第7話 最果ての村、絶望の地を救う
日が昇り始めたころ、森を吹き抜ける風が新しい香りを運んできた。
木々の軋む音に混じって、遠くから人の声が聞こえる。
ざわめきと、助けを求める叫び。
俺はすぐに身を起こし、焚き火を消した。
「アルディネア、聞こえたか? 人の声だ。」
『ああ。南の丘陵を越えた先、生きた者の気配が三十ほど。
周囲を取り囲むは死の瘴気――恐らく、病か呪いの類だろう。』
「人が住んでいたのか……この辺境にも。」
息を整え、必要な荷を背中に括り付けた。
森の入口から南へ進めば、一日もかからず丘を越えられる。
アルディネアに頼めば一瞬だが、竜が直接赴くのはまだ早い。
人々が竜を見れば恐怖し、かえって逃げ出すだろう。
「俺ひとりで行く。もしもの時は援護を頼む。」
『承知した。とはいえ、油断するなよ。人の絶望ほど厄介な呪いはない。』
竜の声を背に、俺は森を抜けた。
***
半日も歩くと、景色が恐ろしく荒れてきた。
緑だった木々は次第に枯れ、黒ずんだ茎だけが立ち尽くしている。
地面には無数の亀裂が走り、そこから白い煙が吹き出していた。
大地に魔力の乱流が起きている――アルディネアの言う瘴気とはこのことだ。
やがて視界の先に、瓦礫と化した村の残骸が現れた。
木造の小屋が何棟か倒れ、今にも崩れ落ちそうな教会が一つ。
その前に、人々が集まっていた。十数人、いや、もっとか。
擦り切れた服をまとい、顔色は灰のように白い。
その中から、ひとりの中年男が俺に気づいて駆け寄ってきた。
「あなたは旅人か? お願いだ、助けてくれ! 村が……このままじゃ皆死んでしまう!」
「落ち着け。何が起きてる?」
「瘴気だ……谷の底から吹き出している。三日前に掘った井戸の水が腐り、飲んだ者が次々に倒れた。子供たちも……っ!」
濁った息を吐きながら男が膝をつく。
近くに倒れた若い娘を見た。唇が青黒く乾き、胸の上下も浅い。
医療ではない。体の中の“魔素”が壊れている。
要するに、汚染された地脈が毒を回しているんだ。
俺は地面に手を当て、ゆっくり目を閉じた。
土の中を流れる水脈の動きを、身体の中で感じ取る。
……濁っている。明らかに不自然だ。
誰かがわざと地を掘り、封じられた魔脈を開いたのだ。
『見たか、アレン。これは“人工の瘴気”だ。』
頭の中にアルディネアの声が響く。
俺は小さく頷いた。
「これは偶然じゃないな。王都の錬金術師でもこんな真似ができる。」
『人の貪欲さは恐ろしいな。だが、急げ。このままでは半刻で村は全滅する。』
「やれる。やるしかない。」
地面に魔力を注ぎ込み、瘴気の流れを一気に可視化する。
光が走り、地下に蛇のような黒い線が見えた。
それは教会の裏手――崩れた井戸を中心に渦を巻いていた。
村人たちが不安そうに見守る中、俺は立ち上がり、声を上げた。
「離れてろ! 今から瘴気を断つ!」
手を広げ、意識を集中する。
深呼吸とともに胸の奥に刻まれた竜契の印が輝き出す。
空気が震え、風が起こる。
周囲の枯れ木が軋み、光が指先に凝縮する。
「《竜脈浄化》!」
轟音が地を揺らし、風が大地へ吸い込まれる。
欠けた井戸から黒煙が噴き上がると同時に、眩い光がそれを包み込んだ。
一瞬の閃光。
次に来たのは、透き通るような静寂だった。
村人たちは息を呑み、跪いた。
目の前で黒ずんだ地面が柔らかな緑を帯び、腐敗臭が消えていく。
井戸から吹き上がっていた瘴気は完全に払われ、その代わりに清水が静かに湧き上がった。
「す、すげぇ……!」
「瘴気が……晴れた……!」
驚きの声が一斉に上がる。
泣きじゃくっていた子供が、震える手で清水を掬い、口に含んだ。
その顔に色が戻っていく。
「神さまだ……この人は神の使いだ!」
誰かがそう言い、村人たちが一斉に頭を下げた。
「違う。ただの放浪者だよ。でも、もう心配いらない。
明日になれば空気も澄む。倒れた者も数日で回復するはずだ。」
「恩人……あなたのお名前を……!」
「アレン。辺境で暮らしてる。」
そう答えた途端、遠くで雷鳴のような低い響きが上がった。
――アルディネアだ。いつでも目を光らせてるらしい。
その音を聞いた村人たちはさらに驚愕し、十字を切るように祈った。
「今のは……空の神の声か……」
「まあ、そんなところだ。」
日が傾く頃には、村の空気がすっかり変わっていた。
あれほど荒んでいた人々の目に、生きる光が戻っている。
倒れていた者も息を吹き返し、焼けた畑には若芽が顔を出し始めた。
沈みかけた太陽の下、村の代表らしき老人が近づいてきた。
腰を曲げ、深々と頭を垂れる。
「この村は“ベルナス”と申します。
我らは何代にもわたってこの地を守ってきましたが……瘴気に勝てなかった。
どうか、この地を……あなたの庇護のもとに置かせてください。」
俺は少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「いいだろう。だが、俺は神じゃない。助けを求めるなら共に耕そう。
この土地を生かすのはあんたたち自身だ。」
「もちろんでございます! アレン様!」
老人の声に村人たちの歓声が重なった。
その音がどこか懐かしく、胸にしみる。
……人の笑い声というのは、どんな奇跡よりも強い。
夜、村に残っていた薪を使い焚き火を起こした。
村の子供たちが小さな手で芋を焼き、笑いながら俺に差し出してくる。
焦げすぎた芋だったが、断れずにかじると、驚くほど甘かった。
『どうやら、“領民”ができたようだな。』
頭の中にアルディネアの声が響く。
その声にはどこか満ち足りた響きがあった。
「ああ。奇妙なもんだ。昨日までは一人で静かに暮らすつもりだったんだけどな。」
『人は人を呼ぶ。光が灯れば、寄ってくるものだ。
それが嫌なら、灯を消すしかない。汝は消す気か?』
「まさか。むしろ増やすさ。温かい場所に、人は生きる。」
夜風がふっと流れ、焚き火がぱちぱちと音を立てた。
村の奥では、さっそく男たちが井戸の修理を始めている。
俺は芋をもう一口かじり、空を見上げた。
満天の星が笑っているように瞬いていた。
心の奥で、確かな実感が芽生える。
――ここから始まるんだ。
俺の“領地経営”という名の、平和な戦いが。
竜の加護を得た辺境の地で、人々が再び生きる希望を取り戻した夜、
森の風は優しく鳴り、遠くでアルディネアの低い鳴き声が響いていた。
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