第3話 小さな輪が広がる

Scene1 完成の夜

夜。

部屋の灯りは落としてある。


モニターの白だけが、机の端を照らしていた。

冷蔵庫の低い唸り。


エアコンの風。


壁時計の秒針。

名前を付けてから、何度か夜を越えた。


小さく直して、また直して。


一度戻して、また直して。

(……これで、形になる。)

キーボード。


エンター。


ログ。

落ちない。


固まらない。


変なエラーも出ない。

彼は、喜ぶ前にもう一度同じ処理を走らせた。


確認。確認。確認。

(……動いてる。)

“動いてる”だけで、息がしやすくなる。

チャットルームを開く。


送信欄に、短い文を打って、消して、また打つ。

「DeepMap使えるようにした。よかったら、試してみて」

送信。

送った瞬間、肩が落ちる。


自分の中では終わったのに、ここからが始まりだ。

(……返事、来るか。)


来たら来たで怖い。

来なかったら、それも怖い。


Scene2 四人の内側

通知。

奈々。

「おっけ。今日ちょっと触ってみる!」

短い。


軽い。

軽いのに、胸の奥が温かくなる。

(……触る、って言った。)

それだけで救われてしまう自分が、少し嫌だ。


次。

Yui。

「無理してない?寝る前にやってるなら、ほんとに少しでいいから休んだ方がいいよ。」

早い。


温度が違う。

彼は、迷ってから返す。

「大丈夫。いまのところ、システムは落ちてない」


送信して、画面を伏せた。


――それから。

静かだった。

通知は来ない。


既読も増えない。

部屋の音だけが戻ってくる。


秒針。冷蔵庫。エアコン。

(……あれ。)

彼はログを開く。

落ちてない。


エラーも出てない。

(……じゃあ、何で。)

“忙しいだけ”という説明を、頭が勝手に作る。


ゲームしてるだけ。

試してるだけ。

潜ってるだけ。


でも、胸の奥が落ち着かない。


昼。

会社のフロアの明るさが、やけに白い。


雑談の笑い声が遠い。

彼はトイレの個室でスマホを開いた。


通知はない。

(……まだ。)

夕方。

電車の継ぎ目の音。


吊り革の揺れ。


誰かの咳。

帰って、靴を脱いで、部屋の灯りを点けずにモニターを点ける。


白が戻る。

そして、ようやく。


奈々。

「やばい、これ、時間溶けるw」

「マッチした人、初対面なのにラティスの話が普通に通じるんだけど。え、何これ」


“まとめて”来る。

彼は笑いそうになって、口元を押さえた。


少し遅れて、佑真。

「確認した。回ってる。想定どおりに動いてるな」


(……想定どおり。)

彼は、裏で直した箇所を思い出して、喉の奥が少し苦くなる。


でも今は、その苦さを飲み込む。


Yuiが、短く入る。

「よかったね」


奈々。

「てか、これ作ったの普通にやばいって」


佑真。

「当たり前。ロジックがいい」


奈々。

「いや、そこ自分で言う?w」


佑真。

「言う。……でも、まだ薄い」


奈々。

「薄いって何w」


Yui。

「……無理しないで。寝て」


その「よかった」が、誰に向いているのか分からなくて、胸の奥が静かに揺れる。


Scene3 つかの間の錯覚

それからしばらく。

チャットルームは、時々しか光らなかった。


奈々はたまにスタンプ。

佑真は要点だけ。

Yuiは短い一行。


彼は、その静けさを“成功”だと思いたかった。

(……潜ってるだけ。)


潜ってる。

試してる。

向こう側で、誰かと当たってる。

そう思えば、説明がつく。


でも。

モニターの端でログが流れているのに、胸の奥は落ち着かない。


プログラムが静かだと、逆に怖い。

落ちない。

止まらない。

エラーも出ない。


(……ほんとに?)

何度も同じ画面を更新する。


同じ数字を見て、同じ場所を見てしまう。

確認しているのか、疑っているのか、自分でも分からない。


夜。

ふいに奈々が書く。

「やば。価値観合う人と話すと、会話の速度が違う」

「これ、めっちゃいい。普通に楽しい」


彼は、すぐ返せなかった。


(……価値観。)

その言葉が、軽くて、眩しい。


でも、同時に。

(……ほら。)


“ほら”が胸の奥で鳴る。

自分がやってきたことは、間違ってなかった。


この方向でいい。


ちゃんと通じる。

そう思えた瞬間だけ、呼吸が少しだけ楽になる。


その直後に、佑真が入ってくる。

「次、こうした方がいい。もっと――」


文が流れ始める前の、ほんの数秒。


奈々の言葉だけが残っている時間。

彼はその数秒に、しがみつくみたいに画面を見た。


つかの間だけ、自分が救われた気がした。


Scene4 ノイズの増大

「次、こうした方がいい。もっと――」


そこで終わらなかった。

佑真からの指示書のようなものは、そのまま続いた。


「称号つけよう。相性SとかAとか。分かりやすく」

「ログボ入れよう。継続率上がる」

「UI派手に。一発で刺さる見た目」

「一般向けにした方がいい。専門っぽいのは全部削って」


彼は、画面の白を見たまま瞬きをした。


(……一般向け。)

