嫌殺好犯
緋西 皐
本
現代社会の白黒は形ばかりだ。文字は意味を持たない。主義がどうであれ暴力だけが全てを封じてきたし、現在もそうだ。学歴社会を信じたり人間関係を信じて自分の嫌いな場所から遠ざかったり、嫌いな人間を懲らしめたい。物理ではなく精神の暴力だ。しかしそんなものは偽りだ。いざ人を殴れば血は出るし、刺せば死ぬ。精神は潰える。知恵こそあっても武力が無ければ死ぬ。死ねば存在しない。ここには存在している人間しかいない。死んだ人間がどんな主義を持っていようが生の世界では無意味だ。
泥だらけの学校の屋上から紙芝居のような授業を俺は覗いていた。今日も嫌いな先輩方を蛸にした。真っ赤になってゲソゲソ嗚咽している。ゲソはイカだっけ。どっちでもいいや。
権威がある。目の前で偉そうにしているハゲの教師の上に見えない何千人が乗っかっている。その重さがどうしてか俺に吐きかけられている。ガリガリの六十歳を殺すのは容易い。机のシャーペンをその喉へ突き刺してやればいい。しかしそうできないのは権威のせいだ。やれば死ぬのはお前だと何千人が催眠をかける。それさえも殺し切れる暴力はどうしても人間一人には無い。
だから俺は思いもしない言葉で吃る。そこを叩かれ耐える。激しく燃える怒りを。このクソジジイに負けているわけではないのに、クソジジイは我が物顔だ。
今日も今日とてババアは知らない男をアパートに連れてくるから夜を彷徨う。治安はいいが冬の星が寒い。活気がないから余計にこの世界がつまらない。学校で怒り、家に居場所がない、そうして街で一人ぼっち。つまらない。刺激が欲しい。
女は抱かれる生き物だとつくづく実感する。一人でいるのに耐えられず、金を欲したふりをしてしょうもない男を求める。あるいは俺がいることを忘れたいからそうする。母性を愛と例える者もいるが、無い方がマシだ。
男は権威を求める生き物だ。家、学校、会社、議会を根城だと妄想してありもしない言説で黙らせたいのだ。偏見、偏見、偏見。事実などどうでもいい。権威で歯向かう奴らを殺せばいい。
商店街を抜けると満月が俺を見つめていた。何かを思っているわけでもなさそうだ。ただ滑稽な一人を見ていた。自分でも嫌だと気づくが、少し清々しい気持ちになった。澄む月光に煮え切った心が攫われてしまった。優しくあれと諭され、美しさばかりに頷きそうになった。
このような純粋な感情が人の到るべきところなのかと知った気でいた。それほどに月光が俺を照らしてしまっていた。
月の涙が落ちてきた。そんなところに落ちてきた。俺へ降ってきた。艶めかしい液体が俺を濡らした。纏わりつくそれは心地よい。温泉のようだった。しかし視覚は乖離した。呼吸が咽んだ。蜘蛛が巣を走るように視界が赤く染まっていく――これは血涙だったのだ。
純粋な心はそこから血の芽を咲かせた。母たる月が、優しい月は却って云ったのだ。
「気に入らないもの全てを破壊しなさい」
これほど純粋な憎悪はあるだろうか。澄み渡る星空から悪辣たる暴力が産まれた。肉体がはち切れんばかりに膨張し、脳みそが沸騰しそうなほど昂っていた。今、誰であれ俺を破壊することはできない、確信があった。
蛾の掬う明りが俺を照らした。バイクは夜とばかりに全速力だった。喧しい。乗っている男はしょうも無い、煙草とつまらない馬面だ。煙でぼかされた虚構に俺が見えたとき、すでに遅かった。男は小心者だ。ブレーキを踏んだ。間に合わない。俺は店のガレージに叩きつけられた。
「やべえ。轢いちまった。でも誰もいないし、逃げちまえ」
男はハンドルを回した。ポニーがブルブルと鳴いて、草煙を穴から出す。ミラーがその煙の輪郭に俺を見出したとき、男が動かないバイクの理由に気づいたとき、俺はニタリと笑って男を頭から掴んで粉々にした。
俺の肉体は死にもしなければ殺すも容易くなっていた。したがって人を殺した罪悪感も背骨紐男のように軽い。
次の日。俺はまたしても気に入らない先輩方を殴った。というか弾いた。すると奴らはナイフを出してきた。俺を後ろから掴んで切り刻もうとした。
「調子乗るなよ。大人しく教室に籠っていればこうならなかったって教えてやるよ! なんだ、その目、気に入らねえ!」先輩は俺の頬を切った。
……刃のほうが折れた。
俺は一つ飾った。
「今日は雨だ」
「ああ? 晴れ渡ってんじゃねえかよ」
「今から降る」
屋上から血の雨が降った。それだけでなく人も降った。すでに人の形はしていない。
騒ぎを聞きつけたのか六十代が来た。
「お前、何をしている! おい、こっちに来るな! どうなるかわかっているのか!」
振りかざす権威と抜けた腰。傲慢の象徴だ。殺傷さえできる俺の憤怒の前にあるべきではない。しかしいい気分だった。
「もうペンはいらないな」
俺は人間の日干しを弾き飛ばした。
廊下から警官がやってきた。数人だった。銃を構えている。まるで俺を人と思っていない矮小な目をしている。
「止まれ! でないと撃つ」
「やってみろ」
「くそ!」
銃弾が三発。二発は空を切った。一発は俺の鳩尾に穴を開けた。
銃弾。血涙のブヨブヨした膜は花の咲くように窪みを元に戻した。弾は虫のように廊下を鳴らした。
「嘘だろ」
「なら悪夢だ」
「うああああああああああ!!」警官は発砲を繰り返した。
効かない。俺は戦車のごとくそこまで行って人壁を窓ごと落とした。
