第4話 広がる気配と、不安

Scene1 朝、チャットに投げる

朝。

スマホのアラームが、短く鳴って止まった。

 

部屋はまだ薄暗い。

カーテンの端から、白い光だけが細く入っている。

 

冷蔵庫の奥で、低い駆動音が続いている。

いつも聞こえているはずの音なのに、今日は少しだけ気になる。

 

(……昨日、出した。)

 

枕元のスマホを取る。

画面を点ける。

 

通知は、ない。

 

天気。

広告。

知らない誰かのニュース。

 

DeepMapのやつは、ない。

 

(……そうだよな。)

 

彼は一度、画面を消した。

 

台所へ行く。

電気ケトルのスイッチを押す。

すぐに、水が動く小さな音が始まる。

しばらくして、熱が上がっていく音に変わる。

 

その音を背中で聞きながら、彼は椅子に座った。

チャットの画面を開く。

 

昨日は、結局、ここに書けなかった。

 

送ったら返ってくる。

返ってきたら、始まる。

 

指が止まる。

 

(……今さら。)

 

そのとき、ケトルが短く合図を鳴らした。

いつもの、乾いた音。

 

彼は立ち上がる。

カップを出す。

粉を入れる。

湯を注ぐ。

 

湯気がふわっと立ち上がって、部屋に薄い匂いが広がる。

 

いつもと同じ手順。

同じ時間。

同じ匂い。

 

なのに。

 

(……いつもと同じじゃない。)

 

胸の奥だけが、落ち着かないまま残っている。

 

彼はマグカップを机に置き、もう一度スマホを見た。

 

短く打つ。

 

「おはよう」

「昨日、DeepMap 一般公開した」

 

送信。

 

画面が戻る。

すぐには鳴らない。

 

湯気だけが、ゆっくり上に逃げていく。

彼はその湯気を見つめた。

 

(……これでよかったのか。)

 

答えは出ないまま、コーヒーだけが熱い。


Scene2 先に走る

机の上で、スマホが震えた。

 

奈々。

「え、まじ!?」

「すご!」

「おめでと!!」

 

続けて、すぐ。

 

「みんなに言うねw」

「広めとくw」

 

彼は画面を見つめたまま、息を吐いた。

マグカップの縁に湯気が当たる。

部屋の匂いは、いつも通りなのに。

胸の奥だけ、落ち着かない。

 

返信欄を開く。

指が止まる。

 

短く打つ。

 

「ありがとう」

「でも、まだ中のとこ整ってない」

「あんまり期待しないで」

 

送信。

 

奈々がすぐ返す。

 

「りょw」

「期待しないとか言うなw」

「でも了解w」

 

もう一度、震える。

 

佑真。

「了解」

「あとで見る」

 

それだけ。

 

彼はスマホを伏せた。

 

玄関。

鍵。

外の冷たい空気。

駅までの足音。

 

電車の揺れ。

吊り革のきしむ音。

広告の紙が擦れる音。

 

会社に着いても、ポケットの中の重さが消えない。

会議の途中で一度だけ触ってしまう。

画面は見ない。

触るだけで、戻す。

 

昼前。

トイレの個室。

換気扇の音。

 

スマホを開く。

管理画面。

ログ。

 

登録数:7

 

胸の奥が、少しだけ明るくなる。

 

すぐに、固くなる。

 

(……増えた。)

 

増えた、が嬉しいのか怖いのか。

その区別がつかないまま、画面を閉じた。

 

席に戻る。

キーボードを打つ。

 

その途中で、また震える。

 

佑真。

「見た」

 

一拍おいて、続く。

 

「トップ弱い」

「最初の説明、長い」

「入口で離脱する」

「スクショはここ」

「紹介文、こういう方向」

 

彼は、その画面のまま指を止めた。いま返したら、仕事も基幹も崩れそうだった。

Scene3 言えない不安

午後。

オフィスの空調が、乾いた音を立てている。

キーボードの打鍵。

椅子の軋み。

誰かの咳。

 

彼は画面を見ている。

見ているのに、別の場所がずっと気になっている。

ポケットの中の重さ。

 

(……落ちるな。)

 

落ちたら、終わる。

終わるというより。

始まる前に、壊れる。

 

机の端で、スマホが小さく震えた。

すぐに取らない。

取らないで、仕事の画面を見続ける。

 

それでも、指が勝手に動く。

 

管理画面。

ログ。

 

登録数:12

 

数字が、そこにある。

増えている。

 

胸の奥が、ふっと軽くなって。

次の瞬間、胃のあたりが沈む。

 

(……増えるの早い。奈々の紹介か!)

 

奈々は、今も誰かに紹介しているのだろうな。

 

佑真のメッセージが頭の中で反復する。

トップ。

一文。

離脱。

 

彼は一度、指を止めた。

止めたまま、息を吐く。

返信欄。

「今は直せない」

「基幹のとこ、まだ触ってる」

「落ちない方を優先する」

「夜にまとめて見る」

送信。

すぐに既読がつく。

そして、短いスタンプ。

「OK」

(軽い親指)

それだけ。

「無理すんな」とも、「手伝おうか」とも言わない。

ただ、作業の完了だけを待っている。

送った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。

すぐに、別の重さが来る。

 

もし、新規ユーザーが奈々に聞いたら。

「これ、どんなアプリ?」

「使い方、合ってる?」

「ここ、変じゃない?」

 

佑真に聞いたら。

「これ、いつ直るの?」

「開発、誰がやってるの?」

 

奈々は笑って返すかもしれない。

佑真はうまく言うかもしれない。

 

でも。

そのあとで、何かが残る。

 

(……詰められるの、そっちか。)

 

口には出さない。

出したら、もっと現実になる。

 

彼は仕事の画面に戻った。

タスクを一つ終わらせる。

終わらせても、体のどこかが落ち着かない。

 

(……今日、落ちなければ。)

 

その「今日」が、明日になって。

明後日になって。

ずっと続くことを、考えないようにした。

Scene4 仕事と更新

午後の終わり。

モニターの白が続く。

議事録。

タスク。

送るだけの資料。

 

彼は普通に返事をする。

笑って、うなずいて、ファイルを添付する。

 

その合間に、ポケットの中の重さだけが残っている。

 

(……見ない。)

 

そう思って、見てしまう。

 

トイレの個室。

換気扇の音。

 

スマホを開く。

管理画面。

ログ。

 

登録数:12

 

さっきと同じ。

それが少しだけ安心で、

すぐに怖くなる。

 

(……止まったら、止まったで。)

 

増えても怖い。

止まっても怖い。

 

彼は画面を閉じた。

閉じて、ポケットに戻す。

 

席に戻る。

キーボードを打つ。

 

仕事の文章の途中で、ふと手が止まる。

頭の奥で、別の画面が勝手に開く。

 

トップ。

一文。

離脱。

 

昼前の文字が、まだ残っている。

 

彼はマウスを動かして、仕事の画面に戻した。

戻したはずなのに、指先だけが落ち着かない。

Scene5 少しずつ増える

夕方。

帰り支度の音が、周りで増える。

椅子が引かれる音。

コートの擦れる音。

 

エレベーターの中で、スマホを開いた。

 

登録数:20

 

二十。

 

胸の奥が、一瞬だけ明るくなる。

 

(……増えてる。)

 

彼は画面を閉じた。

閉じても、数字が目の裏に残る。

 

改札。

人の流れ。

電車の揺れ。

 

窓に映る自分の顔が、少し疲れて見える。

 

スマホはポケットのまま。

取り出さない。

取り出さないのに、握り直してしまう。

 

朝、自分で打った言葉が遅れて刺さる。

 

(……あんまり期待しないで。)

 

誰に向けた言葉だったのか。

どこまで届いてしまう言葉なのか。

 

分からないまま、駅に着いた。

Scene6 小さな違和感

帰宅。

靴を脱ぐ。

部屋の灯りを点ける。

 

机に座る前に、手を洗う。

水の音。

タオルの布の感触。

 

スマホを開く。

通知。

 

奈々。

「回したら反応あったw 使ってみるってw」

「コメントもきたw」

 

軽い。

いつも通りの軽さ。

 

彼は返信欄を開いて、閉じた。

 

まず、見る。

 

管理画面。

ログ。

 

登録数:31

 

いくつか増えている。

ほんの少しの差なのに、息が浅くなる。

 

(……増えた。)

 

嬉しい。

嬉しいはずなのに、

先に来るのは、背中の冷えだ。

 

彼はパソコンを立ち上げた。

起動音。

ファンの低い音。

 

気になるところが、いくつかある。

 

説明文が、端末によって折り返し方が変わる。

ボタンの位置が、少しずれる。

初回の読み込みが、たまに遅い。

 

致命的じゃない。

でも、目に入ってしまったら、放っておけない。

 

彼は手を動かした。

一行直して、確認して。

もう一回。

 

その間にも、スマホが小さく震える。

取らない。

画面は見ない。

 

軽い親指の「OK」が、頭の中に残っている。

 

直った。

少しだけ。

 

直っても、終わらない。

 

彼は椅子にもたれて、天井を見上げた。

 

(……これ、毎日か。)

 

言葉にすると怖いから、口には出さない。

代わりに、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。

苦い。


Scene7 修正修正、また修正

夜。

部屋の灯りが、机の上だけを白くする。

パソコンのファンが低く回っている。

 

彼は、さっき直した箇所をもう一度開いた。

画面の端。

折り返し。

ボタンの位置。

 

直す。

保存する。

更新する。

 

変わったのは、数ミリ。

それなのに、呼吸が少しだけ楽になる。

 

スマホが震える。

取らない。

画面は見ない。

 

(……今は、こっち。)

 

一箇所直すと、別の箇所が気になる。

気になると、また直す。

 

直したあとの確認が、いちばん怖い。

 

管理画面を開く。

 

登録数:34

 

増えている。

ほんの少し。

 

胸の奥が一瞬だけ明るくなって、

すぐに、固くなる。

 

(……落ちないでくれ。)

 

彼は画面を閉じて、またコードに戻った。

キーボードを叩く音だけが、部屋に残る。


Scene8 佑真の指示

スマホが、また震えた。

今度は、取ってしまう。

 

佑真。

「トップ弱い」

「一文、変えろ」

 

少し間を置いて、また。

 

「説明長い」

「入口で離脱する」

 

昼と同じだ。

言い方だけが変わっている。

 

彼は返信欄を開いて、短く打つ。

 

「今夜まとめて見てる」

「基幹のとこ触ってるから、そこ終わったら直す」

「直したら共有する」

 

送信。

 

返ってくるのは、短い返事。

 

「OK」

 

それだけ。

 

彼はスマホを伏せた。

伏せたのに、文字が残る。

 

指を動かす。

保存する。

更新する。

 

画面がちゃんと出る。

それだけで、少しだけ息ができる。


Scene9 奈々の“声”と、Yuiの一言

スマホがまた震える。

今度は奈々。

 

「コメントきたw」

 

続けて、スクショが並ぶ。

短い言葉だけが、いくつも。

 

「価値観でマッチングとか、マジ画期的じゃね」

「奈々ちゃんのおすすめ、最高!」

「これ、普通に天才」

 

別のやつ。

 

「DeepMapで出た人と、めっちゃ話し合うの楽しい」

「同じの見てる感じする」

 

彼は画面を見つめたまま、息を吐いた。

 

短く返す。

 

「ありがとう」

「返信とかは無理しなくていい」

 

送信。

 

少しして、別の通知。

Yui。

 

「ちゃんと休めてる?」

 

それだけ。

 

彼は指を止めた。

画面の白が目に刺さる。

 

(……休めてる、って。)

 

休めてはいない。

でも、今はそれを言う言葉がない。

 

彼は短く打った。

 

「うん」

「少し直してるだけ」

 

送信。

 

返ってくる。

 

「寝てね」

 

彼はスマホを伏せた。

代わりに、管理画面を開く。

 

登録数:38

 

また、増えている。

 

胸の奥が少しだけ明るくなって、

すぐに、冷える。

 

(……続く。)

 

彼は画面を閉じて、またキーボードに指を置いた。


Scene10 過ぎる日々

朝。

同じ音で目が覚める。

同じ湯気。

同じ苦さ。

 

会社に行って、仕事をして。

帰ってきて、机に座る。

 

それが続く。

 

スマホの通知は、少し減った。

減ったのに、触る癖だけが残っている。

 

管理画面。

ログ。

 

登録数:128

 

昨日より、少し増えている。

 

嬉しい。

嬉しいはずなのに、胸の奥が落ち着かない。

 

(……落ちないなら、それでいい。)

 

そう思って、画面を閉じる。

閉じても、目の裏に数字が残る。

 

夜。

 

パソコンを開く。

直す。

保存する。

更新する。

 

小さなズレ。

小さな遅さ。

小さな違和感。

 

それが目に入るたび、手が勝手に動く。

 

奈々から、たまに短いメッセージが来る。

 

「今日も使ったってw」

「『会話しやすい』って言ってたw」

 

佑真は、もっと短い。

 

「トップ」

「直せ」

 

彼は、同じ返事を返す。

 

「夜見る」

「落ちない方が先」

 

