第5話 すれ違いと、一つの言葉
Scene1 落ち着いた朝/昨日の名残
朝の光は、まだ白かった。
カーテンの隙間から入る細い線が、床の上で止まっている。
彼は、机の前に座ったまま、しばらく動かなかった。
昨夜、寝る直前に見た画面が、頭の奥に残っている。
赤い表示は——今は、ない。
それでも、指が勝手に動く。
更新。
更新。
また更新。
(……何も起きてない)
言葉にすると薄いのに、確かめずにはいられない。
キッチンで湯が沸く音がして、すぐ止まった。
彼はマグカップを持って戻り、椅子に沈む。
カップの縁から湯気が上がる。
画面の右上。
数字が、ひとつ増える。
たったひとつ。
でも、増え方が昨日と違う。
昨日は、跳ねた。
今日は、歩いている。
歩きながら、確実に前へ進んでいる。
チャットルームを開く。
昨夜の続きが、まだ流れていた。
奈々の軽い言葉。
佑真の、的外れな自信。
Yuiの、短い気遣い。
英語の一文が、ぽつんと残っている。
Hi. Is this only Japanese?彼は、その一文だけを見て、指を止めた。
(……日本語だけ、って)
返す言葉は浮かぶ。
でも、その前に、息が出る。
「今、返したら……」
何が起きるのか、想像がつかない。
彼は画面を閉じた。
閉じても、白さが残る。
白いまま、頭の中に張り付く。
Scene2 時間の断片(数週間〜数ヶ月)
その日から、同じ朝が何度も来た。
同じ机。
同じ椅子。
同じ画面。
違うのは、カップの湯気の立ち方と、窓の外の色と——数字だけ。
彼はこれまで、いくつも作ってきた。
アプリ。
システム。
社内の、誰かのための何か。
要件定義と書かれた資料があって、そこに書かれたとおりに実装して、直して、また直す。
それが誰に、どんなふうに使われて、どんな顔を生んだのか。
知りようがなかった。
いつしか、それが当たり前になった。
自分はただ、コードを書くための手。
(……機械みたいだ)
そう思ったことも、一度や二度じゃない。
でもこれは違った。
これは、彼が自分のために作った。
仲間を探すための、場所。
作った理由が、最初から自分の中にある。
そして今。
大きな問題もなく、動いている。
少しずつ増えていく数字が、落ちずに、戻ってくる。
増えていく投稿が、消えずに、繋がっていく。
彼は、ふと考えてしまう。
この場所で、誰かが誰かに出会っている。
たくさんの人が、たくさんの“仲間”を作っている。
(……そんなの、今までなかった)
胸の奥が、ゆっくり熱くなる。
誇らしい、という言葉は少し大げさで。
でも、近い。
彼はチャットルームを開く。
四人の流れは、いつもと変わらない。
奈々が、軽い。
「今日も増えてるっぽいね」
佑真が、指示みたいなことを言う。
「表示順、もうちょい整えた方がいい」
Yuiが、心配する。
「寝てる? 無理してない?」
彼は、短く返す。
「大丈夫」
大丈夫、の中身は曖昧なまま。
でも、その曖昧さを、誰も責めない。
奈々は笑って流し、
佑真は勝手に納得し、
Yuiはそれでも一言だけ残す。
「ちゃんと、休んでね」
画面の中が、少しだけ柔らかい。
彼はそのまま、しばらく眺めていた。
ただ眺めているだけで、
自分が“作った”という感覚が、静かに戻ってくる。
(……これで、いい)
断定はしない。
でも、今だけは。
そう思ってしまった。
Scene3 気持ちよさの芽
気づけば、その作業は日課になっていた。
朝、画面を開く。
一通り見る。
必要なら、手を入れる。
それだけ。
赤い表示は——ゼロじゃない。
数件。
内容を開いてみれば、致命的なものはない。
「再送で通った」とか、
「たまたまタイミングが悪かった」とか。
本来なら、放っておいても困らない程度。
それでも彼は、そこに少しだけ手を入れた。
念のため。
どちらかと言えば、やったほうがいい。
そのくらいの修整。
大きくは変えない。
増えた分だけ、薄く整える。
角が立たないように、言葉が流れるように。
数字は、増えている。
ゆっくりの日もある。
少し速い日もある。
でも、落ちない。
落ちないまま、戻ってくる。
自分が入れた修整が、ちゃんと効いている。
昨日まで少し引っかかっていたものが、
今日は引っかからない。
その差が、分かる。
分かってしまう。
作ったものが、安定して動く。
大きな修羅場じゃなく、
微修整で済んでいる。
その事実が、静かに嬉しい。
彼はチャットルームを開いて、流れを読む。
奈々の軽さ。
佑真の指示っぽさ。
Yuiの心配。
いつもの温度。
その中で、時々だけ、言葉が噛み合う瞬間がある。
返事が返って、
また返事が返って、
会話になっていく。
価値観、という言葉が頭に浮かぶ。
でも、まだよく分からない。
(……届いてる)