ここに来て俺にはさほど憎悪が無かった。今まであった閉塞感が今晴れて割れた壁のように開放的で気持ちよかった。ただ気持ちが良かった。
気に入らないものはあった。でもそれは後ろにあった。今からそれを殺すとなればすでにそこにない。料理が風味を香らせば高揚するように、俺にとって憎悪は一瞬、殺すと決めた時には幸福感になっていた。
だから気に入らないものは後ろにあった。俺を恐れる制服の群れだ。今まで他人事だった世界がここに来て本物だったと判明し、どうすることもできない無力な脳みその群れだ。あれらの弱弱しい形相を見て、俺は今まで一番の殺意に心が奪われた。ほんとうに滅ぼさなければならないのはあれだったのだと。
不良にしてみれば俺に似る。心情の半分以上は校舎を嫌っている。だからサボる。夜中にバイクを鳴らす男も平凡な社会を嫌った。嘘だと覚えていた。俺に似ている。しかしあれらはどうだ。真逆だ。あれこそが俺の存在を否定する知と正論だ。俺はあれを滅ぼさなければならない。化け物は夜ではなく昼に顕現するのだ。
黒は赤くなった。青春もまた灰から黒に。穴まみれの校舎からは残骸がぶら下がっていた。
俺は黄昏、電車に乗った。つまらない日常が黒く群がっていた。着ている物だけではない、心底瞳もそうだ。なぜ俺みたいなやつがこういうところに行くのかはもはや明白だ。社会の閉塞感とこの人混みが酷似しているからだ。これだけ狭いのに心は空っぽで寿命を風に溶かす日常にうんざりしたからだ。やはり世の中は平和過ぎた。
俺は線路を眺める窓に穴を開けた。銃声に気づかない現実逃避をならばと一人、撃ち抜けばやっと気づいたようだ。しかし今度は悲鳴が音を隠すから俺は仕方なく、散乱銃で黙らせた。
一言。
「電車は止まらない」
俺は足無き足に穴を開けて歩いた。銃を使うのはやはり楽だからというのもある。初めは拳に飽きたからだったが、反社が言っていた「簡単だからだ」と照合された。なまじ銃痕はあいつらのと相似だった。
勇敢な男がかかってきた。俺を背後から掴んできた。必死に頭を殴ってきた。俺はそいつの頭を掴んで扉を蹴破るとちょうどあった駅のゴミ箱に投げ捨てた。ぴったり頭から男は埋まった。そのゴミもお前らのゴミだのになぜ嫌がる。
運転手はいない。電車はそのまま回り続ける。またべつの男がやってきた。
「こんなことをしてなんになる! 誰もあんたを認めやしないぞ!」
「美しい主義だ。で、どうなるんだ?」
「今にお前は地獄に落ちる!」
「その前にお前がここから落ちるよな?」
扉から一車両、壁を引っぺがして気に入らない奴を全員ぶちまけた。薔薇のような血飛沫が散った。でも誰かが歯車に挟まったらしい。電車は転倒した。俺はそこに人間の摂理を見た。機械たる電車とそこから起こる災難は俺というトリガー一つでこうも破綻する。混乱とは些細なことで起きる。だのにこいつらはさっきまで余裕にしていた。偽りに染まって自分を安心させていただけ。こんなのに主義なんてあるわけがない。
線路から車道に落ちた。車がいくつかぶつかってきたが、全て弾かれてビルにめり込んだ。赤い信号はすでに機能していない。形ばかりで赤でも渡れば、人がいなくなればいつだって渡れる。けれどもそこに一人、筋骨隆々自信あふれる男がやってきたとき、アイツにとっては意味があるのだろう。
「赤信号だ。帰った方がいいぞ」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ」
男はその腕に女を二三人ぶら下げていた。どれも女で、男と同じ半裸だ。半裸は血に染まって真っ赤。気持ちの悪いやつだ。男の後ろには人間がいくつか死んでいた。何となく察した。こいつは俺と同じだ。
男は太陽のごとくギンギンの笑顔を見せた。
「お前の肉体は人間過ぎる。老若男女、血の臭いがする。社会の臭いがする。とてもお利口な臭いだ」
「お前も同じだ」
「いいやちがう。俺は男しか殺さない。それにこの肉体の血は全部、女の血だ」
「気持ち悪いやつだ」
「俺は女が好きだ。好きだから犯す。犯すには生きてないといけない。お前は真逆っだ。嫌いだから殺す。そしたら俺は女を抱けなくなる」
「だから俺を殺すのか」
「そうだ」
「そうか」
傍若無人。暴力こそが全てと殴り合う交差点。男はつねに笑っていた。俺はつねに顰めていた。そこに偽りの正義も悪も無い。模造品の物語もありきたりな人生も無い。ただ暴力。血と傷と肉体だけがあった。一発ぶつけるたびに肉の感触がした。今まで吹き飛んでしまうがゆえ無いような感触ではない。たしかにある人の肉の感触だった。
俺は笑った。男は共感した。暴力を楽しんだ。純粋な存在証明をし続けた。閉塞感と空っぽな心はついに肉厚な感触が埋めてしまった。男は女などお構いなしに俺を殴り飛ばした。女は塵になった。俺は町など知らずに男をぶっ飛ばした。男は瓦礫に埋まった。
そういうのが一週間続いた。
流石に暴力も飽きた。ので、俺は男と一緒に火星で砂遊びすることにした。人類はこれを小説の中の話だと公にしたが、であればこれほどに無意味な暴力も無いなと俺たちは見えない城を建てた。
嫌殺好犯 緋西 皐 @ritu7869
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます