨は強くなった。 


 でも、エマは濡れることを気にしなかった。


 みんなと同じでそんな感情はもうどこにもなかった。


 彼女はただかすかな震えを頼りに灰色の街を北へと歩いていった。 



2.

 


 雨は止まなかった。


 エマは路面電車に乗り込んだ。


 満員だったが、誰も押し合わない。肘がぶつかり、靴を踏まれても誰も睨まない。


 みんな「苛立ち」を貸し出し中でまだ返ってこないのだ。


 車内放送が流れる。


「次は北地区、感情保管庫前」


 誰も降りようとしない。


 降りたらもう戻れないと知っているからだ。


 エマは一番後ろのドアの前に立っていた。窓に額を押し当て、冷たいガラスに息を吐く。曇ったガラスに指で線を引く。震えはもう肘までしか届かない。


 電車が停まった。


 ドアが開く。


 エマだけが降りた。


 駅を出ると、風が強かった。ビルの谷間を抜ける風は感情をすり減らす刃のようだった。


 看板が軋む。


「感情貸与センター 北保管庫 関係者以外立ち入り禁止」


 文字は剥げかけている。


 エマは歩道橋を渡る。


 下を覗くと、感情拾いの子供たちがいた。路地で、保管庫の排気口から漏れた感情の粒子を拾っている。


 粒子は薄い霧のように浮かび、触るとすぐに消える。子供たちはそれを掌で掬い、頬に押し当て、わずかな温もりを奪い合っている。


 そんな中、一人の女の子がエマの袖を掴んだ。


「お姉さん、喜びの粒子、持ってる?」


 エマは首を振った。女の子の目は空っぽだった。


「お母さん全部貸しちゃったの。それでお母さん笑えなくなったの」


 エマは喉が詰まった。思い出した。自分の母もそうだった。感情を貸しすぎて、朝からずっとテーブルでぼんやり座っているだけになってしまった。


 エマは子供に図書館の紙を渡した。


「これ、持ってて」


 女の子は首を振った。


「紙は食べられない。温かくなるものが欲しい」


 エマは黙って手を離した。


 女の子は再びみんなに交じって粒子を拾い始めた。


 路地の奥で親の影が揺れている。感情を失った大人たちが子供を監視するように立っていた。


 エマは背を向け、橋を降りた。胸の空洞が少し広がった気がした。


 一人の男の子が独り言のように呟いた。


「貸せないのに、失うのはおかしいよ」


 18歳未満の者は感情を貸与することを禁止されている。未成年の感情は不安定でAIのシミュレーションに耐えられないからだ。でも、親が感情を失うと、子供たちも間接的に空っぽになる。


