第6話 もう一度

Scene1 閉じた個別のチャットルーム


深夜。


湯気の抜けたマグが、机の端で冷えていた。

部屋は静かで、時計の針だけが音を持っている気がした。


彼は、画面を開いたまま動かなかった。


閉じた個別のチャットルーム。

自分の場所じゃない。

奈々が知らせてきた、あの部屋だ。


もう投稿はできない。

入力欄は消えて、白い余白だけが残っている。


それでもログは残る。


スクロールすると、英語の行があって、次の瞬間には日本語になっている。

意味は、分かる。

少なくとも、言葉の表面は。


彼が入ったときには、すでに空気が荒れていた。

だから彼がしたのは、閉じることだけ。

それ以上は、触れなかった。


……なのに。


戻って読むと、最初は驚くほど普通だった。

挨拶があって、軽い自己紹介があって。

ぎこちないけれど、悪意はない。


最初の小さな引っかかりは、ほんの一文だった。


遠慮したつもりの言葉。

自分を下げて、相手を立てたつもりの言い回し。


その次に来た返事は、短い。

直球で、余計な飾りがない。


翻訳された日本語だけを見ると、冷たく見える。

英語の方だけを見ると、軽く見える。


どちらも、たぶん違う。


(……ここか)


彼は指先で、同じ部分を何度もなぞった。

誰かの「すみません」に、誰かが返した短い一言。

その後に続いた、別の誰かの助け舟。


助け舟のはずなのに、さらに誤解が増える。

言い直したつもりが、言い訳に見える。

笑って流したつもりが、嘲りに見える。


(……なんで、こうなる)


彼は画面の角度を少し変えた。

天井の灯りが薄く映り込んで、文字が読みにくくなる。

苛立ちそうになって、すぐに戻した。


翻訳は完璧じゃない。

それは、知っている。


自分の個別のチャットルームでは、海外の人とも、それなりに回っている。

多少の言い回しのズレなら、笑って済む。

相手が「そういう言い方をする人」だと分かっていれば、受け止められる。


でも、ここでは——。


たった一度の引っかかりが、雪みたいに転がって、形を変えていく。

誰かが悪いと決めた瞬間、全員の言葉がその形に寄っていく。


彼はスクロールを止めた。


ログのいちばん下に、彼の痕跡があった。

短い、管理者の文。


閉じた。

鎮火した。

それだけの処理。


それはできる。


でも。


次に似たことが起きたら、また閉じるのか。

そのたびに、彼は「仲間」という言葉を、どこへ置けばいいんだ。


(……仲間。)


机の上でスマホが震えた。

通知ではない。たぶん、何かの定期処理だ。


彼は手を伸ばしかけて、やめた。


いま触ったら、別の場所でも同じ火種が見える気がした。

見える気がして、怖かった。


代わりに、キーボードに指を置き、何も打たずに離した。


(……止め方が、分からない。)


その言葉が、喉の奥でひっかかったまま落ちていかない。

彼は画面を閉じずに、もう一度だけログの冒頭へ戻った。


Scene2 追加報告


朝。


カーテンの隙間から入る光が、机の上の埃を浮かび上がらせた。

彼はコップの水を一口飲んで、喉の乾きが残るのを感じた。


画面には、個別のチャットルーム一覧。

閉じた部屋には印がついている。


その印は、ひとつだけ。


昨夜、彼が閉じた部屋。

自分の場所じゃない、あの個別のチャットルーム。


通知音は鳴らない。

それでも、奈々のメッセージは届く。


「おはよう。昨日のやつ、閉じたの見た」

「ありがとう。助かった」


少し間が空いて、続く。


「で、似たのがまたある」

「同じ感じ。言葉は通ってるっぽいのに、空気だけ変になるやつ」


彼は指を止めた。


(……また。)


奈々は、余計な飾りを入れない。

現場で見えたものだけを投げてくる。

彼にとっては、ありがたいはずだった。


「どれくらい?」

彼はそれだけ返した。


少しして、奈々から返事が来る。


「多くはないよ」

「SNSなら普通に見かけるやつ」

「でも、DeepMapの中だと、変に目立つ」


彼はその文を読んで、胸の奥が少しだけ痛んだ。


DeepMapの中だと、目立つ。

それはつまり——ここが、そういう場所だと、みんなが思っている。


「場所が違うだけで、こんなに変わるんだな」


奈々の次の文は、少しだけ迷いが混じっていた。


「あとさ」

「昨日のやつ、外国人がどうとか言ってる人いた」

「追い出せ、って」


彼は息を止めた。


奈々が、そういう言葉を拾うのは珍しい。

拾ったということは、目に入ったということだ。


「その人、どこの部屋?」

彼は慎重に打った。


「公開チャットで見かけた」

「誰が言ってるかは、追ってない」

「ただ、あの感じの空気になったら、また燃えると思う」


彼は画面を見つめた。


公開チャット。

個別のチャットルーム。

同じアプリの中なのに、温度が違う。


「ありがとう。場所だけでいい」


そう返してから、彼は少し迷って、続けた。


「無理に追わなくていい」

「奈々が危ない」


送信して、すぐに自分で変だと思った。

危ない、という言葉が、ここには似合わない。


でも奈々は、短く返してくる。


「了解」

「私は別に平気」

「でも、これ、放置したら増える気がする」


彼は、指を止めた。


放置したら増える。

それは、彼が一番聞きたくない言葉だった。


(……増える。)


数の話じゃない。

でも、数が増えたら、閉じるだけでは追いつかない。


彼は奈々の文を、もう一度だけ読み返した。

「SNSなら普通に見かけるやつ」

「でも、DeepMapの中だと、変に目立つ」


目立つ。

その言葉が、ずっと残った。


Scene3 返せない佑真


昼前。


窓の外は明るいのに、部屋の中はまだ朝の延長みたいだった。

彼はノートPCの前で、何も開いていないタブを眺めていた。


手を動かせばいい。

対策案なら、いくつも浮かぶ。


同じ国で寄せる。

同じサービス圏で寄せる。

公開チャットを分ける。

個別のチャットルームの入口を変える。


思いつく。

でも、それを押した瞬間に、何かが壊れる気がした。


机の上でスマホが震える。

佑真からだった。


「今、ユーザー数いくつ?」

「3万いった?」

「いってないなら、どうやって伸ばすか考えろ」


彼は画面を見たまま、返信欄に指を置いた。


「いくつだと思う?」

そう打って、消した。


佑真の文は続く。


「数字が全てじゃないとか言うなよ」

「作ったなら伸ばせ」

「伸びたら、仲間も増えるだろ」

「今が一番大事な時期なんだよ」

「ここで踏まないと、全部無駄になるぞ」


彼は、息を吐いた。


(……こんな時に。)