Yuiは、さらに短い。

 

「寝てる?」

 

彼は「うん」と返して、また画面に戻る。

 

会話をしている時間より、

修正している時間の方が長い。

 

気づいたら、日が変わっている。

 

(……まだ、終わらない。)

 

口には出さない。

出したら、また戻れなくなる気がした。


Scene11 中身が進む

夜。

机の上の光だけが残っている。

キーボードの音が、部屋の静けさを削る。

 

パソコンのファンが低く回っている。

マグカップの底は、もうぬるい。

 

彼はログを眺めた。

同じ動きが、同じ場所でつまずいている。

 

(……入口で迷うなら、順番を変える。)

 

一行直す。

保存する。

更新する。

 

変わらない。

もう一行。

 

(……同じ“見る”でも、軽いのと重いのがある。)

 

分類を増やす。

名前を短くする。

比率を少しだけ動かす。

 

偏ると、変になる。

 

(……振り切りすぎると、嘘っぽい。)

 

戻す。

ほんの少しだけ。

 

更新。

 

画面が出る。

落ちない。

 

それだけで、息ができる。

 

また直す。

また更新する。

 

一つ直すと、次が見える。

次が見えると、もう戻れない。

 

(……これ、先に整えた方が事故らない。)

 

気づいたら、机の上にメモが増えている。

短い単語だけが並んでいる。

入口。

説明。

読み込み。

比率。

 

スマホが震えた。

一つ。

二つ。

途切れずに。

 

彼はチャットを開く。

 

奈々。

「ねえw」

「この前の人さ」

「『前より合う人出やすい』って言ってたw」

 

佑真。

「入口の説明」

「まだ長い」

「一文、削れ」

 

Yui。

「今日、ちゃんと寝れてる?」

 

奈々。

「てか、普通にこれすごくない?w」

 

佑真。

「スクショ撮るならここ」

「順番変えろ」

 

Yui。

「無理してない?」

 

彼は画面を見たまま、短く返す。

 

「今、入口触ってる」

「説明短くする」

「落ちないの優先でやってる」

 

奈々。

「お、仕事できるw」

「また感想きたら送るねw」

 

佑真。

「それでいい」

「ほらな」

 

Yui。

「……うん」

「楽しそうで、安心した」

 

一瞬だけ、部屋が賑やかになる。

同じ画面に、同じ時間の言葉が重なる。

 

彼は、少しだけ口の端を上げてしまう。

すぐに、戻る。

 

(……いま、止めたら崩れる。)

 

チャットを閉じる。

コードに戻る。

 

また直す。

保存する。

更新する。

 

説明文の行を削って、順番を入れ替える。

読み込みの待ちを少しだけ減らす。

ログの並びを揃える。

 

(……ここ、まとめたら、次は楽になる。)

 

楽になる、の意味が分からないまま、手だけが進む。

 

窓の外が、少しだけ白くなる。

 

管理画面。

 

登録数:257

 

増えている。

 

胸の奥が、少しだけ明るくなる。

 

すぐに、固くなる。

 

(……落ちないでくれ。)

 

彼は肩を回して、もう一度だけ画面を更新した。



Scene12 一気に増える

朝。

スマホが震えている。

止まって、また震える。

 

彼は布団の中で画面を開いた。

 

管理画面。

 

登録数:503

 

数字が、昨日の倍になっている。

 

一瞬、胸の奥が明るくなる。

 

すぐに、息が止まる。

 

(……なんで。)

 

更新。

 

登録数:517

 

また増えている。

止まらない。

 

彼は起き上がった。

カーテンを開ける。

朝の光が眩しい。

 

スマホが震える。

 

奈々。

「やばい」

「これ、見て」

 

続けて、リンク。

 

画面を開く。

投稿。

短い動画。

その下に、長くはない文章。

 

「価値観が近い人と“最初から会話が始まる”の、発明だと思う」

 

DeepMap。

価値観。

合う人。

 

見慣れない数字が並んでいる。

反応。

拡散。

引用。

 

奈々が続ける。

 

「この人、ちょい有名」

「いつも辛口なのに、めっちゃ褒めてる」

 

彼は喉の奥が乾くのを感じた。

 

(……刺さったんだ。)

 

刺さった。

その言葉が、胸の奥で少しだけ熱くなる。

 

すぐに、冷える。

 

管理画面。

更新。

 

登録数:604

 

増えている。

増え方が、さっきより速い。

 

スマホが震える。

今度は佑真。

 