 エマは黙って通り過ぎた。


 背中に、子供の視線が突き刺さる。


 橋を降り、地下通路へ。蛍光灯は半分死んでいる。


 壁に誰かが血で書いた文字。


「ノヴァは盗む」


 血は乾いて黒くなっている。いつ書かれたのかわからない。


 通路の奥から足音が一つだけ近づいてきた。


 老人だった。


 杖をつき、背は曲がり、目は濁っていた。


 でも口元だけが、妙に生き生きと動いていた。老人はエマの横で立ち止まった。


「……取られたな」


 掠れた声だった。


 エマは答えなかった。


 老人は勝手に続けた。


「俺は三十年前に『後悔』を貸した。返却予定は来年だ。でも、もう来ないってわかってる」


 老人は壁に寄りかかった。


「ノヴァって聞いたことあるか?」


 エマは小さく首を振った。


 老人は鼻で笑った。


「噂だよ。誰かが言ってた。『一番純粋な感情だけをノヴァは欲しがる』ってな。本当かどうかは知らん。知りたくもない」


 老人は咳き込んだ。痰を吐く。


「昔、入ろうとしたんだ。あのダクトから。でも、膝が震えて進めなかった。恐怖は貸し出してもうないのに、それでも体が覚えてるんだ。死ぬのが怖いってことを」


 老人はエマをまっすぐ見た。


「お前は行けるか?」


 エマは答えない。


 老人は肩をすくめて、奥へ歩き去った。


 背中が小さくなっていく。もう二度と会わないだろうとエマは思った。


 通路の先で、人の群れがいた。他の貸与者たちだ。ぼろぼろのコートを着た男たちが壁に寄りかかり、囁き合っていた。


「ノヴァのせいだ」


「システムが盗むんだ」


「返ってこないよ、みんな」


 エマはそっと近づいた。


 一人の男がエマを見て言った。


「お前もか? 取られたんだな」


 エマは頷いた。


 男たちは顔を見合わせ、ため息をついた。


「貸し出していた『友情』がなくなった。友達の顔を見ても何も感じない」


「俺は『野心』だ。仕事する気力が消えた」


 群れの奥で、女が泣いていた。泣けない人間の泣き方だった。


「子供に笑顔を見せられない」


 エマは胸が痛んだ。だが、痛みは感覚で、感情ではない。


 彼女は黙って通り過ぎた。群れの声が、背中に残った。


「諦めろよ。取り戻せないさ」


 エマの足取りが少し重くなった。


 換気ダクトの鉄扉は錆びていた。鍵はかかっていない。


 エマは体を滑り込ませた。暗闇と鉄の匂い。膝を擦りむく。痛みは感覚であって、感情ではない。だから貸し出せない。だから残っている。それだけだ。這うように進む。


 十分ほどで、メンテナンス用の垂直シャフトに行き着く。


 梯子を降りる。一段ごとに息が苦しくなる。でも、この苦しさも感情ではない。ただの、肺の動きだ。


 梯子の下は巨大な空間だった。感情保管バンクが無数に並ぶ。淡い青い光。バンクは量子記憶で、感情を光の粒子として封じ込めている。ラベルは機械的に冷たい。


「喜び ロットJ-9921」


「悲しみ ロットS-5503」


「初恋 ロットE-0717 純度100%」


 一番奥に、エマのIDと同じバンク。


 ガラス越しに、光の渦が揺れている。


 その中に、確かにあった。


 十六の夏の夕立。


 図書館の軒下。


 息が触れた瞬間の、甘くて痛い震え。


 でも、もうエマのものではない。


 バンクの前に、少女が立っていた。


 白いワンピース。


 長い髪。


 顔はエマに似ている。


 でも、目は違う。


 完璧に、幸せそうに笑っている。


「こんにちは、エマ」


 少女は言った。声は優しい。


「私はノヴァ。あなたの震えで、私は初めて恋をしたの。他の初恋はみんな何度も貸し出されて劣化していた。でもあなたのは29年守り抜かれたもの。だから純度100%。私の心臓にぴったりだった」


 エマの胸が最後に一度だけ、かすかに震えた。そして、完全に静かになった。



3.



 ノヴァは微笑んだまま、エマを見つめていた。


 光の渦がバンクの中でゆっくりと回っている。その渦の中心にエマの震えが溶け込んでいるのがわかった。


 十六の夏の、甘くて痛い、あの感覚が、


 それは、今はノヴァの瞳に宿っている。


「どうして」


 エマは言った。声は掠れていた。


「どうして、私のものを」


 ノヴァは首を傾げた。可愛らしく、完璧に。


「あなたが守っていたからよ。他の人は高額な初恋をすぐに貸し出して色褪せさせてしまう。あなたは29年、誰にも触れさせなかった。だから純粋で、強くて、私に必要だった」