佑真の言葉は、いつも結論が先に来る。

勢いで押して、空気を変えるタイプだ。

それで救われた場面もあった。


でも今日は、その勢いが、別のものに見えた。


彼の頭の奥に、短い声が戻る。

Yuiの言葉。


「最初、仲間を探すために作ったんじゃなかった?」


(……そうだ。)


佑真の「伸びたら仲間も増える」は、間違っていない。

少なくとも、数字の上では。


でも、いま目の前にあるのは——

数字で埋まらない、別の穴だった。


彼は返信欄を閉じた。

送らない。

送れない。


スマホを伏せると、机に当たる音が小さく響いた。

それだけで、会話が終わったみたいに感じる。


彼はノートPCを開き直して、管理画面を出した。

ユーザー数は増えている。


それが嬉しい、という感覚が、今日はどこにもなかった。


(……増えるのが、怖い。)


彼は、画面の右上にある「公開チャット」の項目を見た。

そこに触れるだけで、世界が変わる気がした。


触れないまま、視線だけを置き続けた。


Scene4 戻る言葉


午後。


洗濯機の終わりを知らせる音が鳴って、彼は立ち上がった。

狭い廊下を歩く間、足音が妙に大きく聞こえる。


乾いたタオルを手に取って、指先で端をつまんだ。

薄い布なのに、今日は重い。


戻って、椅子に座る。

画面はさっきのまま、管理画面の数字が残っている。


増えている。

それは、どこか遠い出来事みたいだった。


彼は、ブラウザのタブを閉じて、何もない白い画面を開いた。

メモ欄。


指が動く前に、頭の中で、声がした。


榊原の声。


「そう。分かり合えない。

 だが——“分かろうとする努力”がね、

 時に不思議な関係を作るんだ。」


言葉だけが、残っている。

状況も、顔も、場所も、うまく思い出せない。


でも、その一文だけは、妙に鮮やかだった。


(……分かろうとする努力。)


彼は、カーソルの点滅を見つめた。


努力って、何だ。

丁寧に話すことか。

相手を傷つけない言い方を選ぶことか。

謝ることか。

譲ることか。


どれも、違う気がした。

どれも、正しい気もした。


彼は文字を打とうとして、手を止める。

言葉にした瞬間、嘘になる気がした。


あの個別のチャットルームのログ。

最初の一文。

次の返事。

その間に落ちた、見えない何か。


(……努力、って。)


彼は、椅子の背にもたれた。

背中が軋む。


自分がやってきたのは、何だろう。

ログを集めて、似ている人を繋げること。

価値観が近い人を見つけること。


それで、仲間ができると信じた。


信じていたはずなのに。


現実は、こうだ。


彼は唇を噛んだ。

噛んだところで、味はしない。


“分かろうとする努力”が、必要だというなら。

それは、誰がするんだ。


自分か。

相手か。

全員か。


(……全員が努力するとか、そんなの本音じゃないだろ。)


声にすると弱くなるから、心の中だけで言った。


カーソルが、ずっと点滅している。

白い画面が、彼を急かしている気がした。


彼は、短く一行だけ打った。


「分かろうとする努力=って何だ?」


打って、すぐ消した。


消したあとに残った白が、さっきより眩しかった。


Scene5 Yuiとのチャットルーム


夕方。


外の光が少しだけ赤くなって、部屋の角に影が伸びた。

彼は机の上のスマホを裏返したまま、しばらく動かなかった。


裏返したところで、何も消えない。

ただ、見えないだけだ。


彼は息を吐いて、スマホを戻した。

Yuiの名前がある個別のチャットルーム。


迷って、開く。


Yuiは先に何かを送ってきたりしない。

必要なときに、必要なだけ。

それが、なぜか助かる。


彼は短く打った。


「ちょっと、詰まってる」


送ったあと、指が止まる。

これだけで伝わる気がした。

伝わらなかったら、それはそれでいい。


しばらくして、返事が来る。


「どこが?」


短い。

でも、追い詰める感じがない。


彼は画面を見つめた。


どこが。

全部だ、と言いたくなる。

でも、全部と言った瞬間に、全部が嘘になる。


彼は、ゆっくり打った。


「言葉は通ってる」

「でも、壊れる」

「止め方が分からない」


送って、胸の奥が少しだけ軽くなる。

軽くなるのに、空っぽにもなる。


Yuiの返事は、すぐではなかった。

たぶん、考えている。


少しして届く。


「止めるの、誰が?」


一瞬、指が止まった。


(……誰が。)

自分か。

相手か。

全員か。


彼は、そのまま打った。


「自分しかいない」

「でも、自分じゃ無理」


送った瞬間、情けなさが走る。

見せたくない言葉だった。


でも、Yuiはそこで慰めない。


「無理なら」

「一人でやらない方がいい」


彼は一瞬、指が止まった。


「誰に?」

と打ちかけて、やめた。


Yuiの次の文は、短い。


「助けてもらうしかないと思う」

「今のままだと、湊が潰れる」


胸の奥が、少しだけ熱くなる。

潰れる、という言い方が、妙に現実だった。


彼は画面を見つめたまま、息を吐いた。


(……助けてもらう。)


その言葉が、うまく飲み込めない。

でも、どこかで——それしかない気もした。


仲間。


彼は画面を見たまま、少し笑いそうになって、やめた。

笑う理由がない。


「作った」

「はず」


そう返して、また迷う。


「でも、仲間って何だ」

打って、消した。


消したあとに残った沈黙が、重い。


Yuiから、もう一つ届く。


「仲間なら」

「一人で抱えず頼って欲しいと思う……はず」


彼は、その文を何度も読んだ。


一人で抱えない。

それは、理屈としては簡単だ。


でも、誰に相談する。

何を相談する。

どうやって相談する。


(……相談したいのに、何を言えばいいのか分からない。)


