01.世界は、きっと美しい

 エルスが目を覚ましたのは、部屋の外から響く喧しい声が近づいてきた時だった。

 窓ひとつ無いこの“施設”では、朝の日差しも鳥の声も届かない。それでも朝が分かるのは、決まって遠くの部屋から響き始める声が合図だからだ。

 遠くの部屋から聞こえていた声は、やがてはっきりとした足音へ変わり――


「起きろー!」


 勢いよく扉が開いた。冷気の代わりに、賑やかな空気が流れ込んでくる。

 入ってきたのはファイだった。年長組の女子で、面倒見が良いが少しばかり強引だ。後ろには、彼女に率いられた年少の子どもたちが控えている。エルスはベッドの上で身を起こし、穏やかに微笑む。


「おはよう。今日はファイが当番なんだ」


 エルスは布団を整えながら静かに挨拶した。

 ファイは頬を膨らませ、わざとらしい溜息をつく。


「え、もう起きてたの? つまんない」

「うん。でも、まだ仕事は残ってるよ」


 エルスが目を向けた先では、同部屋の三人がまだぐっすりと眠っていた。

 その瞬間、ファイと子どもたちの顔に一斉に悪戯っぽい笑みが広がる。


「突撃ー!」


 号令とともに小さな軍隊が雪崩れ込み、寝ている三人のほっぺたを容赦なく叩き、布団の上で跳ね回る。


「うわぁ、やめて、起きるから……!」


 ベッドで寝ていた少年、ロイが涙目になって手足をばたつかせると、部屋は一瞬で笑いに満ちた。

 そんな喧騒を背中に、エルスはゆっくり着替えを済ませる。こうして一日が始まるのは、ここでは何より自然な光景だ。


「よし、みんな起きた! ちゃんと着替えて食堂に来るんだよ!」


 ファイは両手を腰に当て、満足げに頷くと、子どもたちを連れて颯爽と次の部屋へ向かった。

 扉が閉まって静けさが戻ると、ロイが恨めしげな顔でエルスを睨む。


「エルス……早く起きたんなら、俺のことも起こしてくれよ」


 エルスは肩をすくめて答えた。


「いい目覚めだっただろ?」

「……ああ、最高だね……」


 ロイはひどく疲れた声で返し、再び布団に倒れ込みそうになる。エルスは笑いながら、まだ布団にもぐり込んでいる年少の二人のところにしゃがみ込んだ。


「ほら、起きるよ。着替えるの手伝ってあげる」


 優しく声をかけ、寝癖のついた髪を整え、ボタンを留めてやる。

 子どもたちはまだ半分夢の世界にいるようで、エルスの手につかまりながらよろよろと立ち上がった。


 ――両親の顔も知らず、故郷の景色の記憶もない。エルスを含め、子どもたちにとっては、この施設が世界の全てだった。施設の外に出たことは、一度だって無い。

 だが、それを不満に思うことは無い。ここでの穏やかな日々に彼は満ち足りていたし、同じように思う子どもは多いだろう。

 まだぐちぐちと恨み言を呟くロイと、寝惚け眼の子らを連れて、エルスは部屋を後にする。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 食堂はすでに賑わっていた。

 湯気の立つスープの匂い、焼き立てのパンの香り、子どもたちの笑い声が混ざり合い、温かな空気を形づくっている。

  配膳台の前では、”ママ“が子ども一人ひとりの名前を呼んでは「おはよう」と声をかけていた。その柔らかな微笑みに、どの子も自然と表情をほころばせる。


「おはよう、エルス。昨日はよく眠れた?」


 盆を手渡しながら、ママが優しく微笑んだ。

 その眼差しは母そのもので、施設の子どもたちの誰もが彼女を慕っていた。


「うん。おはよう」


 エルスは自然な親しみを込めて返す。

 食事を受け取り、食堂の中を見渡すと、ルカの姿が目に入った。

 彼女はページをめくりながら、空いた片手でパンをちぎって口に運んでいた。その器用さは、いつもの光景だった。エルスが向かいの席に座っても、彼女の瞳は本を捉えて動かなかった。


