02.慣例

 ファイが施設を出てから、数日が過ぎていた。

 食堂のざわめきも、見送りの時に流れた涙も、時間とともにゆっくりと薄れていく。誰かがいなくなることは、この施設では珍しいことではなかった。卒業は祝福されるべきものであり、外の世界へ向かう門出だと教えられている。だから子どもたちは、感傷に浸りながらも、やがていつもの日常へと戻っていった。


 午後の鐘が鳴ると、年長の子どもたちは自然と広間へ集まった。それは命令というより、長く繰り返されてきた慣例のようなものだった。誰かに急かされなくても、足はその方向へ向かう。


 天井の高い広間は、いつもより少し静かだった。床に並べられた机の間隔は等しく、そこに置かれた羊皮紙も、寸分の違いなく同じ大きさをしている。壁に掛けられた灯りは淡く、影は柔らかい。どこにも棘のある雰囲気はない。けれど、理由の分からない緊張が、空気の底に沈んでいた。


 エルスは自分の席に腰を下ろし、羊皮紙を広げた。

 幾何学的な線と円が重なり合い、意味ありげな模様を形作っている。文字ではない。絵とも違う。ただ——見る者の意識を、自然と一点へ集める不思議な配置だった。


 エルスはそれを見つめながら、体の中に生じる感覚を確かめる。少し熱く、少し重い。けれど不快ではない。息を吸えば膨らみ、吐けば静まる。まるで体の一部のように、そこに“在る”。


「じゃあ、始めましょう」


 ママの声が広間に落ちる。

 柔らかく、いつも通りの調子だ。それだけで、子どもたちの背筋がわずかに伸びる。

 合図に従い、子どもたちは一斉に掌を羊皮紙へかざした。

 エルスも同じように手を伸ばす。冷たい紙の感触が、すぐに温もりへ変わっていく。

 意識を集中させる。難しいことは考えない。ただ、体の中の“それ”が流れるままに任せる。


 次の瞬間、模様の中心に小さな火が灯った。

 ぱち、と微かな音。

 橙色の炎は揺らぎながらも、すぐに形を保ち始める。右隣の席では、水が器のように湧き上がり、別の場所では淡い光が揺れている。起こる現象は模様ごとに違い、同じ模様を使っていても、火の大きさや水の量は子どもによってまちまちだった。


「わっ、今日は大きい!」

「また消えちゃった……」


 あちこちから、楽しげな声が上がる。うまくいかなくても、誰も深刻にはならない。これは試験でも、競争でもないからだ。

 エルスの前に灯った火は、柱のように高く伸びて、めらめらとその形を保っている。揺らめきは少なく、まるで最初からそこにあるように安定していた。


 ママは少し離れた場所に立ち、子どもたち一人ひとりに視線を配りながら、手元の紙に何かを書き留めている。表情は穏やかで、いつもとなんら変わらない。けれど、エルスの火に目を留めた瞬間、ペンがわずかに止まった。


「流石だね」


 左隣で同様に火を灯していたルカが感嘆する。

 他の子どもたちと比べれば、ルカの火も十分に大きいが、それでもエルスの半分ほどの大きさだった。


「本気でやったら、どのくらい大きくできるんだい?」

「あの天井に届くと思うよ。危ないからやらないけどね」


 エルスはあまり考えずに答えたが、本当にそう思っていた。

 体内を流れる“それ”の扱いも、今ではすっかり上手になった。

 もちろん、最初はうまくいかなかった。手をかざしても何も起こらず、力を込めすぎて頭が痛くなったこともある。うまくいったと思ったら、次の瞬間には維持できずに消えてしまっていたことも。けれど、何度も繰り返すうちに、いつの間にか出来るようになっていた。努力した記憶は、あまりない。


「本当、すごいわね」


 いつの間にか、ママがすぐ近くまで来ていた。

 驚きはしたが、火に揺らぎはない。


「じゃあ次はこれを、10分維持できるか、やってみない?」

「10分?」


 ママの言葉に、エルスは虚を突かれる。これまで、この“時間”を意識したことはなかった。火を灯すこと自体は日常であり、始めれば終わりが来るものだと、深く考えたこともない。ただ、出来るか出来ないか、それだけだった。