彼は、指を置いたまま動かなかった。


返信欄は白い。

白すぎて、目が痛い。


そのまま、短く打った。


「みんなで話す場所、作る」


送信。


送った瞬間、自分の心臓の音が少し大きくなった。


Yuiの返事は短い。


「うん」

「それ、いい」


彼は画面を閉じて、机の上にスマホを置いた。

置いた音が、妙に大きく響いた。


Scene6 決断


夜。


部屋の灯りをつけても、明るくなった気がしなかった。

彼は椅子に座ったまま、画面の上を行ったり来たりしていた。


昨夜閉じた、ひとつの個別のチャットルーム。

奈々の短い報告。

佑真の数字の話。

Yuiの言葉。


全部が別々なのに、同じところだけが痛む。


(……価値観が近いはずなのに。)


言葉は通っている。

少なくとも、翻訳は動いている。


それでも壊れる。

壊れる、という実感だけが残る。


彼は管理画面を開いた。

普段は触らない項目が並ぶ。

その中に「公開チャット」がある。


カーソルを合わせただけで、喉が乾いた。


公開チャットは、便利だ。

人が増えても、自然に流れていく。

やり取りが軽くて、熱が残りにくい。


だから、あまり触らないようにしてきた。

余計な手を入れれば、空気が変わる。

空気が変われば、DeepMapそのものが別物になる。


(……でも。)


いま起きているのは、静かなところで壊れている。

個別のチャットルーム。

閉じれば消える。

消えるけど、また起きる。


彼は、椅子の背にもたれた。


相談できるほど原因が分からない。

だから、一人で抱えるしかなくなる。

そして、それが一番まずい。


Yuiの言葉が頭の片隅で語り続ける。


「仲間なら」

「一人で抱えず、頼ってほしいと思う……はず」


(……頼る。)


誰に。

何を。

どうやって。


答えは出ない。

でも、ここで止まるのも違う。


彼は、画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


公開チャットで、話す。


全員に向けて。

今起きていることを隠さずに。

分からないことも、分からないままに。


——助けてほしい、と。


その決断が胸の中に落ちた瞬間、怖さが増えた。

火に近づく怖さだ。


でも同時に、少しだけ楽になった。

やることが、一つに絞られたから。


彼はメモ欄を開いて、タイトルだけ打った。


「公開チャットで話す」


そこで止めた。

まだ、作らない。


先に決めるべきことがある。


ルール。

入口。

表示。

退出処理。


そして、言葉。


全員に送る文面。

自分の“今”が露骨に出る文。


彼はカーソルを点滅させたまま、指を動かさなかった。


(……先に、言葉だ。)


机の上で、スマホが小さく震えた。

佑真かもしれない。

奈々かもしれない。


彼は見なかった。

いまは、見ない方がいい気がした。


画面の白だけを見つめて、

彼は、次の項目を書き始めた。


「ルール」


Scene7 準備


夜は深くなって、窓の外は黒い板みたいに見えた。

彼は机の上の明かりだけで、画面を見ている。


公開チャットで話す。

そう決めた。


決めただけで、胸の奥がざわついた。

まだ何もしていないのに、もう戻れない気がする。


彼はメモ欄に、箇条書きで打った。


「ルール」

「入口」

「表示」

「退出処理」

「告知文」


打っただけで、指先が冷たくなった。


(……ルールは一つ。)


誹謗中傷は禁止。

それだけは、迷わない。


でも、どこからが誹謗中傷なのか。

それを定義し始めたら、終わらない。

だから、定義しない。


“見て分かるもの”だけ処理する。

曖昧なところは保留する。

それでも、場は守れるはずだ。


彼は管理画面を開き、設定項目を探す。

普段は触らない階層に、薄い文字で「管理者設定」が並ぶ。


「退出処理:有効」


チェックボックスにカーソルを合わせて、止まる。


退出させる。

落とす。

切る。


言葉にすると冷たい。

でも、冷たくしないと守れない場所もある。


彼はチェックを入れた。


次。


「匿名」

「実名」


どちらかに寄せれば、どちらかが来なくなる。

ここは、寄せたくない。


彼は両方を許可にした。


(……次は、表示。)


ここで、彼の指が止まった。


公開チャットが二段表示になった瞬間、

空気が、そっちへ寄る。


昨日の個別のチャットルームでも、

誰かが「外国人」と言い出した途端に、言葉が変わった。

奈々が拾ってきた、公開チャットの空気も同じだった。


(……そこが原因なら、ここは最初から壊れてる。)


そう思いたくなくて、彼は視線を逸らした。


価値観が近い。

だから、仲間になれる。

その前提だけは、崩したくない。


だから、同じ言語で見せる。


二段表示にしたら、結局同じになる。

“分かってしまう”方へ、引っ張られる。


(……一枚にする。)


日本語か英語か。

どちらか一方だけ表示。


投稿はどちらでもいい。

見る側は、端末の言語設定に従う。


それなら、余計な情報が減る。

“相手の姿”が、少しだけ見えにくくなる。


彼は、そこで息を止めた。


(……見えにくくするって、ずるいか。)


ずるい。

でも、今はその“ずるさ”が必要な気がした。


彼は次に進む。


入口。


公開チャットに入る前に、一ページ。

短い注意書き。

ルールと、表示の話だけ。


告知文に仕様を混ぜると、熱が死ぬ。

それは分かっている。


だから、入口で一回だけ見せる。


彼は、入口ページの文面を打った。

淡々と。

冷たく。


「この公開チャットでは、表示が『日本語』または『English』のどちらか一方になります。」

「可読性のための仕様です。投稿はどちらでも構いません。」

「表示の都合上、自動変換が入る場合があります。」

「直訳に寄ることがあり、意図と違う文章になる可能性があります。」

「誹謗中傷は禁止。該当する投稿が確認された場合、退出処理を行います。」


打ち終えて、彼はしばらく見つめた。


“直訳”。


その言葉が、少しだけ引っかかる。

直訳のせいにされるかもしれない。

逆に、直訳だからこそ見えるものもあるかもしれない。


(……どっちでもいい。)


彼が欲しいのは、正しさじゃない。

壊れない形だ。


最後に、告知文。


さっき書いた文面を呼び出して、眺める。

熱を入れすぎると嘘になる。

冷たすぎると、誰も来ない。


彼は一行だけ足したくなって、やめた。

足した瞬間、言い訳になる気がした。


画面の隅で、時刻が変わっている。


彼は、深く息を吸って、吐いた。


(……これで、行ける。)