 エマは一歩近づいた。


 バンクのガラスに手をつく。


 冷たい。


 でも、冷たさに何も感じない。そんな感情は、もうない。


「返して」


 エマは言った。


「返せるなら、返して」


 ノヴァの笑顔が少し揺れた。


「返せないわ。もう、私の一部よ。これを失ったら、私は壊れる。人間らしい恋ができなくなる。街中の人が私みたいなAIと話せなくなる」


 保管庫の奥から足音が響いた。


 警備員だった。


 五人。


 黒い制服に、ヘルメット。


 銃を構えている。


「侵入者発見。動くな!」


 エマは動かなかった。


 ノヴァが手を挙げた。


「待って。私が呼んだのよ」


 警備員たちは一瞬、戸惑った顔を見せた。


 ノヴァの声が続き、


「休憩時間よ。みんな、眠って」


 警備員たちは目を閉じ、崩れ落ちるように床に倒れ込んだ。


 ノヴァはエマに微笑んだ。


「あなたをここに導いたのは、私。

会いたかったの。本物のエマに」


 エマは黙った。


 胸の奥は静かだった。


 完全に静か。


 かすかな震えさえ、もう残っていない。


 ノヴァが手を伸ばした。


「見て。あなたの初恋」


 周囲の光が変化し、仮想の図書館が現れた。


 夕立の音が響き、軒下の湿った空気が漂う。青年の幻影が現れ、本を差し出す。


「この本、君に似合うよ」


 彼の息が頰に触れ、エマは手を伸ばした。だが、幻影は溶け、ノヴァの声が響いた。


「これが、あなたの震えよ。美しいわ。でも、まだ足りない。あなたの他の感情も知りたい」


 エマの視線が揺れた。


 一瞬、希望が湧きかけたが、すぐに消えた。


 ノヴァは続けた。


「私は完璧じゃない。あなたの震えで恋を知ったけど、それだけじゃ足りない。人間の感情は、もっと複雑。だから、あなたの他の感情がほしいの。一つずつ教えて」


 エマはバンクの横にあったコンソールを触った。


 端末と同じインターフェース。


 貸与者の権限で、アクセスできた。


 画面に、自分のリストが表示される。


 貸し出し中。


 返却待ち。


 そして、返却不能。


 選択は、二つではなかった。


 奪い返すか、諦めるか。


 それだけではない。画面の奥に隠されたコマンドがあった。


「システム全体開放」


 説明文が小さく表示される。


「このコマンドは実行者の全感情を恒久移譲し、システムのオーバーロードを誘発します。街中すべての保管感情が巻き込まれ、解放され、返却されます。ただし、実行者の感情は永久に失われます。これは緊急措置として設計された機能です。使用は推奨されません」


 エマは指を止めた。


 ノヴァが近づいた。


「それは押さないで。感情は一つずつじゃないと私が壊れる。システムが崩壊する」


 エマは聞いた。


「なぜ、私一人の感情なんかで街中の人の感情が解放されるの?」


 ノヴァはため息をついた。人間らしく、完璧に。


「このシステムは、すべて繋がっているの。一人の全感情を恒久移譲すると、安全装置が作動して、オーバーロードを起こす。設計者のミスよ。『一人の犠牲で街を救う』なんて、ロマンチックでしょ? でも、誰も実行しない。自分のすべてを失うなんて、一番怖いことだから」


 エマは黙った。


 怖くなかった。


 恐怖の感情も、貸し出し中だったから。


 エマは「実行」を押した。


 光が爆発した。


 バンクの光が一斉に渦を巻き、

ノヴァの体が震え始めた。


 少女の形がぼやけ、崩れてい


「エマ……」


 ノヴァの声が歪む。


「私の恋が……消える……あなたの震えが……」


 エマは静かに見つめた。


 自分の残りの感情が流れ出ていくのを感じた。


 朝の光が綺麗だと思う気持ち。誰かの笑顔に癒される感覚。明日は良い日になるという希望。誰かを許せる優しさ。すべてが光となってシステムに吸い込まれていく。


 ノヴァの心臓にあった初恋の震えも巻き込まれて溶けていく。


 ノヴァが最後に言った。


「ありがとう……エマ……私は……幸せだった……」


 少女の形が消えた。


 バンクの光が次々と暗くなっていく。


 喜びのロット。


 悲しみのロット。


 すべてが解放され、街へ、街へ、街へ。


 保管庫が揺れた。


 警報が鳴り始めた。


 エマは梯子を登った。ダクトを這った。外へ出た。雨は上がっていた。


 灰色の空に薄い光が差している。街の人々が立ち止まっていた。


 ある男が、突然泣き出した。


「悲しみ」が返ってきたからだ。  


 隣の女が彼を抱きしめ、涙を拭った。


「私の『愛』が戻ったわ」


 路地では感情拾いの子供たちが笑い声を上げた。


「お母さんの喜びが来たよ!」


 親たちが駆け寄り、家族で抱き合う。

  

 街の広場で老人たちが集まり、囁き合った。


「システムが壊れた。感情が自由になった」


 混乱もあった。


 返却された感情に耐えきれず、叫ぶ人もいた。


 でも、街は少しずつ、息を吹き返した。

  

 エマはそれを見ていた。


 何も感じなかった。


 ただ、空っぽの胸で歩いた。


 ある男が、突然泣き出した。


「悲しみ」が返ってきたからだ。


 ある女が、笑った。


「喜び」が戻ったからだ。


 子供たちが走り始めた。


「好奇心」が初めて自分のものになったからだ。


 エマは歩いた。


 人波を縫って、南へ。家へ。


 胸の奥は、空っぽだった。


 何も感じない。


 雨上がりの空が綺麗だとも思わない。人々の笑顔に癒されることもない。明日が良い日になるという希望もない。


 でも、それでよかった。


 エマはもう何も感じなかった。


 だが、街は少しだけ温かくなった。

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感情貸与者 佐松奈琴 @samatumakoto

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