「何事も挑戦よ。エルスならできると思うの」

「いや、そうじゃなくて……」


 言葉を探すうちに、エルスは自分の違和感の正体に気づく。

 出来るかどうか、ではない。今までは、続ける理由が思いつかなかったのだ。


 「……多分、これくらいなら一週間でも維持出来ると思うよ」


 それはエルスの本心だった。誇張でも、冗談でもない。火を灯している間、体の奥は少しも空にならず、むしろ静かに満ち続けている感覚さえあった。限界という言葉が、どこか他人事のように思える。

 エルスの言葉を聞いたママは、少しの間固まり、言葉を失ったが、やがて広場を見渡していつもの優しい声で指示を出し始める。


「はい、今日はここまで。みんな頑張ったわね。羊皮紙はそのままにして、次の準備をしましょう」


 子どもたちは一斉に安堵の息を吐き、席を立つ。

 同様に、エルスも立ち上がり、羊皮紙から手を離した。

 炎は、すっと消える。

 そして他の子ども達の後を追い、部屋から出ようとすると、


「待って、エルス。少し特別な事をしましょう」


 背後からママに呼び止められる。胸の奥が、かすかに鳴った。理由は分からない。ただ、いつもとは違う選ばれ方をした気がした。

 隣を歩くルカが怪訝そうな表情を浮かべるが、すぐに「先に行ってるよ」と部屋を出た。広間に残ったのは、二人だけだった。


 ママが前方に手をかざすと、瞬く間に空中に幾何学的な模様が浮かび上がる。

 羊皮紙に書いてあるものと似ていて、けれど確かに違う模様だった。

 ママがこんなことが出来るとは知らなかったエルスは、思わず息を飲んだ。あの模様は、紙の上にある時よりもはるかに“生きて”見える。ゆっくりと脈打つように光り、空間そのものに刻まれているようだった。


「じゃあ、さっきみたいにやってみましょう。今度は自分の中にある力を、一回で全部出すみたいに」


 ママの様子は普段通りだ。微笑みは変わらない。声も穏やかだ。けれどそれら全てがいつもとは違って見えた。

 そして言われるがままに宙に浮かぶ模様に手をかざし、自分の中の“それ”を意識的に強く押し出す。


 瞬間、それは巨大な火球となって、目にも止まらぬ速さで壁まで飛ぶと、轟音と共に爆ぜて、辺りが炎で包まれる。

 熱風が押し寄せ、床や壁に赤い光が踊る。焦げた匂いが鼻を刺し、エルスは思わず一歩後ずさった。


「ど、どうしよう、これ……」


 何か、とんでもない事をしてしまった気がして、焦ってママに助けを求める。けれど、ママは燃え広がる炎をただ眺めていた。その口元には笑みが浮かんでいるように見える。叱責も、制止もない。その沈黙が、逆にエルスの胸をざわつかせた。


「大丈夫よ」


 ママが手をかざすと、あれだけ部屋を覆っていた火が、ロウソクのようにふっと消え去った。そして、呆然としているエルスの肩に両手を置き、屈みこんで目線を合わせる。真っすぐにエルスを見澄ましてママはこう問いかけた。


「どうか、正直に答えてちょうだい。今と同じことを、あと何回出来る?」


 一瞬、答えに詰まる。多いか少ないか、その基準が分からない。

 エルスは自分の体内に流れる力を注意深く感じ取る。消耗した感覚はない。むしろ、先ほどよりもはっきりと、そこに“在る”と分かる。


「……多分、あと、100回くらいは……」


 その言葉に、ママは口元を上げる。それは慈愛の笑みでありながら、同時に何かを確信した者の表情に見えた。


「エルス、おめでとう。あなたは卒業よ」


 その言葉が、静かに、しかし確かに、二人しかいない広間に落ちた。

 それが喜びなのか、恐怖なのか、エルス自身にも分からなかった。

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2025年12月18日 18:00
2025年12月18日 21:00
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世界は、きっと美しい 白澤 知足 @Chisoku-

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