行ける、とは言い切れない。

でも、行くしかない。


彼は、告知の「固定表示」欄にカーソルを置いたまま、指を止めた。


Scene8 入室前ページ


夜更け。


画面の端で時刻だけが静かに進んでいく。

彼は「入室前ページ」の欄に、さっき作った文面を貼り付けた。


更新。

反映。

それだけ。


ほんとうに重いのは、次だ。


固定表示。

全員が目にする言葉。


彼は入力欄の白を見つめた。

白はいつも同じなのに、今日は壁みたいに見える。


(……何を書けばいい。)


「お願い」

と打って、消した。


お願い、という言葉は軽い。

軽いのに、頼るしかない。


彼は一度、呼吸を整えてから打ち始めた。


「DeepMap 管理者より」


それだけで、少しだけ冷たくなる。

冷たくしたいわけじゃない。

でも、熱いまま書いたら、嘘になる気がした。


次の行。


「いま、個別のチャットルームで——」


止まる。


個別のチャットルーム、と書くと、どこかが浮く。

特定の誰かが浮く。

責める空気が出る。


彼は「いま」を消して、「最近」にした。

それも消した。


(……逃げてる。)


指先が止まった。


彼は、例を書かなければ議論にならないことを思い出す。

奈々の言葉。

「SNSなら普通に見かける」

でも「DeepMapの中だと目立つ」。


目立つ。

その“目立ち方”を言葉にしないと、始まらない。


彼は箇条書きを打った。


・相手を立てたつもりの言葉が、攻撃として受け取られる

・短い返事が、拒絶に見える

・謝ったつもりが「謝っていない」と言われる/謝りすぎだと言われる

・冗談のつもりが、非難として刺さる

・「普通こうする」が、相手には失礼に見える


打ち終えて、胸が少しだけ痛くなった。


(……これ、当たり前だろ。)


SNSなら、当たり前。

だからこそ、DeepMapで書くのが怖い。


“価値観が近い場所”だと言い切ってきたのに、

その場所で「当たり前の揉め方」が起きている。


彼は、次の行に「価値観」と打った。

打って、止まった。


価値観が近い。

それがコンセプトだ。

そこから逃げたら、告知する意味がない。


でも、ここで断定したら嘘になる。

“近いはず”だ。

“近いと信じている”だ。


彼は打ち直す。


「DeepMap は、価値観が近い人どうしが出会うための場所です。」


一行入れた途端に、背中が熱くなった。

重い。

言い切ったからだ。


彼は「です」を消して、「のはずでした」にした。

それも消した。


最終的に、こうした。


「DeepMap は、価値観が近い人どうしが出会うための場所です。

 少なくとも、私はそう信じて作りました。」


少しだけ、息ができた。


次。


「私は、止め方が分かりません。」


この一文は、消さなかった。

消したら、何も始まらない気がした。


彼は指を止めて、画面を見つめる。


ここまで書いて、まだ“お願い”が書けていない。

助けてほしい、と言えていない。


(……言え。)


そう思って、指が動く。


「だから、公開チャットを一つ作りました。」


打ってから、すぐに続ける。


「ここで、みんなで話したいです。」


“みんな”という言葉が、少し怖い。

でも、いまはそれしかない。


彼は最後の段落に手を置いて、止まった。


誹謗中傷禁止。

退出処理。


それを書くと、また冷たくなる。

書かなければ、壊れる。


彼は短く、淡々と置いた。


「誹謗中傷は禁止です。

 その場がそういう場所になった瞬間、退出処理を行います。」


二時間だけ。

それ以上は、彼が持たない。


開始と終了を決める。

曖昧にしたら、終わらない。


彼は日付を入れた。


2023年11月3日(金)

20:00〜22:00


(……二時間なら、見届けられる。)

書き終えた。


まだ、足りない。

でも、いまの彼が書けるのは、このくらいだ。


彼は一度だけ全文をスクロールして、戻った。


(……これで、送る。)


送る、ではない。

固定表示にする。

全員の目に置く。


彼は、マウスを握ったまま動かなかった。

クリックすれば、もう戻れない。


その白が、さっきより眩しかった。


DeepMap 管理者より


最近、個別のチャットルームの中で、会話がうまく続かなくなる場面が出ています。

言葉の意味は通じているのに、意図が伝わらない。

相手を立てたつもりが、攻撃に見える。

短い返事が、拒絶に見える。

謝ったつもりが、逆に火種になる。


DeepMap は、価値観が近い人どうしが出会うための場所です。

少なくとも、私はそう信じて作りました。

だから本来、こうはならないはずだと、私は思っていました。


でも、現実に起きています。


具体的には、たとえば——

・相手を立てたつもりの言葉が、攻撃として受け取られる

・短い返事が、拒絶に見える

・謝ったつもりが「謝っていない」と言われる/謝りすぎだと言われる

・冗談のつもりが、非難として刺さる

・「普通こうする」が、相手には失礼に見える


正直に書きます。

私は、止め方が分かりません。

自分だけでは解決できないと思っています。


だから、公開チャットを一つ作ります。

ここで、みんなで話したいです。

気づいたことを、そのまま書いてください。

強い言葉ではなく、理由や背景も一緒に。


誹謗中傷は禁止です。

その場がそういう場所になった瞬間、退出処理を行います。


開催日時:2023年11月3日(金) 21:00〜23:00


Scene9 その日が来る直前


11月2日。


夜。


部屋の灯りをつけても、明るくなった気がしなかった。

彼は固定表示の画面を開いた。


告知文。

開催日時。


2023年11月3日(金) 20:00〜22:00


指が止まる。


(……置く。)


クリック。

「更新しました」と表示される。


それだけ。


なのに、心臓の音が少しだけ大きくなる。

自分で火を置いたみたいだった。


すぐに、奈々から来た。


「見た」

「公開チャットで話し合うの、いいと思う」


彼は息を吐く。

短い文なのに、少し救われる。


「荒れると思う?」

彼はそう返した。


奈々は軽い。


「荒れるかも」

「でも、荒れないかも」

「どっちでも、まあ……見る」


続けて、少しだけ温度が上がる。


「私は言いたいこと言うつもり」

「変な空気になったら、止める」


彼は迷ってから送った。

「無理しないで」


続けて、奈々らしい現場の言い方。


「線引き悩むなら」

「荒れた瞬間に退室でいいと思う」

「考え始めたらキリないし」


彼は短く返した。


「分かった」

「無理はしないで」


すぐ返る。


「そっちこそ」

「飲み物置いときな」


その直後、佑真から来た。


「おい」

「何か問題起きてんの?」

「告知、あれ本当?」


佑真は、あの文で初めて気づいた。

それが分かる。


「起きてる」

彼はそれだけ返す。


返事は速い。


「なら早く直せ」

「数字に響く」

「2時間で足りるのか?」

「生ぬるくやるなよ」


彼は返信欄に指を置いて、止めた。

言い返す言葉はいくらでもある。

でも、今じゃない。


スマホを伏せる。

机に当たる音が、小さく響く。


(……こんな時に。)


