白華流離奇譚・時巡りの花〈一〉

風花(かざはな)

未知に出会えなくなった男

──未知が起きない一日が、良い王の仕事だった


 韋煌(イコウ)国の国王・紅煇(コウキ)は、今日も机に向かっていた。


 即位から三年。王位継承争いで疲弊した国家の立て直しは想像以上に目まぐるしく、ようやく政治基盤が安定してきたところだった。


 朝議の後、紅煇の机には宰相・緋煉(ヒレン)の手によって束ねられた書類が積まれた。


 街道の補修。穀倉の在庫。南境の警備交代。いずれも想定内で、前例通りの報告だった。


 紅煇は一枚ずつ目を通し、署名を入れていく。被害は軽微。原因は特定済み。対応は完了。差し戻しは、ひとつもない。


 かつてなら、理由不明という一文だけで剣を取っただろう。


 だが今は、その言葉が書かれていないことに安堵する。


 午前は内政。昼は家臣との形式的な会食。午後は各部局からの定例報告。


 予定は一刻も狂わずに進み、狂わないこと自体が、成果とされていた。


 その日の最後の書類にも、赤い印で『問題なし』とあった。


 未知が起きないことこそが、王の仕事だった。


(五年前までが懐かしいこった……)


 その距離は、時間ではなく、立場が生んだものだった。


 紅煇ではなく、赤鴉(セキア)と名乗っていたあの頃。十五歳でこの国を飛び出して、腕試しも兼ねて世界中を回った。


 砂漠の王国で王太子の護衛を務めた日々。北方の雪国の視察にも同行した。身を切るような北風が、砂漠の乾いた風とは違って、凍えるほど冷たかった。


 北西の大国では異端狩りに遭い、魔女だと決めつけられた薬師の女性を逃がしたこともある。


 西の砂漠の王朝では王の呪いを解き、東の皇国では人々を惑わす宗教を断った。


 気づけば赤鴉は大陸一の武人として名を馳せており、その名は一部では伝説と化しつつあった。


 祖国の兄弟たちが王位継承争いで共倒れし、最後の王位継承者として迎えられたのが、五年前。


 それから二年ほどは残党の処理に忙しく、三年前にようやく即位し、名を赤鴉から紅煇へと改めた。


『未知との遭遇を男の浪漫と言わずしてなんと言う』


 かつて語った己の言葉が、いまは軽く、遠い。


(あー……アイツらに会いてぇな……)


 かつての自分が拾い、名づけ、育てた少女。ともに戦った女呪術師。本人には言わないが親友だと思っている砂漠の国の王太子。


 そのすべてが、未知への旅の過程で得た絆だった。


(だが……今の俺はもう『王』なんだ……)


「陛下」


 名を呼ばれ、紅煇は思考を断ち切った。顔をあげると、宰相の緋煉が一枚の書類を手に立っている。


「最後に、こちらを」


 それは、ごく短い報告だった。王都南区、井戸の水位が一時的に低下。原因不明。現在は回復しており、被害なし。


「一過性のものでしょう」


 緋煉はそう言って、書類を差し出した。


「同様の事例は過去にもあります。対応の必要はないかと」


 紅煇は書類に目を落としたまま、わずかに指を止めた。水位は回復している。被害もない。それでも、その一行だけが、喉に小骨のように残った。


──理由不明


 それはかつてなら真っ先に飛びついたはずの、小さな『未知』だった。


「……放置しろ」


 紅煇は羽根筆を取り、赤い印を押した。


『問題なし』


 それが、彼がくだした『王』としての正解だった。


 同様の報告は、過去にも数度あった。いずれも原因は特定されず、だが必ず自然に収束している。


 紅煇は書類を机の脇に揃えた。それ以上、目を留める理由はなかった。


 些事に囚われている余裕はない。王の仕事は、国が明日も変わらず続くようにすることだ。


 理由不明という言葉は、もう彼に剣を抜かせない。ただ、それだけのことだった。


 紅煇は書類を閉じ、次の予定を確認した。王都は今日も平穏で、国は何事もなく回っている。


 未知は起きない。それでいい。それが、良い王の仕事だった。


 未知との遭遇を、男の浪漫と語っていた男は、今日もまた、国のために浪漫の起きない一日を選んだ。

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白華流離奇譚・時巡りの花〈一〉 風花(かざはな) @kazahana_ricca

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