言葉だけが浮いている。


今は四人だ。

四人の中で、ようやく回り始めたところだ。

そこに“一般”が入り込む余地が、まだ頭の中にない。


彼は返事を打って、消して、短くする。

「うん、検討する」


送信。

すぐに返ってくる。

「だよな。全体の方向性、俺が決めるわ」


(……決める。)


彼は画面を見たまま、何も返さなかった。

返す言葉がないというより、


返したら、場の温度が変わってしまう気がした。

彼はチャットを閉じて、別の窓を開く。

ログ。

例外。

小さなズレ。


奈々が楽しそうに言っていたところの境目に、ほんのわずかな引っかかりがある。

(……ここか。)

直す。

走らせる。

直す。


通知が鳴る。


佑真。

「あと“紹介文”作った方がいい。入口に一行。キャッチコピー的なやつ」


彼は、少しだけ眉を寄せた。

(……入口。)

4人で使うのであれば入口なんて、必要ないはずなのに。


でも、彼は短く返す。

「了解」

返してしまう。


返してしまうと、

その分だけ“次”が前に来る。


Scene5 昼の薄さ

翌日。

蛍光灯の光が、やけに平らだった。

キーボードの音。

コピー機の機械音。

誰かの笑い声。


彼の指は動く。


画面の文字も追える。

でも、頭の片隅に小さな窓が残っている。

ログ。

例外。

昨夜のズレ。

昼休み。

コンビニ袋の湿り。

電子レンジの短い音。

スマホを開く。


通知はいくつかある。

短い文。

短い返事。

名前が並ぶ。

(……普通だ。)


返したり、返さなかったり。

誰かの会話は続いて、誰かの会話は止まる。


その程度のことは、もう慣れている。

奈々と佑真から通知がないのも、別に不自然じゃない。


ただ。

ふと、画面の端に“彼の作ったもの”がよぎる。

(……落ちてないよな。)


彼は無意識に、ログの画面を思い出していた。

それが依存に見えるのが嫌で、スマホを閉じる。


午後。

会議。

作業。

また会議。

帰りの電車。

継ぎ目の音。

吊り革の揺れ。

誰かの咳。


彼は窓の暗い反射に、自分の顔が映るのを見て、目を逸らした。


Scene6 拡散

夜。

部屋の灯りを落として、モニターを点ける。

白が戻る。

奈々から通知。

「ねえ!今日さ、ラティスで一緒になった人に、DeepMapの話しちゃった!」


彼は一瞬だけ止まって、

次に、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。

(……言ったんだ。)

自分の作ったものを、誰かが誇らしげに口にした。

それだけで、嬉しい。


奈々。

「“それ使いたい”って言ってたwめっちゃ興味持ってた」


嬉しさがもう一段上がりかけて、次の瞬間、頭の中に別の画面が立ち上がる。


利用規約。

同意。

削除。

入口。

権限。

秘密情報。

落ちた時の復旧。


(……無理だろ。)


反射でそう思う。

“無理”というより、“今は無理”。

彼は、返事を打つ指が少し遅くなる。


奈々は続ける。

「みんな使えるようにできない?って。Facebookとかインスタみたいにさ!」


その言葉は軽い。

軽いからこそ、現実が重く見える。


彼は、短く返す。

「まだ四人だけ。内部テスト中」

送信。


送信した直後、自分の返事が冷たかったかもしれないと思って、指が止まる。

(……嬉しいのに。)

嬉しい。


でも、厳しい。

その二つが、同じ場所に並んでしまう。

彼は画面を見たまま、息を吐いた。

冷蔵庫の低い唸りが、妙に大きく聞こえた。


Scene7 ログは増えない

彼はチャットを閉じて、ログ画面を開いた。

読み込み。


一覧。

アカウント。


増えていない。

当たり前だ。


触れるのは、彼と、佑真と、奈々と、Yui。


四人だけ。

(……四人だけ。)

入口は絞ってある。


招待も仮のまま。

増やさないために、そうしてある。


なのに。

増えていない数字を見て、安心するより先に、別の重さが来る。


奈々の“つながった相手”の向こう側。

佑真が「こうした方がいい」と言う時に想定している外側。


そこにいる誰かたち。

その人たちは、ここにはいない。


ログにもいない。

でも、“話”だけは先に増える。

(……先に約束が増えるやつ。)