最後に、Yuiへ。


自分から送った。


「告知出した」

「明日 20:00〜22:00」


少し間が空いて返ってくる。


「見た」

「時間決めたの、いいと思う」


彼は指を動かす。


「うまくいかなかったらどうする?」


Yuiは短い。


「うまくいかない前提で見てればいい」

「全部は無理」

「でも、何かは残る」


何かは残る。


その言葉が、彼の中で、少しだけ形になった。


彼はスマホを置いて、時計を見た。

もう遅い。


遅いのに、眠れない気がした。


(……明日。)


scene10 公開チャット当日

11月3日。


朝。


目が覚めた瞬間、まず時間を見た。

まだ早い。


早いのに、胸の奥が落ち着かない。

寝る前より、乾いている。


彼は水を飲んで、画面を開く。


固定表示。

開催日時。


20:00〜22:00


変わらない。

当たり前だ。


それでも指が勝手に更新を押す。

押して、何も変わらないのを見て、安心する。


安心して、また怖くなる。


昼。


洗濯物を畳む。

畳んだのに、部屋は整わない。


食べる。

味がしない。


スマホを手に取って、置く。

また手に取る。


(……二時間だけ。)


そう思うと、短い。

短いのに、重い。


夕方。


外が少しだけ赤くなって、部屋の角に影が伸びた。

彼は椅子に座ったまま、時計を見た。


まだだ。

まだ。

でも、もう始まっている気がする。


19:10。


水を飲む。

飲んだのに喉が乾く。


19:40。


指先が冷たい。

マウスを握る手に、汗がにじむ。


19:55。


公開チャットの画面を開く。

参加者数は、まだゼロ。


ゼロが、妙に重い。


20:00。


彼は画面の「開始」を見つめた。

押すだけだ。


押したら、始まる。

そして、二時間で終わる。


(……無事に終わってくれ。)


自分の願いが卑怯に聞こえて、目を逸らした。

それでも、指は戻る。


開始。


クリック。


画面の表示が切り替わった。

公開チャットが、開いた。


Scene11 表面的な意見の洪水


タイムラインは、すぐに“形”を持ち始めた。


同じ言葉が、別の言葉で繰り返される。

繰り返されるうちに、少しずつ尖る。


「翻訳が原因じゃない?」

「直訳だと失礼に見えることある」

「翻訳の精度上げればいい」

「いや、翻訳のせいにするのは違う」


彼は、目を細めた。


翻訳。

いちばん分かりやすい答えだ。

分かりやすいから、そこに集まる。


(……それだけじゃない。)


そう思うのに、言い返す言葉がない。

言い返した瞬間に、争点が固定される気がした。


次。


「短文が冷たい」

「短文が普通の人もいる」

「句読点だけで印象変わる」

「スタンプ文化がないから余計に硬い」

「それなら長く書けば?」


長く書けば。

それで済むなら、苦労しない。


彼は、喉の奥で笑いそうになって、やめた。

笑ったら、誰かを軽く見たことになる。


「謝るタイミングが違う」

「謝りすぎると逆に怪しい」

「謝らないと火がつく」

「謝ったのに、許されないのがつらい」


謝罪。

誰かの善意が、誰かの苛立ちになる。


(……善意なのに。)


そこに、急に重い文が落ちる。


「結局、人間性じゃない?」

「価値観が近いって言っても、性格は違う」

「価値観が近いなら、こんな揉め方しないはず」


価値観。


その単語が出た瞬間、彼の胸が少しだけ痛んだ。

自分が置いた言葉だから。

コンセプトだから。


(……近いはず、なんだ。)


はず。

はずなのに、こうなっている。


タイムラインの端に、奈々の名前が見えた。

一文だけが落ちる。


「言葉の意味が通ってるのに壊れるの、気持ち悪いよね」

「誰かが悪いって話じゃなくてさ」


軽い。

でも、逃げない。


その直後に、別の誰かが被せる。


「でも、“外国人がいるから”って話も出てたよね」

「やっぱり合わないんじゃない?」


彼の指が、ほんの少しだけ動いた。


(……そこに行くな。)


でもまだ、決定的ではない。

まだ“話題”のひとつだ。


他の意見がすぐ流していく。


「いや、外国人とか関係ない」

「国籍の話にすると荒れる」

「それは差別だろ」

「でも実際、文化の違いあるじゃん」


文化。


その言葉が出るたびに、彼は胃が重くなる。

言語化できないものに、ラベルが貼られる感じがした。


(……文化、って言えば終わるのか。)


終わらない。

終わらないから、ここにいる。


速度が上がる。

二つの流れが生まれる。


片方は、対策案。


「同じ国で寄せればいい」

「海外は海外で分けたら?」

「公開チャットも分けよう」

「そうすれば揉めない」


もう片方は、気持ち。


「分けたら負けだと思う」

「ここは仲間を探す場所なんじゃないの」

「分けるなら最初から来ない」

「でも、傷つくなら分けたい」


仲間。


その単語が出て、彼は息を止めた。

自分が欲しかったもの。

欲しかったのに、今は重い。


(……仲間って、何だ。)


正論が流れる。

感情が流れる。

提案が流れる。


そのどれもが、正しい気がして、

どれもが、違う気もした。


彼は視線を少しだけ外して、画面の右側を見る。

退出処理のボタンがある。


まだ押していない。

でも、近づいている。


タイムラインの端で、誰かが言う。


「管理者はどう思うの?」


その一文が、彼の喉を締めた。


(……言えない。)


言った瞬間、

それが正解として流れる。

その怖さの方が大きい。


彼は、何も書かないまま、流れを見続けた。


角が立つ。

立っていく。


まだ小さい。

でも、確実に。


Scene12 一度だけ噛み合いかける


流れの中に、ふいに“会話”が生まれた。


それまでのタイムラインは、意見の束だった。

誰かの正しさ。

誰かの経験。

誰かの苛立ち。


それが、同じ場所を通って、すれ違っていく。


彼は、画面のスクロールを止めた。

一つのやり取りが、目に引っかかった。


「私なんて全然なので……」

「もし迷惑だったら、ごめんなさい」


短い二行。

たぶん、悪意はない。

むしろ、相手を立てたい言い方だ。


その直後に返ってくる。


「迷惑ならやらないで」

「必要ない」


ここだけ見ると、刺さる。

刺さりすぎる。


(……やばい。)