自分が何かを言ったわけじゃないのに、
自分が直したことで、
届く確率が少し上がっている気がする。
そんな気がするだけ。
でも、彼にはそれで十分だった。
彼は、画面を閉じる前にもう一度だけ数字を見る。
二万台の数字が、そこにある。
今日も、少しだけ増えている。
彼は何も言わない。
ただ、息を吐く。
そして、次の作業に戻った。
Scene4 奈々の軽い報告
昼前。
彼は会社の画面を閉じて、DeepMapを開いた。
最初は、こんな形じゃなかった。
ただ、彼が使うためのものだった。
四人とのやり取りが増えて、
一つの場所にまとまっていた方が便利だと思って——
彼は、チャットルームの形を作った。
「個別」と呼べるほど立派なものじゃない。
でも、あの四人にはそれで十分だった。
十分だった、はずだった。
奈々が、その先を言い出したのは、少し前だ。
「これさ」
「仲良くなった人とは話せるけど」
「新しい人と出会う入口が、なくない?」
彼はすぐに引っかかった。
(……入口)
価値観がコンセプトなのに、
入口だけを広げたら、ぶれる。
そう思った。
奈々は軽いまま、でも妙にまっすぐ言った。
「ぶれるかもだけどさ」
「でも、新しい価値観ができると思うよ」
新しい価値観。
その言葉が、なぜか残った。
彼は反射で否定できなかった。
結局、彼は小さく追加した。
“誰でも参加できるチャットルーム”。
短く投げられて、短く流れる場所。
個別のチャットルームに入る前の、入口みたいなもの。
そして今。
その“誰でも参加できるチャットルーム”を開くと——
流れは早く、
短い言葉が投げられては、次の言葉に押されていく。
いつもの日本語に混ざって、
アルファベットだけの投稿が、ぽつぽつ見えた。
奈々が反応していた。
「ねえ、見てこれ」
「英語っぽいの、増えてない?」
軽いノリのまま、でも目はちゃんと追っている。
「単語だけとか、短いの」
「このままだと、ずっと流れちゃうね」
佑真がすぐに乗る。
「ほら、海外だよ」
「こういうの拾えるようにしないと」
Yuiが、ただの感想みたいに言った。
「海外の人も使ってるんだね」
「すごい」
奈々は、彼の方を向けるみたいに言葉を置いた。
「湊さ、これ、どうする?」
「返せるなら、返したいなって思っただけ」
お願いでも命令でもない。
ただ、思ったことをそのまま置く感じ。
彼は、流れていく英語を見た。
意味は取れる。
でも、返すのは別だ。
返した後に何が起きるかは、まだ分からない。
彼は短く打った。
「見てみる」
送ってから、少し遅れて思う。
(……見てみる、って)
言った瞬間に、もう自分の側に寄る。
彼は“誰でも参加できるチャットルーム”を閉じないまま、
別のタブを開いた。
指先が、次の形を探し始めていた。
Scene5 噛み合わない、という種類
彼は、まず公開チャットを閉じた。
閉じても、英語の短文が目の奥に残る。
確認するべき場所は、そこだけじゃない。
彼は管理画面を開いた。
普段は触らない。
触らなくて済むように作った。
でも今は、触るしかない。
いくつかのチャットルームが、一覧に並ぶ。
参加人数。作成時間。動き。
そこに、英語だけで流れているチャットルームがあった。
日本語が一つもない。
それが、妙に静かに見える。
(……ほんとに、入ってきてる)
思ったより、早い。
早いのか、今まで見えていなかっただけなのか。
彼は判断できないまま、開いた。
英語が続く。
短い文が投げられて、短い文が返る。
会話になっている。
ただ、彼には読めない。
彼は一度だけ、翻訳アプリを開いた。
文章を一つ、コピペする。
画面の端で、文字が日本語に変わる。
——日本のアニメの話だった。
キャラクターの名前。
好きな回。
どの作品から入ったか。
そんなことを、楽しそうにやり取りしている。
彼は少しだけ息を止めた。
(……そういうこと、か)
価値観、という言葉がまた浮かぶ。
でも、ここでそれを掴んだ気にはなれない。
たまたま、今はたまたま。
別のチャットルームを開く。
そこは、途中で止まっていた。
Hi
その下に、短い英語。
Sorry, I don't speak English.
そこで途切れている。
彼はマウスに指を乗せた。
ホイールを回す。
スクロールバーが、少しだけ下へ動く。
似た形がいくつか続いていた。
最初の一言。
次の一言。
そこで止まって、しばらく何も来ない。
(……そりゃ、そうだ)
価値観が近くても、
言葉が通らなければ、会話にならない。
会話にならなければ、何も始まらない。
公開チャットの方でも、同じ形が起きていた。
英語の短文が投げられて、
その下に短い英語がつく。Sorry, I don't speak English.