「きたな」

「やっぱ需要ある」

「今が勝負」

 

続けて、また。

 

「トップ変えろ」

「説明削れ」

「スクショここ」

 

彼は見ない。

見ないまま、スマホを伏せた。

 

(……今やるのは、それじゃない。)

 

落ちないようにする。

それだけ。

 

彼はパソコンを開いた。

画面が立ち上がるまでの数秒が、今日は長い。

 

管理画面。

監視。

数字。

反応時間。

 

(……まず、守る。)

 

スマホが震える。

 

Yui。

「これ、いいことなの?」

 

その一文だけ。

 

彼は指を止めた。

 

いいこと。

悪いこと。

 

どっちでもない。

どっちにもなる。

 

彼は短く打つ。

 

「分かんない」

「でも、怖い」

 

送信。

 

すぐにまた震える。

 

高城。

「今、DeepMapの話、流れてきた」

「落ちてない?」

 

彼は管理画面を見る。

更新。

 

登録数:732

 

背中が冷える。

 

短く返す。

 

「まだ落ちてない」

「でも増えてる」

 

返ってくる。

 

「夜、時間空けとけ」

「見る」

 

彼はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。

 

(……助かる。)

 

そう思った瞬間、別の重さが来た。

 

(……間に合うか。)


Scene13 予兆

昼。

仕事の画面が、いつも通り並んでいる。

会議。

資料。

返事。

 

彼は、普通に手を動かしている。

動かしているのに、指先だけが別の場所を探す。

 

トイレの個室。

換気扇の音。

 

スマホ。

管理画面。

 

登録数:802

 

昨日までとは違う。

増え方が、止まらない。

 

(……増えてる。)

 

更新。

 

少しだけ、間が空く。

 

いつもより、ほんの少し。

“遅い”と断言できるほどじゃない。

でも、気になる。

 

彼は画面を閉じた。

閉じても、数字が残る。

 

席に戻る。

また仕事。

チャット。

返事。

 

夜、時間空けとけ。

その言葉だけが、頭の奥に刺さっている。

 

(……今は心配しても、何もできない。)

 

そう思うのに、ポケットの重さが消えない。

 

夕方。

空が暗くなる前に、もう一度だけ見る。

 

登録数:947

 

増えている。

滑らかに。

 

(……まだ、落ちてない。)

 

その“まだ”が薄い。

 

夜。

部屋の灯り。

机の上だけが白い。

 

スマホが鳴った。

高城。

 

彼は、すぐ出た。

 

高城の声は落ち着いている。

落ち着いているのに、判断が速い。

 

「まず見るのは三つ」

「反応時間」

「エラー」

「同時アクセス」

 

彼は頷いて、メモを取る。

 

高城は続ける。

 

「焦っても仕方ない」

「やることは決まってる」

「順番に潰す」

 

短い。

でも、迷いがない。

 

「今夜は改善じゃない」

「守る」

「入口、絞れるなら絞る」

「重い処理は後ろへ」

 

彼は息を吐いた。

 

(……守る。)

 

それが正しいのに、手が少し震える。

 

高城が言う。

 

「落ちるのは一瞬」

「落ちた後は、連鎖で悪化する」

「だから先に“落ちない形”に寄せる」

 

彼は短く答える。

 

「分かった」

 

通話が切れる。

 

部屋が静かになる。

 

彼は管理画面を開いた。

更新。

 

登録数:1,214

 

いつの間に。

 

胸の奥が、少しだけ明るくなる。

 

すぐに、固くなる。

 

スマホがまた鳴った。

高城。

 

短い一文。

 

「やることやったら、必ず寝ろ」

「人が落ちたら、全部終わる」

 

彼は画面を見たまま、返事ができなかった。

 

メモだけが、机の上に残っている。

Scene14 送れない

夜。

机の上のメモが、白く浮いている。

反応時間。

エラー。

同時アクセス。

 

彼は画面を開いたまま、息を吐いた。

 

管理画面。

更新。

 

登録数:1,386

 

増えている。

増え続けている。

 

反応が、遅い。

さっきより。

さっきより、はっきり。

 

(……来てる。)

 

彼は、画面を切り替えた。

監視。

ログ。

 

赤い行が、ぽつぽつ混ざっている。

 

タイムアウト。

送信失敗。

 

数字はまだ動いているのに、

返事が遅い。

返事が返ってこない。

 

(……落ちてない。……でも。)

 

スマホが震えた。

奈々。

 

「なんかさ」

「送信できないって言われたw」

 

続けて。

 