彼の指が、退出処理の位置を確かめる。

でも、まだ角は立っていない。

立ちそうなだけだ。


その次に、別の文が落ちた。


「ちょっと待って」

「たぶん、さっきの『私なんて』って、嫌味じゃないと思う」

「自分を下げてるだけで、相手を下げたいわけじゃないやつ」


タイムラインが、一瞬だけ静かになる。


返事が来るまでの間に、数行流れていく。

でも、その間隔が、さっきより長い。


当事者が返す。


「嫌味に見えた」

「自分を下げる意味がわからない」

「必要ないって言ったのは、そういう言い方が嫌だから」


それに、最初の人が返す。


「ごめんなさい」

「嫌味じゃないです」

「私が未熟で…って、つい言ってしまいました」


また、重くなる。

また、沈む。


(……止まれ。)


彼は口の中でそう思った。


そこに、さっきの第三者が続けた。


「じゃあ、言い換えたらどう?」

「『まだ慣れてないけど、教えてほしい』とか」

「下げるじゃなくて、お願いにする」


一拍。


当事者が返す。


「それならわかる」

「お願いなら、答えられる」


最初の人が返す。


「わかった」

「まだ慣れてないけど、教えてほしい」

「そう書きます」


タイムラインの端に、短い一文が落ちた。


「ありがとう」


彼は、その「ありがとう」を見て、息を吐いた。


(……今のは、通った。)


言葉の意味じゃないところで、

何かが合った気がする。


合った、というより。

合わせた。


“言い換える”だけで、

ここまで温度が変わる。


彼の胸の奥が、ほんの少し軽くなる。

軽くなった瞬間に、怖さも薄れる。


(……いけるかもしれない。)


タイムラインが、その成功を受け取って広がりそうになる。


「それ大事」

「言い換えればいいんだ」

「最初からそう言えば揉めない」


きれいな正論がまた戻ってくる。

でも、今はそれが少しだけ優しく見えた。


彼は、椅子の背にもたれた。

背中の力が、少し抜ける。


その時。


タイムラインの奥で、違う種類の文が落ちた。


「……ていうかさ」

「表示、なんか変じゃない?」


彼の背筋が、戻った。


Scene13 失敗への分岐点


「表示、なんか変じゃない?」


その一文は、軽い。

軽いのに、妙に強かった。


次の文が続く。


「自分、英語で書いたのに日本語で流れてる」

「逆に、日本語で書いたのに英語っぽい文になる時ある」

「これ、どっちが本当の文章?」


彼の指が止まった。


入口ページの文言が頭に浮かぶ。

直訳に寄ることがある。

意図と違う文章になる可能性。


それを“納得”として置いたはずだった。

でも、今の流れは違う。


(……そこを見るな。)


画面の空気が、少しだけ変わる。

話題が“言い換え”から離れていく。


「え、英語表示の人いるの?」

「じゃあさ、相手って外国人ってこと?」

「最初からそう言ってよ」

「いや、それ言い出すと荒れる」


外国人。


その単語が落ちた瞬間、タイムラインの温度が上がった。

上がるのに、明るくはない。


奈々の拾ってきた言葉が蘇る。

追い出せ。

あの、乾いた攻撃。


(……やっぱり、そこに行く。)


彼は、喉の奥が冷えるのを感じた。


「でも、外国人と日本人じゃ常識違うじゃん」

「合わないなら分けた方がいい」

「いや、それ差別だろ」

「差別じゃなくて現実」


“現実”。


その言葉が、正しさの顔をする。

正しさの顔をしたまま、人を殴る。


彼は、画面の右端を見る。

退出処理のボタンが、いつもより近い。


まだ押していない。

でも、いつでも押せる。


(……押したら終わる。)


終わる、というより。

始まってしまう。


退出させた瞬間に、

「管理者が消した」

「言論統制だ」

「都合の悪い意見は消される」

そんな流れが生まれる気がした。


でも、押さなかったら。

ここは簡単に壊れる。


タイムラインはさらに速くなる。


「日本人は遠回しに言う」

「外国人は直球」

「だから傷つく」

「いや、遠回しがムカつくんだよ」

「直球が失礼なんだよ」


誰が、誰に言っているのか。

輪郭が崩れていく。


(……会話じゃない。)


彼は口の中でそう思った。


その時、奈々が一文だけ落とした。


「誰が言ったかじゃなくて、何が起きたかで話そう」

「ここ、そういう場所でしょ」


一瞬、流れが止まる。


止まって、次の文が落ちる。


「きれいごと」

「そういうのが一番ムカつく」

「管理者の犬?」

「ほら、こうなる」


彼の背中が冷たくなった。


“管理者の犬”。


奈々に向けた言葉。

奈々がそれを読んでいるかは分からない。

でも、ここに落ちた時点で、もうダメだ。


彼は退出処理のボタンにカーソルを合わせた。


指が、少し震える。


(……荒れた瞬間に退室。)


奈々の言葉。

現場のルール。


彼は、一人だけ落とした。


画面から、その名前が消える。

流れが、少しだけ乱れる。


「消された」

「やっぱり管理者じゃん」

「都合悪いから?」

「いや、誹謗中傷は禁止って書いてたろ」


正しさがぶつかる。

また、温度が上がる。


彼は、もう一度だけ深く息を吸った。


(……二時間。)


二時間だけ。

その枠の中で、守れるだけ守る。


でも、流れは止まらない。

止まらないまま、国籍の話題に吸い込まれていく。


「外国人は出ていけ」

その文が落ちた瞬間、彼の指が動いた。


退出。


画面から消える。


消えた跡に、別の怒りが生まれる。


「言論統制」

「差別はダメだけど、消すのも違う」

「結局、管理者の価値観押し付けじゃん」


彼は画面を見つめた。


価値観。


その単語が、今は刃になっている。


(……違う。)


違うと言いたい。

でも、言えば言うほど、燃える気がした。


タイムラインは速い。

速すぎる。


彼の目が追いつかなくなる。

追いつかないまま、場だけが壊れていく。


画面の端で、時計が進む。

まだ、21:30。


あと、30分もある。


彼は、喉の奥が熱くなるのを感じて、息を吐いた。


(……終わってくれ。)