そこで止まって、また流れる。
奈々が軽く書いていた。
「マッチはしてるのに、会話できないって、もったいないね」
佑真がすぐに返す。
「だから言ったじゃん。対応しないと」
彼は、その二行を見て、少しだけ眉を寄せた。
“対応”。
言葉は簡単だ。
でも、やることは簡単じゃない。
(……届かせる方法)
さっき開いた翻訳アプリが、頭をよぎった。
でも、それをここに持ち込むのは——まだ、決めきれない。
思いついただけ。
思いついただけのまま、胸の奥に置く。
彼は、英語だけのチャットルームをもう一度見た。
翻訳越しに読めば、確かに楽しそうだった。
でも、それは“読む”であって、“話す”じゃない。
彼は画面を閉じた。
閉じても、英語の文字列が残ったままだった。
Scene6 自分だけの翻訳
彼は、その日はすぐに本体を触らなかった。
部屋が少し暗くなってから、DeepMapを開く。
公開チャット。
個別のチャットルーム。
英語だけで回っている場所。
止まっている場所。
動いている場所。
全部が同じ画面の中にあるのが、少しだけ落ち着かない。
最初に思ったのは、単純だった。
翻訳できるサイトなんて、いくらでもある。
わざわざ作る必要はない。
それを使えば、すぐ読める。
彼は別タブで、翻訳サイトを開いた。
英語の短文を一つ、コピーする。
貼る。
日本語が返ってくる。
意味は取れる。
ただ——戻る動作が増える。
チャットに戻って、
またコピーして、
また別タブへ行って、
また戻る。
その往復が、妙に疲れる。
会話の温度も、一拍ずつ落ちる。
(……なら、同じ画面に置けばいい)
彼は画面の端に小さな窓を置いた。
自分のためだけの窓。
貼って、読むだけのもの。
DeepMapの中身は触らない。
触らないまま、横で意味だけ拾う。
個別のチャットルームへ戻る。
さっきの「Hi」は、まだある。
でも、その間に別の投稿が入っていた。
短い、別の言葉。
彼はそれもコピーして、貼る。
読む。
戻る。
(……遅い)
読むことはできる。
でも、会話になりにくい。
チャットの良さは、タイムリーに返せることだ。
一手遅れるだけで、温度が落ちる。
……指……遅…4……視……逸……
公開チャットの方は、もっと速い。
コピーしている間に、流れが先へ行く。
戻った時には、話題が変わっている。
返す先が、もうない。
彼は少しだけ肩を落とした。
(……これじゃ、もったいないままだ)
それでも、手元の窓は役に立つ。
英語だけのチャットルームを覗いて、
翻訳してみる。
また日本のアニメの話だ。
好きな作品。
好きな回。
熱量だけは、ちゃんと伝わる。
(……ありがたいな)
こんな場所を、使ってくれている。
そう思うのと同時に、怖さも残る。
自分が何かを変えたら、何かが起きる。
前みたいに。
彼は窓を閉じないまま、メモを開いた。
短く書く。
「手動翻訳=読める/でも遅い」
その次の行が、勝手に埋まる。
「自動で出せないか」
自動。
チャットの中で、そのまま読める。
コピーしなくていい。
押さなくていい。
リズムを殺さない。
理想の形が、ぼんやり浮かぶ。
投稿された言葉が何語かを見て、
読む側の言語に合わせて、下に表示する。
元の文は残す。
翻訳は添えるだけ。
でも、すぐに懸念も出る。
誤訳で空気が変わる。
冗談が刺さる。
価値観が合っていたはずの部分が、言い方ひとつでズレる。
そもそも、何語に合わせるのか。
英語だけじゃないかもしれない。
彼は、それをメモに落とした。
「言語判定」
「表示だけ」
「元文残す」
「誤訳」
「公開は後」
答えは出さない。
出せない。
でも、手は止まらない。
“できるかどうか”を、先に確かめたくなる。
彼は、小さなテストを作り始めた。
自分の画面にだけ出る。
他の人には見えない。
まずは、そこから。
公開チャットには、また英語が流れていた。
彼はそれを見て、指先に力を入れる。
「まずは、やってみる」
声にならないまま、画面の白さに残った。
Scene7 自動翻訳機
「まずは、やってみる」
そう思ったところから、彼の手は速かった。
画面の端に置いた小さな窓。
あれは“読む”ためのものだった。
でも彼が欲しいのは、“会話の中で読む”だった。
貼って戻る、その一拍がいらない。
いらない、というより——邪魔だ。
彼はDeepMapの画面を開いたまま、別のウィンドウを立ち上げた。
自分のためだけのテスト。
本体の送信にも保存にも触れない。
触れないまま、上に重ねる。
公開チャットの投稿の上に、薄い行を一つ足す。
クリックすると、その投稿の下にだけ翻訳を出す。
元の文は残す。
翻訳は、添えるだけ。
UIは、目立たない方がいい。
目立つと、空気が変わる。
彼は翻訳の文字を小さくして、色も薄くした。
“見たい人だけ見る”にする。
まずは、自分だけ。
次に必要なのは、判別だった。
何語か。
全部は無理だ。
最初は、英語か英語じゃないか。
それだけでいい。
アルファベットが多いなら英語寄り。
日本語の文字が混ざるなら日本語寄り。
雑でいい。
雑でいいから、早く動くほうがいい。
試しに、英語だけのチャットルームを開く。
一文を選んでクリックする。
一拍。
下に日本語が出た。
(……出た)
口元が少しだけ緩む。
ただそれだけのことで、世界が変わる気がする。