「やあ、今日は何の本?」


 問いかけると、ようやくルカは目線を上げる。そして本を持ち上げ、くるりと反転させて見せてきた。


「地理だよ。ほら」


 紙面いっぱいに描かれた地図。

 湖や川の位置、国境線、都市の名がびっしりと書かれている。


「ここがカリファス公国。ここにはアステリオンっていう自由市連盟があって……」


 細い指が挿絵を滑り、地図の上を忙しなく移動する。

 ルカの説明はいつも早口で、熱がこもっていた。


「この運河に沿って大陸西方に行くと……ほら、ここ。バルドリックっていう封建王国がある。この国には大きな冒険者組合があるそうだよ」


 エルスはパンを口に運びながら、小さく首を傾げた。


「冒険者?」

「書物を統合するとね、名誉や報酬のために魔獣の討伐や遺跡探索、遺物の収集、それから依頼遂行なんかをする職業みたいだよ。心が躍るじゃないか」


 得意げに言い放つルカに、エルスは小さく笑う。

 彼には結局、冒険者が何なのかよく分からなかったが、話しているルカがあまりに楽しそうなので、それ以上疑問を挟む気は起きなかった。


「この施設って、どこにあるんだろう」


 地図を見ながら思わず漏れた言葉に、ルカは息を飲み、地図に目を落とす。


「さあ……。きっと大陸中央かな。いや北方という線も……」


 ルカがぶつぶつと思案し始めると、エルスは自分の軽率な発言を悔いた。一度ルカがこうなると、納得のいく答えを出すまで続くのだ。

 いつだったか、ロイがどこかの書物から拾ってきた算術の難問を得意げに出題したことがあった。エルスを含めた子どもたちの多くは問題文すら理解出来なかったが、ルカはその問題を書面に書き写し、一日中考えた。そして就寝時間の直前、部屋にやって来たと思えば、答案を記した紙を得意げにロイに叩きつけたのだ。問題は、出題者のロイも答えを知らなかった事だが。


 ――その時、ママが手を叩いた。

 子どもたちが一斉にそちらを向く。ママの隣にはファイが立ち、どこか緊張した面持ちでそわそわしていた。


「みんな、今から大事なお話をするわ」


 柔らかな声の奥に、いつもとは違う緊張の色があった。食堂が徐々に静まり返る。


「実は――ファイが今日で施設を卒業することになりました」


 食堂が一斉にざわついた。

 “卒業”――施設を出て、外の世界へ行く。皆が知っているはずの制度なのに、いざその時が来ると胸の奥がざわめいた。ファイとの別れに、泣き出す小さな子もいた。


「みんな、寂しいのは分かるけど、これは喜ばしいことなの。だから……笑って送り出しましょう?」


 ママの言葉に背中を押され、子どもたちは少しずつファイの元へ集まっていく。

 抱きしめられ、頭を撫でられ、励ましの言葉をかけられている。

 ファイ自身も少し泣きそうになりながらも、年少の子をぎゅっと抱きしめて離さなかった。


「ファイが……。そうか、寂しくなるね」

「君は行かなくていいのかい?」


 ルカが尋ねる。思案は終わったようで、視線は卒業者の方へ向いていた。


「年少の子がたくさん行きたいだろうしね。俺はそのあとで」

「そうかい。僕は……いいよ。あの子に世話を焼かれるのはもう飽きたしね」


 ルカは本を閉じてそっぽを向く。


「もっとみんなと遊ぼうとか、体に悪いから早く寝ろとか。僕は読書に集中したいのに、まったく……」


 小声でぶつぶつと不満を漏らすその横顔は、ほんのわずかに赤い。


「ルカ―!」


 突然の叫び声に振り向くと、声の主はファイだった。

 子どもたちの輪を離れ、こちらにやってくると、ルカを強く抱きしめる。


「私がいなくても大丈夫? ちゃんと朝起きるんだよ? それと、読書もいいけどたまにはみんなと……」


 ルカを抱きしめながら、ファイは延々と惜別の言葉を贈る。施設を出る実感が段々と湧き上がり、感情が昂っているようだった。

 片やルカは、ややげんなりした表情で、助けを求めるような視線をエルスに送る。エルスが肩をすくめると、観念したようにファイの言葉が途切れるのを待ってから、彼女を引き剥がした。