「『話そうとしても飛ぶ』って」

「『送ったのに消えた?』って」

 

彼は返信欄を開いた。

 

「大丈夫」

「すぐ対応する」

「無理に返さなくていい」

 

送信。

 

彼は喉の奥が乾くのを感じた。

 

送れない。

送れないだけ。

 

本当は、それだけだ。

 

でも。

 

(……それだけじゃない。)

 

ここで、送れないのは。

ここで、止まるのは。

 

誰かの最初の一回を、潰す。

 

キーボードに指を置く。

 

改善じゃない。

守る。

 

メモの言葉を、頭の中でなぞる。

 

入口。

絞る。

 

重い処理。

後ろへ。

 

今だけ。

まず通す。

 

更新。

 

画面が一拍、止まる。

戻る。

 

また更新。

止まる。

戻る。

 

スマホが震える。

佑真。

 

「説明削れ」

「トップ変えろ」

「今が勝負」

 

彼は見ない。

見ても、今は変わらない。

 

奈々から、また。

 

「『奈々ちゃんのおすすめなのにー』って言われたw」

「ごめんw」

 

ごめん、じゃない。

 

彼は息を吸って、吐いた。

 

(……初めてだ。)

 

初めての“混んでる”。

初めての“送れない”。

 

大したことじゃない、と思いたいのに。

手が、少し震える。

 

彼はもう一度、ログを見る。

赤い行。

少し減る。

また増える。

 

戻る。

戻らない。

戻る。

 

薄い綱渡りみたいに、動いている。

 

(……ここで、怖がるな。)

 

そう言い聞かせても、怖い。

 

机の上のコーヒーは、もう冷たい。

冷たいのに、口に入れる。

苦い。

 

彼は画面を更新した。

今度は、少し早い。

 

それだけで、胸の奥が少しだけ明るくなる。

 

すぐに、固くなる。

 

(……まだ、続く。)


Scene15 矛先

夜。

部屋の空気が乾いている。

エアコンの風が、机の端をかすめる。

 

画面は戻る。

戻って、また引っかかる。

 

“落ちた”わけじゃない。

でも、送れない。

送れない時間が、残る。

 

スマホが震える。

 

奈々。

「また来たw」

「ちょっときついw」

 

続けて、短い文が並ぶ。

 

「『送れないんだけど?』って」

「『奈々ちゃんのおすすめって聞いたのに』って」

「『これ、バグ?』って」

 

胸の奥が、きゅっと縮む。

 

(……そっちに刺さる。)

 

彼は返信欄を開く。

短く。

 

「ごめ」

「もう少し待って」

 

送信。

 

返した瞬間だけ、息ができる。

 

すぐに、別の重さが来る。

 

(……返したぶんだけ、期待される。)

 

画面へ戻る。

監視。

ログ。

赤い行。

 

送信失敗。

タイムアウト。

 

数が増えるたびに、揺れが増える。

 

スマホがまた震える。

佑真。

 

「入口」

「説明」

「今が勝負」

「先に文言変えろ」

 

さらに続く。

 

「俺が言った通りにしろ」

「早く」

 

彼は見ない。

見ても、今じゃない。

 

(……今やるのは、守る。)

 

メモを手で押さえる。

反応時間。

エラー。

同時アクセス。

 

入口を少しだけ絞る。

重いところを後ろへ回す。

“今だけ”の形を選ぶ。

 

画面が戻る。

戻ったと思ったら、また引っかかる。

 

彼は唇を噛んだ。

 

奈々の方に、言葉が集まっている。

知らない誰かの苛立ちが、先に奈々へ行く。

 

(……詰められるの、そっちだ。)

 

その想像だけで、胃が冷える。

 

スマホが震える。

今度はYui。

 

「大丈夫?」

 

短い一文。

 

彼は指を止めた。

“大丈夫”の意味が、分からなくなる。

 

でも、止まれない。

 

彼は短く返す。

 

「大丈夫」

「今、守ってる」

 

送信。

 

画面へ戻る。

更新。

 

少しだけ早い。

少しだけ遅い。

 

波みたいに揺れる。

 

(……夜、来る。)

 

高城の声が、頭の奥に残っている。

順番に潰す。

落ちない形へ。

 

彼はメモを見て、もう一度だけ画面を切り替えた。


Scene16 高城の一次対応

スマホが鳴った。

高城からだ。

 

出る。

 

高城は間を置かない。

「まずは状況を教えろ」

 