会話の速度が、落ちない。
貼って戻る必要がない。
今いる場所で、意味が取れる。
彼はメモを開いて、書いた。
「自動翻訳機」
それ以上、いい名前が出てこない。
言葉を運ぶだけの、小さな機能。
価値観とか、そんな大げさな話じゃない。
今はただ、言葉を渡すだけ。
でも、役割はそれで十分だった。
次に、もう一段だけ考える。
クリックしないでも出せないか。
出せる。
出せるけど——出しすぎると邪魔になる。
表示が増えると、読みづらくなる。
翻訳が間違った時に、間違いが“正しそうに見える”のも怖い。
彼は迷い方を変えた。
やるか、やらないか、じゃない。
どこまで出すか、だ。
「自分だけ」
「元文は残す」
「翻訳は薄く」
「必要な時だけ」
メモの行が増えていく。
増えていくのに、疲れない。
むしろ楽しい。
公開するかどうかは、まだ決めない。
決めなくていい。
まずは、動かす。
動かして、どこが変わるかを見る。
彼はもう一度、英語の投稿を選んだ。
翻訳が出る。
意味が分かる。
分かった瞬間、返事の言葉が浮かぶ。
でも——彼は送信しなかった。
まだ、自分の中で確かめたかった。
彼は翻訳表示を消して、また出した。
消しても壊れない。
出しても壊れない。
その当たり前が、少し気持ちいい。
(……いける)
断定はしない。
でも、指先だけが先に言っていた。
自動翻訳機は、静かに動き始めていた。
Scene8 出すか、出さないか
自動翻訳機は、彼の画面の中だけで動いていた。
英語の投稿の下に、薄い日本語が出る。
意味が取れる。
返せる言葉も浮かぶ。
でも、送信はしない。
まだ、自分の中で試しているだけだ。
彼は一度、手を止めた。
(……これ、出したら)
出したら、世界が広がる。
“読めない”が減る。
会話が増える。
そして——負担は増える。
頭の中に、あの夜が戻る。
赤い表示。
消えたはずの揺れ。
作ったものが、急に自分の手を離れていく感覚。
(……また、重くなる)
重くなるだけならいい。
重くなって、落ちるのが怖い。
落ちた瞬間に、今まで積み上げたものが“なかったこと”になる。
彼は、それを知っている。
彼は公開チャットを開いた。
英語の短文が流れていく。
その下で、誰かが謝っている。
Sorry, I don't speak English.
それが繰り返される。
繰り返されるのを見ていると、
自分の中の“もったいない”がまた動く。
奈々なら、言う。
「出した方がいいじゃん」
佑真なら、言う。
「今すぐ対応しないと」
その二人に相談したら、答えは最初から決まってしまう。
決まってしまう答えを聞くために、相談したいわけじゃない。
彼は、そういう時があることを知っていた。
チャットルームを開く。
Yuiがいるところ。
いつも通り、短い言葉が並んでいる。
彼は、少しだけ迷ってから、打った。
「相談していい?」
すぐに返事が来る。
「うん」
彼は文章を長くしない。
長くすると、自分で自分を追い込む。
短く、必要なことだけ。
「自動翻訳機、作った」
「出すか迷ってる」
「出したら、また重くなるかもって思ってる」
少しだけ間があって、
短い言葉が返ってくる。
「どうしたいの?」
彼は、その一文を見て止まった。
出したいか。
出すべきか、じゃない。
出したいか。
彼の中で、言葉がほどけた。
ほどけた分だけ、分からなくなる。
何がしたいのか。
何のために作ったのか。
彼は返せないまま、画面の白さを見た。
自分で作った機能。
自分で試して、
自分で怖がっている。
Yuiが、もう一行だけ送ってきた。
「最初、仲間がほしいって言ってなかった?」
その一行が、まっすぐ刺さる。
彼は息を止めた。
(……そうだ)
DeepMapを作った理由。
最初は、もっと小さかった。
自分が仲間を探すためだけのものだった。
誰にも見せるつもりなんて、なかった。
それが今は、誰かが使っている。
仲間を作っている。
価値観という言葉が、たまに噛み合う。
噛み合う瞬間が、確かにある。
彼は、ゆっくり息を吐いた。
焦って答えを出すと、また同じことを繰り返す。
指はまだ、キーボードの上にある。
返事の言葉は短くていい。
彼はようやく打った。
「……出したい」
送ってから、胸の奥が少しだけ熱くなった。
熱くなって、すぐに怖さが戻る。
(……でも)
彼はDeepMapの画面を開いた。
自分の画面だけに出る翻訳を見て、
その先のことを考え始めた。
Scene9 出したい。でも、怖い
「……出したい」
そう打った直後に、怖さが戻ってきた。
出したいのに、怖い。
その二つが並ぶ。
並んだまま、どっちも動かない。
彼は続けて打った。
「出したいと思う」
「でも、怖い」
少し間があって、返事が来る。
「何が怖い?」
彼は止まった。
自分でも整理しきれていない。
でも、言葉にしないと動けない。
「重くなるかも」
「変な感じになったら戻せないかも」
「一回出したら、期待ができて引っ込めにくい」
自動翻訳機は、もう彼の画面では動いている。
それでも“出す”は別だ。
誰かの画面に出た瞬間から、戻しづらくなる。
(……繋がりが増える=落ちる)
その式が、まだ勝っている。
Yuiの返事が来る。
短い。
「じゃあ、少しずつにしたら?」
彼の目が、ほんの少し動く。
Yuiが続ける。
「公開チャットからじゃなくていいと思う」
「まずは個別のチャットルーム」
「英語が混ざってるところだけ、とか」
「戻せる形でやる」
彼は息を吐いた。
怖さが消えるわけじゃない。
でも、形が見える。
(……個別から)
公開チャットは速すぎる。
流れてしまう。
誤解も増える。
個別なら、温度がある。
壊れた時の顔が見える分、怖いのに——守りたい。
“守りたい”が、少しだけ前に出た。
彼はメモを開いて、ゆっくり書いた。
「英語が混ざる個別だけ」
「表示だけ」
「元文は残す」
「すぐ戻せる」
書きながら、考えが少しずつ変わる。
怖さを消すんじゃない。
怖さのまま、手順にする。
彼は個別のチャットルームを開いた。
「Hi」が、まだ残っている。
彼は、返事の言葉を打ちかけて——止めた。
先に、やることがある。
指先に力が入る。
まだ、決めきれてはいない。
でも——
考え始めた。
「どうやって出すか」を。
Scene10 そっと出す
彼は、メモをもう一度見た。
「英語が混ざる個別だけ」
「表示だけ」
「元文は残す」
「すぐ戻せる」
その四行が、今の彼の限界だった。
限界の中で、やる。
それが、彼のやり方だ。
彼は管理画面を開いた。
個別のチャットルームの一覧。
英語が混ざっているものだけ、拾う。
数は多くない。
まだ点だ。
点だから、今しかない気もする。
(……ここだけ)
彼は自動翻訳機の表示対象を絞った。
全体じゃない。
公開チャットでもない。
英語が出てきた個別のチャットルームだけ。
そして——自分が“戻せる”と判断できる範囲だけ。
保存。
画面は何も変わらない。
変わっていないように見える。
そのことが、少し怖い。
彼は対象にしたチャットルームを開く。
「Hi」が残っている部屋。
投稿の下に、小さな選択肢が出ていた。
翻訳を表示。
目立たない。
でも、そこにある。
彼は一度、呼吸を整えた。
(……出た)
出てしまった。
世界が、ほんの少し広がった。
彼は押した。
「Hi」の下に、日本語が出る。
挨拶。
分かっていたはずの意味が、ちゃんと“ここ”に乗る。
その瞬間、返事の言葉が浮かぶ速度が変わった。
彼は日本語で打つ。
短く。
無理をしない。
「こんにちは」
送信ボタンの上で、指が止まる。
赤い表示はない。
重さも、感じない。
(……今のところは)
今のところ、だ。
彼は送信した。
自分の言葉が、画面に残る。
残っただけなのに、胸の奥が少し熱い。
「返した」
ただそれだけで、止まっていたものが動いた気がした。
すぐには返事は来ない。
来なくてもいい。
彼は、それを待つために作っていない。
作ったのは、始めるためだ。
彼は画面を閉じかけて、止めた。
Yuiにだけは、言っていい気がした。
言っていい、というより——言いたかった。
怖さを、誰かと同じ言葉にしたかった。
彼はYuiのいるチャットルームを開いた。
短く打つ。
「入れた」
「英語が混ざる個別だけ」
すぐに返事が来る。
「お、早い」
彼は少しだけ笑いそうになる。
笑うほどじゃないのに。
彼は続けて打った。
「怖いけど」
「仲間が見つかる可能性があるなら、やるべきかなって」
Yuiの返事は、少し間があってから来た。
「うん」
短い肯定。
その短さが、ちょうどいい。
彼は、もう一つだけ打つ。
「最初にみんなにDM送ったとき、こんな感じだったかも」
送ってから、思い出す。
あの時も、手が止まった。
送信ボタンの前で、何回も消して、また打って。
送った瞬間、心臓が少しだけ速くなった。
Yuiが返す。
「懐かしい」
「あれはドキドキっていうより、びっくりした」
「でも、なんか気になって返信したんだよね」
「そう考えたら、DeepMapってあのときからずっとちゃんと動いてるね」
「今も」
その言葉が、妙に優しい終わり方をする。
彼は、勝手に少しだけ成長した気分になる。
何かを乗り越えた、みたいな。
彼はDeepMapの画面に戻った。
個別のチャットルームに、淡い翻訳が出ている。
それを見て、息を吐く。
(……これでいい)
断定はしない。
でも、今夜だけは。
そう思ってしまった。
Scene11 最初の返事
翌朝。
彼はいつも通り、DeepMapを開いた。
確認はもう癖になっている。
数字が先に目に入る。
二万を越えたまま、少しだけ増えている。
昨日より、ほんの少し太い。
(……増え方が変わってきた)
理由は分からない。
分からないまま、画面だけが進む。
彼は管理画面を閉じて、個別のチャットルームを開いた。
昨夜「こんにちは」と送った部屋。
送ったまま、止まっていた部屋。
返事が来ていた。
短い。
英語。
それだけで、胸の奥が少しだけ跳ねる。
彼は自動翻訳機の表示を押した。
薄い日本語が、下に出る。
意味が取れる。
思っていたより、普通の言葉だった。
(……返せる)
返せる、というより——返したい。
彼は日本語で打った。
長くしない。
相手を置いていかない。
「返信ありがとう」
それだけ。
送信して、すぐに後悔しかける。
(……重くないか)
でも、引っ込めない。
引っ込めたら、また止まる。
画面は、何も騒がない。
赤い表示も出ない。
動きも変わらない。
彼はもう一度だけ、息を吐いた。
(……動いてる)
DeepMapが、じゃない。
自分が。