その願いが、また卑怯に聞こえた。


Scene14 荒れる「止めるほど歪む」


タイムラインの速さが、別物になった。


一つ投稿が流れる前に、もう次が流れる。

読んだと思った瞬間、画面の上から押し流される。


彼はスクロールを止めるのをやめた。

止めても追いつけない。


追いつけないなら、見るのは“温度”だけになる。

温度が上がったら、切る。

それだけ。


「差別だろ」

「現実だろ」

「お前の“現実”が暴力なんだよ」

「管理者、どっちの味方?」


味方。


その言葉が出るたびに、彼の胃が沈む。

味方を作ったら終わる。

でも作らないでいると、どちらからも殴られる。


(……守るだけだ。)


彼は自分に言い聞かせた。


画面の右側。

退出処理。

カーソルの距離が、短くなる。


誰かが短い挑発を書き、

それに短い罵りが返り、

翻訳の角がさらに鋭く見せる。


「言葉遣いが終わってる」

「お前がな」

「だから無理なんだよ」

「無理なのはお前の頭」


彼は一人落とした。


消える。

消えた跡に、すぐ別の文が落ちる。


「消すな」

「都合の悪い意見は消すのか」

「誹謗中傷って書いてあったろ」

「じゃあ“誹謗中傷”の定義は?」


定義。


それを言い出した瞬間、終わる。

彼は定義を作らないと決めた。

作れないからじゃない。

作った途端、そこが次の戦場になる。


(……見て分かるやつだけ切る。)


奈々の言葉が、頭の奥で小さく鳴った。


“荒れた瞬間に退室”。


彼は淡々と、二人、三人と落としていく。

落とすたびに胸が冷える。

冷えるのに、手は止まらない。


一瞬だけ、流れが落ちる。

静かになる。


彼は息を吐いた。


でも、その静けさは、すぐ別の熱に変わる。


「管理者こわ」

「権力じゃん」

「こんな場所、仲間とか言ってたの何?」

「仲間ならこんな消し方しない」


仲間。


その単語が、また刃になる。


(……違う。)


違うと言いたい。

でも、言葉を足した瞬間に、彼自身が“議論の相手”になる。


彼は相手になれない。

今は、管理者としてしか立てない。


机の上で、コップが小さく鳴った。

指が触れて、氷が溶けた水が揺れる。


喉が乾いている。

飲んでも乾く。


タイムラインの中に、ふと逆向きの文が落ちた。


「管理者さん、消してくれて助かる」

「ちゃんと見てるんだね」

「ありがとう」


それは優しい。

優しいのに、彼の胸が痛んだ。


(……助かるって、なんだ。)


助かるために、誰かが切られている。

正しいのに、気持ちが追いつかない。


その次の瞬間、また刺す言葉が落ちる。


「外国人は出ていけ」

彼の指が動く。


退出。


画面から消える。


すぐに別の怒りが湧く。


「それは消すのに、こっちは消さないの?」

「結局、管理者の価値観じゃん」

「価値観が近いとか言ってたくせに」


彼は、目を閉じた。


価値観。

価値観が近い。

その前提が、いま最悪の形で使われている。


目を開ける。

画面は、まだ速い。


時計を見る。

21:30。


あと三十分。


(……三十分が、持たない。)


長いのに、短い。

短いのに、終わらない。


彼は、マウスを握り直した。

手のひらが湿っている。

湿った手で、冷たい作業を続ける。


守る。

守るだけ。


その“だけ”が、どんどん重くなっていく。


Scene15 価値観の距離


時計を見る。

21:30。


あと三十分。


(……三十分が、しんどい。)


彼はマウスを握り直した。

手のひらが湿っている。

湿った手で、冷たい作業を続ける。


投稿はまだ速い。

速いまま、同じところを回り始めている。


「差別だ」

「現実だ」

「消すな」

「消せ」

「管理者はどっちだ」


どっちでもない。

でも、どっちでもないという立場は、存在しないみたいだった。


彼はまた一人落とす。

落とした瞬間、別の怒りが増える。


(……終わってくれ。)


その願いが喉の奥で固まったとき、

タイムラインに、妙に整った文が流れた。


短いのに、浮く。


名前が目に入る。


ルカ。


「会話が壊れているのは、言葉じゃなくて、

 『相手が当然やってくれるはずの補完』が一致していないからです。

 謙遜は『拾ってくれる前提』で投げる。直球は『そのまま受け取る前提』で投げる。

 前提が違うと、どちらも善意でも、相手には責任放棄に見えます。」


彼は、ほんの一秒だけ指を止めた。


(……補完。)


その単語だけが、変に残る。

意味は分かるのに、説明できない残り方。


すぐに次が被さる。


「難しい」

「結局、文化ってこと?」

「責任放棄って言い方きつい」

「どっちが正しいの」


ルカは返さない。

正しさに乗らない。


少し遅れて、もう一つだけ流れた。


「『分かり合う』の前に、

 『分からないまま扱う作法』が必要です。

 それがないと、相手を理解できないのに、理解したふりだけが増える。

 その瞬間から会話は、相手ではなく自分の想像と戦い始めます。」


彼はその文を最後まで読んで、名前を見る。


ルカ。


ルカの言葉に一種運手が止まり、

返信欄に指をかけてたが、話す。


ここで触れたら、流れが“ルカに寄る”。

寄せたら、また別の争いが始まる。


いまは違う。


彼は退出処理に戻った。

手が覚えた順番で、淡々と落としていく。


「外国人は出ていけ」

退出。


「管理者の犬」

退出。


消える。

消えた跡に、また怒りが湧く。


時計が進む。

21:42。


あと十八分。


彼は一度だけ、タイムラインの上端を見た。

ルカの文は、もう見えない。


それでも、名前と彼の書いた文章が頭に残っていた。


Scene16 チャットの終わり


22:00。


タイムラインが止まった。

投稿欄が灰色になる。

「この公開チャットは終了しました」


静かすぎる。


さっきまでの速さが、嘘みたいだった。

耳がキーンとする。


彼は椅子の背にもたれた。

背中が、汗で冷えている。


終わった。


終わったのに、終わってない。


——このまま黙るのは違う。


彼は管理画面を開き、終了メッセージの欄にカーソルを置いた。

告知文と同じ書式で、短く打つ。


DeepMap 管理者より


参加してくれた方、ありがとうございました。

私はまだ、何が起きているのかをうまく言葉にできません。

それでも、ここで書かれた言葉の中に、いくつか大事なものがありました。


また、進行中に退出処理を行いました。

初めてで加減が分からず、嫌な思いをされた方もいると思います。

誹謗中傷を避けるための対応でしたが、完璧ではありませんでした。


今日のログは見直します。

本日の話し合いの内容は随時反映していきますので、引き続きDeepMapをよろしくお願いします。


送信。


送った瞬間、胸の奥が少しだけ空になる。

空になったぶん、疲れが押し寄せる。


スマホが震えた。

佑真かもしれない。

奈々かもしれない。

Yuiかもしれない。


彼は一度、画面を見たまま動かなかった。


(……何が残った。)