「はあ……僕は君の方が心配だよ。ちゃんと外の世界でやっていけるのか」

「私は大丈夫!」


 そう言い切るファイの声は明るかったが、その目はほんの一瞬、揺れた。

 不安がないわけではない。それでも、年長者として、卒業する者として、弱さを見せるわけにはいかないのだろう。ルカはその揺らぎを見逃さず、ほんの少しだけ視線を伏せた。


「そうだ、これ!」


 ファイが思い出したかのように、ポケットから何かを取り出して二人に差し出す。

 見ると、刺繡糸を編み込んで作られたカラフルな紐だった。


「次に会う時が何年後でも、これを付けてたらお互いが分かるでしょ?」


 施設の中で流行っていた、ささやかな遊び道具だ。

 特別な意味があるわけでも、約束を保証するものでもない。

 それでも、離れてしまう現実を前に、何か形に残るものが欲しかったのだろう。


 ファイは照れくさそうにしていたルカの手首に、素早くそれを結びつけると、エルスの方に向き直る。

 促されてエルスが手首を差し出すと、ファイは同様になれた手つきで、それを結び始めた。


「エルスも、バイバイ。あの子たちをよろしくね……」


 その声は少し震えていた。年少の子どもたちを思い浮かべているのか、それとも、自分がいなくなったあとの施設を想像しているのか。

 エルスは何も言えず、ただ静かに頷いた。


「じゃあ、外の世界で待ってるよ!」


 ファイは自分の手首に着いた紐を、二人に掲げながら、また子どもたちの輪の中に戻っていった。

 明るく手を振るその姿は、いつものファイそのものだった。けれど、その背中が離れていくにつれ、胸の奥に小さな穴が開いていくような感覚が残る。

 笑い声に紛れていくその姿を、エルスは最後まで見送っていた。


「……まあ、今生の別れというわけじゃない。次に会うときは、外の世界さ」


 そう語るルカの声は、どこか優しさを帯びていた。

 まるで自分に言い聞かせるように。そしてこの場にいる誰かを安心させるように。

 やがてルカは姿勢を正し、ゆっくりとエルスを見つめる。


「ねえ、エルスは卒業したら何をしたい?」


 不意を突かれたように胸が揺れた。

 この施設での穏やかな日々。ママや友人たちに囲まれ、何の不自由もなく笑っていられる生活。心のどこかでは、それが永遠に続くと思い込んでいた。

 ふと、ファイの方へと視線を向ける。子どもたちと抱き合い、別れを惜しんでいる。その表情は少し強張り、どこか期待と不安が入り混じったものに思えた。

 自分にもいずれその日が来る。当たり前の事なのに、初めてその事実を真正面から突きつけられたように感じた。


「……まだ、分からないかな」


 目線をそらして言うと、ルカは迷いなく微笑んだ。


「僕はね、世界のすべてを見たいんだ」


 その言葉は、曇りのないまっすぐな希望そのものだった。

 ルカは本を開き、地図の一点を指差す。


「バルドリック王国……」

「そう。大陸最大の冒険者組合がある国。僕はきっとここに行く。それから、冒険者になって世界中を巡るんだ」


 本を閉じたルカは、すっとエルスを見つめる。

 ルカの瞳は、いつもより深く澄んでいた。琥珀色の光が揺れ、その奥には外の世界を夢見る熱が宿っている。エルスは、胸の奥を軽く押されたような感覚に包まれた。自分では考えたことも無い未来を、ルカだけが鮮やかに描けている気がした。


「僕らは太陽を知っている。星を知っている。けれど、本当は何も知らないんだ。金色に燃え上がり、やがて紫に沈むその様を。闇の中でなお空を彩る、その輝きを。……エルス、世界とはね、きっと美しいものだよ」


 その語り口は、まるで本の中の一節をそのまま聞かされているようだった。外の世界を知らないはずなのに、ルカの言葉には確固たる実感があった。

 エルスは羨望にも似た感情を覚えながら、心がふわりと浮き上がるような、不思議な高揚を感じる。


「僕らが卒業した後、次に会う場所はこの国だ。きっと、忘れないでくれよ」


 その真剣な眼差しに、エルスの胸の不安は静かに消えていく。

 ルカが描く未来は、どれも眩しくて、手を伸ばせば届きそうで。エルスは初めて、自分の名前が誰かの未来に存在していると知った。その事実が、胸の奥を温かく満たしていく。


「……ああ、約束するよ。きっと俺たちはそこで会う」


 その時二人は確かに同じ未来を見て、静かに微笑み合った。

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