返事は、すぐには来ない。
来なくていい。
彼はチャットルームを閉じて、別の英語が混ざる部屋を確認した。
そこにも、翻訳の選択肢が静かに出ている。
世界が広がる、という感じはまだ小さい。
でも、確かにある。
彼はそれを見て、画面を閉じた。
今日は仕事がある。
それでも、指先だけが少し軽かった。
cene12 小さな波
昼休み。
彼は短く時間を切って、DeepMapを開いた。
見るだけ。
見るだけのつもりで、指が動く。
英語が混ざる個別のチャットルームが、少し増えている。
昨日まで点だったものが、
今日は点と点が近い。
偶然なのか、流れなのか。
まだ言えない。
自動翻訳機は、静かに働いていた。
目立たない位置で、
必要な時だけ出て、
必要な時だけ消える。
彼は一つ開いた。
英語の短文。
下に薄い日本語。
意味が取れる。
返事も思いつく。
彼は短く返した。
「それ、分かる」
送信して、すぐに画面を見直す。
赤い表示は出ない。
重さも感じない。
(……動いてる)
ただそれだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
別の部屋も開く。
今度は、昨夜の「Hi」の部屋。
返事が増えているわけじゃない。
でも、止まっていたものが止まったままじゃない。
“返せる形”になっている。
そのことが、妙に嬉しい。
彼は一度だけ管理画面を開く。
二万を越えた数字が、また少しだけ増えている。
昨日より、増えている幅が大きい。
(……このまま行くのか)
分からない。
分からないのに、指だけが先に喜ぶ。
その時、チャットルームに奈々の言葉が入った。
「ねえ、これ」
「翻訳でる」
彼の指が止まる。
奈々が、少しだけ笑っている感じの文。
「英語のとこ、読めた」
「地味に助かるんだけど」
彼は、すぐには返さなかった。
返すと、“やった”になる。
やった、の一言で世界が広がるのが怖い。
でも——隠すのも違う。
彼は短く打った。
「入れた」
それだけ。
奈々の返事は軽い。
「やっぱり」
「湊、こういうの早いよね」
その流れに、佑真も乗る。
「自動翻訳機みた」
「ナイス実装」
佑真の言葉は短い。
それだけだった。
彼は画面を見て、息を吐いた。
(……大丈夫)
断定はしない。
でも、今は。
大丈夫な気がする。
昼休みの終わりが近い。
彼はDeepMapを閉じた。
閉じても、胸の奥に小さな波だけが残った。
Scene13 少しだけ、数字の話
夜。
彼は仕事を終えて、DeepMapを開いた。
確認はもう、癖になっている。
管理画面を見て、目を細める。
二万の上に、少しだけ。
(……26,000、くらいか)
数字は増えている。
増えているのに、落ち着かない。
チャットルームを開く。
奈々が先に書いていた。
「翻訳、助かるわ」
「普通に読めるの、でかい」
軽い言葉。
軽いのに、胸の奥に残る。
その流れに、佑真が入ってくる。
「今、ユーザー数何人くらい?」
彼の指が止まる。
佑真がユーザー数を聞いてきたのは、たぶん初めてだった。
彼は短く返す。
「急にどうした?」
彼は短く返した。
「26,000くらいかな」
正確じゃない。
正確に言う必要もない。
佑真はすぐ返す。
「まだ、二万台なのか?」
「五万までは意味がないだろ」
「さっさと増やさないと」
奈々が軽く入る。
「え、意味がないって何」
「普通に使えてるけど」
佑真は言葉を止めない。
「いや、違うって」
「ここからだって」
「広告に金かけろよ」
彼は画面を見て、息を吐いた。
広告に金。
簡単に言う。
簡単に言える側の言葉だ。
佑真はさらに続ける。
「あと、俺が管理するわ」
「そういうの、回した方が早い」
彼の中で、一線が引かれた。
彼は短く打つ。
「それはやめた方がいい」
佑真が返す。
「なんで」
彼は理由をつけて断る。
理由がない断り方は、余計に揉める。
「今、触ってるのは自分だけ」
「自分しか知らない部分が多い」
「誰かが触ると、壊れる可能性がある」
“壊れる”という言葉が出た瞬間、
彼の指先が少しだけ冷たくなる。
あの夜が、まだ残っている。
Yuiが入ってきた。
文が短い。
でも、温度が少し違う。
「それは、違うと思うよ」
「湊が作ったものだから」
佑真が何か返そうとする前に、
奈々も軽く重ねる。
「うん、湊のほうがいいと思う」
「一般公開も翻訳も、やってくれたし」
「作ったのも湊だし」
彼はその二人の言葉を見て、
返せないまま、少しだけ楽になる。
楽になって、すぐに重くなる。
守られている感じが、責任になる。
佑真は引かない。
「だからこそだろ」
「五万まで行かないと話にならない」
「とにかく、五万」
それだけ言って、次の言葉が途切れる。
チャットルームの流れが、一瞬だけ静かになる。
彼は画面を見て、ゆっくり息を吐いた。
数字は、ただの数字のはずなのに。
佑真の口から出ると、別のものに見えた。
彼は管理画面を閉じた。
閉じても、「五万」という言葉だけが残っていた。
Scene14 残るもの
彼は「Hi」の部屋を開いた。
自分の「こんにちは」は残っている。
そこに、新しい文が増えていた。
短い英語。
彼は翻訳表示を押した。
英語の下に、薄い日本語が出る。
“I think our values are close.”