机の上のメモに目を落とす。

さっきまでの焦りを、そこに押し込む。

 

「送信が失敗することがある」

「混むと、送ったのが消えたって言われる」

「完全には落ちてない」

「登録は、千七百台」

 

高城は短く息を吐いた。怒ってはいない。切り替えている。

「今、打った手は」

 

メモを指でなぞりながら、順に答える。焦らないように、言葉を揃える。

 

「入口を軽くした」

「重い処理は後ろに回した」

「送信だけ通るように優先を付けた」

「タイムアウトが出てるのは確認した」

 

高城の声が少しだけ低くなる。

「確認した、って何を見た」

 

「送信失敗」

「タイムアウト」

「ログの赤い行」

 

「数で言え」

 

一拍。

喉が鳴る。

 

(……数。)

 

指先が宙を探す。

画面を開けば出る。

でも今は、通話の中だ。

 

「……えっと」

 

言いかけて、止まる。

 

「今、手元に正確なのは出せない」

「ただ、短時間にまとまって出てる」

「送信周りが多い」

 

自分でも曖昧だと分かる。

 

高城はそこで責めない。

切るように、次を置く。

 

「なら取れ」

「まず現状把握だ」

 

胸の奥が、少しだけ軽くなる。

軽くなった分、怖さも増える。

 

高城が続ける。

「同接は」

 

指が止まった。

 

「……見てない」

 

一瞬の沈黙。

叱責は来ない。代わりに、説明が来る。

 

高城は言い切る。

「そこが素人ポイント」

「登録は総数だ」

「同接は“今の圧”だ」

「落とすのは総数じゃない。圧と回数」

 

回数。

送信と更新の回数。短い間隔のアクセス。

 

高城は淡々と質問を重ねる。必要な分だけ。

「サーバの構成」

「アプリは何で動かしてる」

「DBは何」

「接続プールはあるか」

「送信一回でDBを何回叩く」

 

答えられるものと、答えが薄いものが混ざる。

そこで、自分が“アプリの人間”だと分かる。

 

「構成は……」

「DBは……」

「接続プールは、たぶん……」

 

言いながら、声が小さくなる。

 

高城はそこで切る。責めない。

「いい。分からないは分からないでいい」

「今は、まず現状把握」

 

続けて、優先順位が出る。

抽象じゃない。手順になっている。

 

「今から見るのはこれだけ」

「同接」

「CPUとメモリ」

「DB接続数」

「送信失敗の内訳」

「タイムアウトの場所」

 

メモに書く。

文字が少しだけ歪む。

 

高城は言葉を足す。必要なところだけ。

「送信失敗、って一個じゃない」

「DBが詰まってるのか」

「アプリが詰まってるのか」

「外部が詰まってるのか」

「内訳がないと、全部“気のせい”になる」

 

その言い方が、刺さる。

 

「……今夜、何をしたらいい」

 

高城は迷わない。

「目的は一つ。送れないを消す」

「表示が遅いのは許す」

「送れないは致命傷」

 

次に、具体が落ちてくる。

 

「送信一回でやることを減らせ」

「送れたかどうかだけ返せ」

「中の処理は後ろに回す」

「作業は“守る用の形”に寄せろ」

 

「入口も触れ」

「連投の間隔」

「更新の間隔」

「同じ操作の連打」

「波を削るだけで、持つことがある」

 

高城は少しだけ間を空けた。

「ここまで分かったか」

 

「分かった」

 

高城は言う。

「今日はとことん付き合う」

「どれくらいで触れる」

 

時計を見る。

いま触れば、何を捨てて何を残すかで迷う。迷っている時間がいちばん高い。

 

「……九十分ください」

 

「いい」

「終わったら、また連絡しろ」

「同接と内訳、持ってこい」

 

通話が切れた。

 

部屋が静かになる。

静かすぎて、キーボードの音が大きい。

 

九十分。

同接の目安を取る。

送信失敗を種類で分ける。

タイムアウトがどこで起きているか、場所を揃える。

送信の中で、今夜いらない処理を外す。

“送れたかどうか”だけ返すように寄せる。

入口で波を削る。

 

コーヒーが冷える。

味がしない。

 

九十分。

呼び出す。

 

高城。

「状況」

 

数字と内訳だけを置く。言い訳はしない。

 

「同接の山はこのくらい」

「送信失敗は、これが多かった」

「タイムアウトはここで出てた」

「今は、波が小さくなった」

 

高城は数秒だけ黙る。

見ている時間。

 

「よし」

「今日は、もう一段やる」

 