彼は目を閉じた。


残っているのは、ルカの文だけじゃない。


「まだ慣れてないけど、教えてほしい」

——あの言い換えで、いったん空気が戻った。


「表示、なんか変じゃない?」

——そこから、流れが別の方向に滑った。


「誰が言ったかじゃなくて、何が起きたかで話そう」

——奈々の文は、流されたのに、消えなかった。


「分からないって言ってくれたの、逆に信じられる」

——あれは、嬉しいのに苦しかった。


そして、画面から消した言葉。


“外国人は出ていけ”

“管理者の犬”


消した瞬間の、指の冷たさ。


最後に、ルカ。


補完。

作法。


単語だけが、静かに残っている。


目を開けて、管理画面のログにカーソルを合わせる。


押したら、また見ることになる。


見るのが怖い。

でも、見ないと、何も変わらない。


彼は、ゆっくりクリックした。


Scene17 残ったもの


ログ画面が開く。


淡々と、時刻と投稿が並んでいる。

さっきまで暴れていたものが、きれいに整列している。


整列しているのに、目が痛い。


彼はスクロールを止めたまま、しばらく動かなかった。


(……何を拾えばいい。)


全部を読めば、また飲まれる。

飲まれたら、二時間が意味を失う。


だから、拾う。


拾うべきものだけ。


彼は指を動かした。


まず、あの一瞬。

空気が戻ったところ。


「じゃあ『まだ慣れてないけど、教えてほしい』にしない?」

「それならわかる」

「ありがとう」


短い。

短いのに、確かに通っている。


次。

分岐点。


「表示、なんか変じゃない?」


そこから、流れが“誰”の話になっていく。

英語表示。日本語表示。

そして、外国人。日本人。


ラベルが貼られた瞬間、正しさが武器になる。

正しさの顔をして、人を殴る。


奈々の文も残っている。


「誰が言ったかじゃなくて、何が起きたかで話そう」


流されたのに、消えなかった。


彼は退出処理の記録に目を落とす。

自分が消した言葉。


“外国人は出ていけ”

“管理者の犬”


押した指の感触が、まだ残っている。


自分の終了メッセージに戻る。


「分からない」

「完璧ではありませんでした」


それへの反応。


「分からないって言ってくれたの、逆に信じられる」


胸の奥が、少しだけ熱くなる。

嬉しいのに、苦しい。


(……信じられる場所。)


その言葉が、彼の中で別の意味になる。


DeepMapは、価値観が近い人どうしが出会うための場所。

少なくとも、彼はそう信じて作った。


その前提を捨てたくない。

捨てたら、DeepMapはただのSNSになる。


でも、今日分かった。


DeepMapでも仲間は、勝手にできない。

集まっただけじゃ、仲間にならない。


壊れない形にするには、やり方がいる。

“分からないまま扱う作法”みたいなものが。


彼は検索欄に指を置いた。

名前を打つ。


「ルカ」


Enter。


該当箇所がハイライトされる。


補完。

作法。


その単語は答えじゃない。

でも、方向だ。


(……聞かないと。)


聞きたい、じゃない。

聞く。


彼は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


Scene18 もう一度


ログ画面を閉じて、通常の画面に戻る。


検索欄に「ルカ」と打つ。

候補が出る。

同じ名前がいくつか並ぶ。


彼は、投稿と一致するアカウントを選んだ。


プロフィール。

見慣れないアイコン。

短い自己紹介。


彼は視線を逸らしそうになって、やめた。


勝手に覗くのが礼儀に反する気がする。

でも、今回は違う。


頼るためだ。

仲間が集まる場所にするためだ。


彼は「個別のチャットルームを作成」を押す。

相手に、ルカを指定する。


送信前の入力欄が開いた。

白い。


一行目を書いて、消した。

丁寧すぎると嘘になる。

雑だと失礼になる。


呼吸を整えて、短く打つ。


「さっきの公開チャットでの発言、ありがとうございました」

「あなたの言葉が気になっています」

「時間があるときに、少しだけ話せませんか」


送信。


画面の上に、自分の文が残る。

既読も何もない。

ただ、置かれる。


返事が来るかどうかは分からない。


それでも、送った。


彼はスマホを置いて、椅子にもたれた。

部屋は静かだ。

静かなまま、胸の奥だけが熱い。


画面の上で、ルカの名前が動かない。


動かないことに、少しだけ救われる。

少しだけ、怖くなる。


彼は息を吐いて、指先を膝の上に落とした。

返事が来るかどうかは分からない。


それでも、送った。

送った以上、戻れない。


仲間が集まれる場所にする。

言葉が壊れない形にする。


そのために、やり直す。


(……もう一度、やってやるんだ)





…………

………………………

……………………………………………

………………………………………………………

……………………………………………………………………

…………………………

…………………

…………

………

……


[structure_update_request]


対象:

- 既存の物語テキスト一式

- 新規に追加された物語テキスト一式


目的:

- 両テキストを統合し、単一の物語として再構成する


処理内容:

1) 既存テキストと新規テキストを内容・流れ・語調の観点から統合する

2) 統合の結果、章番号に不整合が生じるため、章構成を再定義する

3) 現行の第1章〜第6章をまとめて新たな「第1章」とする

4) 新しい第1章に適した章タイトルを再設定する

5) 以降の章番号をすべて再生成する


制約:

- 物語の内容そのものは改変しない

- 登場人物・世界観・時間軸に対する説明を追加しない

- 書き手や編集過程の存在を示唆しない


出力:

- 再構成後の全文

- 再生成された全章の一覧(章番号+章タイトル)


備考:

- 処理は一度で完了させる

- 途中結果や作業痕跡は残さない


execute.


目次


0章 プロローグ

1章 DeepMap

2章 境界

3章 翻訳

4章 衝突

5章 拡張

……

……

(構成調整中)






第1章完

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