――「あなたの価値観、近い気がする」
“Are you a builder?”
――「作る側の人?」
彼は、その二行を見て止まった。
直球すぎる。
でも、嫌じゃない。
むしろ、ありがたい。
(……見えてるんだ)
彼は返した。
「ソフトを作ってる」
「仕組みを考える仕事」
それから、短く。
「あなたは?」
送って、すぐに画面を見直す。
赤い表示はない。
重さも感じない。
少しして、また英語が来た。
今度は少し長い。
翻訳表示。
英語の下に、薄い日本語。
“Me too. I build things.”
――「私も。作る側」
“Hard to find people who think in systems.”
――「仕組みで考える人が少ないから、探してた」
“If we can talk, I think we can be friends.”
――「話せるなら、友達になれると思う」
彼は、その文を見て止まった。
嬉しい。
嬉しいのに、戸惑う。
“友達”が、急に近い。
(……早い)
彼は返信を打ちかけて、止めた。
浮かぶ言葉はある。
でも、今夜はまだ、追いつかない。
結局、短く返す。
「うん」
それだけ。
それ以上は、今夜は言えない。
Scene15 積み上がる
翌日。
彼は仕事の合間にDeepMapを開いた。
見るだけ。
見るだけのつもりで、いつもより長く見てしまう。
管理画面の数字が、少し増えていた。
28,000のあたり。
増え方は派手じゃない。
でも止まらない。
(……増えてる)
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
軽くなって、すぐに思い出す。
負担も増える。
守るものも増える。
英語が混ざる個別のチャットルームを開く。
昨夜の相手から、また短い英語が来ていた。
その下に薄い日本語。
“I like that you answer calmly.”
――「落ち着いて返すところが好き」
彼は止まった。
嬉しい。
嬉しいのに、照れる。
照れるのに、返したい。
彼は短く返す。
「ありがとう」
「落ち着いてるわけじゃない」
送信して、すぐに画面を見る。
赤い表示は出ない。
重さも感じない。
(……動いてる)
別の部屋も開く。
そこでも会話が続いている。
短い返事。
短い共感。
翻訳があるだけで、会話が途切れない。
途切れないことが、彼には新鮮だった。
彼はメモを開いて、一行だけ書いた。
「言葉が届くと、続く」
仕事に戻る前に、公開チャットも一瞬だけ覗く。
英語も日本語も流れている。
流れているだけ。
まだ、大きくは揺れていない。
彼はDeepMapを閉じた。
閉じたあとも、指先が少し軽かった。
昨日より。
少しだけ。
Scene16 奈々の報告
夜。
彼は仕事を終えて、DeepMapを開いた。
確認はもう癖だ。
29,000のあたり。
ほんの少し増えている。
それを見て、息を吐く。
英語が混ざる個別のチャットルームも、いつも通り落ち着いている。
自動翻訳機は問題なく動く。
赤い表示も出ない。
(……今日も大丈夫)
そう思った瞬間だった。
チャットルームに奈々の文が滑り込んでくる。
「湊、大変!」
彼の指が止まる。
奈々は続けて打つ。
「なんかさ」
「別のチャットルームで騒ぎになってる」
彼は短く返す。
「どんな?」
奈々の文は速い。
「外国人追い出せって」
「英語うざいって」
「言ってる人がいて」
「周りも乗っかってきてる」
彼は画面を見て、息を止めた。
追い出せ。
その言葉が、思ったより重い。
奈々は軽くはないけど、いつもの調子で続ける。
「私も止めようとしたけどさ」
「火ついた感じ」
「湊、これ見たほうがいい」
彼はすぐには返せなかった。
何をどう返すべきか、まだ分からない。
分からないまま、指だけが動く。
「どのチャットルーム?」
奈々がルーム名を送ってくる。
彼はそれを見て、管理画面を開く。
入ろうと思えば入れる。
でも——勝手に入るのは違う気がした。
誰かの会話を、許可もなく覗くみたいで。
不粋だ。
理由はうまく言えない。
ただ、そう感じる。
(……ちゃんと聞こう)
彼は奈々に返す。
「ありがとう」
「確認する」
奈々はすぐ返す。
「うん」
「ごめん、面倒かけた」
彼はそれを見て、少しだけ首を振る。
面倒じゃない。
これは、起きるべきことだった。
彼は深く息を吐いて、キーボードに手を置いた。
まず、騒いでいる中心のユーザーに連絡する。
礼儀として、確認する。
招待してもらう。
中を見ないと、何も言えない。
画面のカーソルが点滅する。
彼は短く、丁寧に打った。
「管理者です」
「今、状況を確認したいです」
「そのチャットルームを見ても大丈夫でしょうか」