指示は短い。でも、切れ目がない。

 

「送信の戻りをさらに軽く」

「送信の後処理は切り離せ」

「DB接続数、増やすな」

「増やすと一瞬で死ぬ」

「ここ、普通の実装者が一番やらかす」

 

“普通の実装者”が、胸に刺さる。

 

「どれくらい」

 

「三十分ください」

 

「いい」

「終わったら、もう一回」

 

通話が切れる。

 

三十分。

もう一段、削る。

もう一段、分ける。

波をさらに削る。

 

ログを見る。

送信失敗の赤が、なくなる。

 

もう一度、呼ぶ。

 

高城は結果だけを拾う。

「今の人数なら、ひとまず持つ」

 

肩の奥がほどける。

それだけで、眠気が来る。

 

でも、高城は最後に“根本”を置いていく。

ここだけは少し長い。必要だから。

 

「次に死ぬのは“読む”側だ」

「見る人が増えると、読み込みが詰まる」

「海外が混ざると、文字と通知で事故る」

「画像やリンクが増えると帯域も詰まる」

「監視とアラートがないと、気づけない」

 

「対処は順番に出す」

「今日は一次対応で終わり」

 

通話が切れた。

 

すぐに、メッセージが来る。

 

今日やるなよ

さっさと寝ろ

 

画面を見たまま、息を吐く。

 

(……寝ろ、か。)

 

一次対応。

それだけ。

それでも、ひとまず――なんとかなった。


Scene17 朝、静かに戻る

朝。

カーテンの隙間から、白い光が差している。

部屋は静かで、静かすぎて、机の上のメモ用紙がやけに白く見える。

 

起き上がる。

喉が乾いている。

水を飲んで、椅子に座る。

 

パソコンを開く。

立ち上がるまでの数秒が、昨日より短い。

それだけで、胸の奥がふっと緩む。

 

管理画面。

更新。

 

登録数:1,9—

最後の桁が動く。

動いている。

でも、暴れていない。

 

ログを見る。

赤い行。

ない。

 

もう一度、更新。

 

ない。

 

(……今のところ。)

 

息が、ちゃんと出る。

肩の奥に入っていた力が、少しだけ抜けた。

 

そのまま、仕事の画面を開く。

メール。

チャット。

タスク。

 

普通の朝。

いつもと同じ。

 

でも、スマホが机の端にあるだけで、視線が吸われる。

 

(……昨日の続きが、まだ残ってる。)

 

チャットルーム。

通知がひとつ。

 

奈々。

「よかった! 朝から普通に送れるって!」

「昨日のやつ、まじビビったw」

 

続けて、軽い温度。

 

「でもさ、なんか逆に盛り上がってる」

「みんな『使いたい』って言ってる」

 

佑真も入ってくる。

 

「だろ」

「こういうときはスピード勝負」

「俺が言ってた通り、まず入口だって」

「次はトップの文言な」

 

机の上のコップを見て、もう一口飲む。

返す言葉が、すぐには出ない。

 

奈々が、すぐ返した。

 

「えっ」

「作ったのは湊だよね」

「何で佑真が出てくるの?」

 

一瞬だけ、空白が入る。

 

佑真。

「いや、作るだけじゃ回らないだろ」

「ディレクションってやつ」

「全体の判断する人が必要なんだよ」

 

奈々。

「へー」

「よく分かんないけど」

「とりあえず、送れるならOK!」

 

その軽さが、救いにも、怖さにもなる。

 

(……今は、OKでも。)

 

画面を見る。

登録数が、また一つ増えている。

 

Yuiからも、短く来る。

 

「朝、落ち着いてる?」

「昨日、ちゃんと寝た?」

 

指が止まって、止めたまま息を吐く。

 

「少しだけ」

「今は大丈夫」

 

送信。

 

チャットルームに、また奈々の文字が積まれる。

 

「今日も誰かに紹介しとくね〜」

 

その一文で、胃の奥が少し冷える。

口には出さない。

出せない。

 

(……増える。)

 

増えるのは、いい。

いいはず。

 

なのに。

 

その直後。

チャットルームに、見慣れない名前がひとつ混ざった。

 

「Hi. Is this only Japanese?」

 

短い。

でも、部屋の空気が変わる。

 

彼は画面を見たまま、指を止めた。

 

(……早い。)

…よ…3…た… …こ…m4…で… …頭…9b…回… …考…r1…外… …一…t0…止…

 

登録数が、また一つだけ増えた。

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