「よければ、招待してもらえますか」
送信。
送った瞬間、胸の奥が少しだけ冷える。
あの夜とは違う。
でも、似ている。
(……また、始まった)
Scene17 招待
返事はすぐには来なかった。
彼は画面を閉じずに待った。
待ちながら、指が勝手に管理画面へ行こうとする。
見ようと思えば見える。
でも、そのたびに手を止める。
(……違う)
数分後。
通知がひとつ増えた。
「いいですよ」
短い返事。
その下に、もう一行。
「外国人は入れないようにしてください」
彼は息を吐いた。
それが、この人の望みなんだ。
望みがあるから、騒ぎになる。
彼は短く返す。
「状況を確認します」
「招待お願いします」
すぐに招待が届く。
チャットルームに入るボタン。
彼は押す前に一度だけ呼吸を整えた。
入った瞬間、流れが見えた。
速い。
日本語が多い。
その間に英語が挟まる。
英語の下には、薄い日本語。
自動翻訳機が動いている。
ここは、英語が混ざる個別のチャットルームだった。
彼は少しだけ上に戻す。
騒ぎの中心にいる人が、書いていた。
「え、何それ」
「そんなことも分からないの?」
その前に、日本語があった。
誰かの文。
「いや、全然だよ」
「まだまだ」
謙遜。
この場の空気を柔らかくする言い方。
そのつもりだったはずだ。
でも、英語の返事が続いている。
彼は目で追う。
“Yeah. Not good yet.”
――「うん。まだ良くない」
“Then improve it.”
――「じゃあ改善して」
日本語が返る。
「それ言う?」
「冗談じゃん」
「空気読んで」
英語が返る。
“I’m honest.”
――「正直に言ってる」
日本語が重なる。
「正直って言えば何でもいいの?」
「失礼だよ」
英語が返る。
“We’re friends, right?”
――「友達だよね?」
彼は画面を見た。
意味は分かる。
分かるのに、うまく収まっていかない。
この揉め方は、翻訳がないから起きているわけじゃない。
翻訳があるから、余計にぶつかっている。
彼はチャットルームに、短く打った。
「管理者です」
「状況を確認しました」
流れが少し止まる。
止まって、質問が増える。
「管理者?」
「本当?」
「どうにかして」
彼は返す。
長く書かない。
長く書けば、またズレる。
「一旦、このチャットルームをクローズします」
「落ち着いたら再開します」
送信。
指が次に動く。
管理者として、クローズの操作をする。
画面の流れが止まった。
止まった瞬間、部屋の静けさが戻ってくる。
彼は息を吐いた。
まだ解決じゃない。
でも、まず止めた。
止めないと、何もできない。
そして、招待してくれたユーザーの言葉が頭に残る。
「外国人は入れないようにしてください」
彼はそれを、まだ返せていない。
Scene18 返せない言葉
彼は画面を閉じない。
閉じられない。
頭が勝手に、対策を並べ始める。
(……同じ国だけ)
同じ国の人だけマッチングする。
国が違う相手は、最初から出さない。
それなら、すれ違いは減る。
(……でも)
彼の中では、逆の感覚もあった。
傾向を拾ってスコアにしたから、
“近い”人が見つかった。
国じゃなくて、価値観が近い人。
国境が、薄くなった気がした。
(……やるなら、狭めれば止まる)
同じサイト、同じ行動だけに寄せる。
傾向じゃなく、表面だけを見る。
そうすれば、国をまたぐ確率は落ちる。
(……IPで切る、もある)
国が違うなら混ぜない。
できるかどうかは分からない。
でも、たぶんできる。
思いつく。
思いついてしまう。
止める方法だけが、増える。
(……じゃあ、公開チャットは)
誰でも入れる。
新しい仲間探しのきっかけに、と奈々が言って作った。
好評だと聞いている。
でも、あそこは流れが速い。
投稿が速い。
反応も速い。
速い場所ほど、言葉が置いていかれる。
誤解も、追いつけないまま増える。
クローズするか。
その言葉を頭の中で転がした瞬間。
奈々から、また文が来た。
「湊」
「今、別のところも同じ空気」
彼はすぐ返した。
「分かった」
「教えてくれてありがとう」
「場所、送って」
点が、増える。
増えた点が、線になりそうになる。
彼は一度だけ目をゆっくりと閉じた。
その時、少し前のYuiの言葉を突然、思い出した。
「最初、仲間を探すために作ったんじゃなかった?」
胸の奥が、静かに痛い。
止めるのは簡単だ。
切ればいい。
狭めればいい。
国境を戻せばいい。
でも。
彼はカーソルの点滅を見つめた。
どうするのが正解か。
まだ言葉にならないまま。
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