約束が増えると、境界が薄くなる。


彼は、指先でマウスを軽く叩いた。

カチ。

カチ。

小さな音が、部屋に残る。


Scene8 境界の衝突

奈々から、続きの通知。

「その人がさ、“みんな使えるようにできない?”って」

次。

「Facebookとかインスタみたいに、って」

軽い。


軽すぎる。

彼は一度、画面から目を離して、天井を見た。


白い天井。

薄い影。

換気扇の低い音。

(……そういう話じゃない。)

そう思うのに、説明の言葉が出てこない。


彼は短く返す。

「まだ無理。四人だけ。内部テスト中」


送信。

すぐに奈々。

「そっか。でも絶対ウケると思うんだよね!」

その“絶対”に理由はない。


理由がないから、止まらない。


佑真が入ってくる。

「なら出そうぜ。完成度高いし。もったいない」


奈々。

「ね、もし出せたらさ。ラティス勢、絶対増えると思う」


佑真。

「だから入口が要る。説明の一行」


奈々。

「キャッチコピー的な?」


佑真。

「そう。刺さるやつ」


奈々。

「また刺すって言ったw」


佑真。

「刺さないと入ってこない」


奈々。

「じゃあ……“会話の速度が変わる”とか?」


彼は、その文を見て、心臓が一瞬だけ跳ねた。

(……速度。)


“出す”という動詞が、まだ手に馴染まない。

彼は返事を打って、消した。


打って消した文のほうが長い。


Scene9 前提化

その場では、軽く流した。

「準備いる。すぐは無理」

送信。


それで終わると思った。

終わらなかった。


翌日。


佑真。

「で、いつアップする?」


“いつ”という言葉が、机の上に落ちてくる。

彼はスマホを置いたまま、しばらく見ていた。


画面は暗くなって、彼の顔だけが薄く映る。

(……いつって。)

まだ何も決めていない。


決めていないのに、言葉だけ先に進む。

さらに翌日。


奈々。

「ごめん、もう“使える”って言っちゃった。早めにお願い…!」


(……言っちゃった。)

言っちゃった、で済むのは、言った側だけだ。

彼は返信欄に指を置いて止まる。


“無理”と書きかけて、消す。


そのタイミングで、Yuiが入る。

「ちょっと待って。急かしすぎじゃない?」

短い。


でも、空気が変わる。

続けて、彼にだけ。


「大丈夫?無理なら無理って言っていいよ」

(……言っていい。)


言っていいのに、言えない。

誇らしげに話してくれたのが嬉しかった。


頼られたみたいで、少しだけ救われた。

その気持ちが残っているせいで、断る言葉が薄くなる。


彼は短く返した。

「分かった。少し整理してから」


送信。

送信した瞬間に、胸の奥が小さく沈んだ。


(……整理。)

整理したら、やるしかなくなる。


机の上のスマホは震えていないのに、


指先だけが、まだ少し震えていた。


Scene10 Yuiの警告


夜。

部屋の灯りを落としても、胸の奥のざわつきは消えなかった。


冷蔵庫の唸り。


秒針。


換気扇。

彼はメモを開いたまま、何も書けずにいた。


そこへ、YuiからDM。

「ねえ。やめた方がいいよ」


一拍。

「無理してる」


画面の白が、少し眩しくなる。


(……無理してる。)


彼は指を動かして、止める。

「大丈夫」

消す。


大丈夫じゃない、を打ちかけて、消す。

代わりに、納得させるみたいに打った。

「せっかく、価値観が合ったんだ。今は、頑張るところだと思う」

送信。


送った瞬間、言葉が自分の首に巻き付く感じがした。


Yuiはすぐ返す。

「“価値観が合う”ってさ、合わせなきゃいけないものなの?」


彼は息を止める。


「それと……あなたが本当に欲しかったのって、“本音で話せる相手”じゃなかった?」


指が止まる。

(……本音。)


「いま、本音で話せてる?」

画面の端でカーソルが点滅する。


点滅だけが続く。

彼は言い返せなかった。

価値観、という言葉で逃げたのが、自分でも分かる。


分かるのに、どこから直せばいいか分からない。

考えると、崩れる。

(……考えるな。)


彼は薄い文を返した。

「ありがと。少し整理する」

送信。


そしてすぐに、DMを閉じた。

閉じて、別の窓を開く。

メモ。

仕様。

ToDo。


文字を並べれば、呼吸が戻る気がした。


Scene11 決意

椅子に深く座り直す。

背もたれのきしみ。


床の冷たさ。

モニターの白。


(……本音で話せてる?)


さっきの一文が、遅れて刺さる。

刺さるのに、抜けない。


彼は天井を見た。

見ても答えは出ない。


(……やめた方がいい。)


Yuiの言葉も浮かぶ。

浮かんだまま、消えない。

そのタイミングで、通知が重なる。


奈々。

「ごめん、急かしちゃったかも。でも、ほんとにすごいと思ってる。使えたら絶対みんな喜ぶよ」


佑真。

「大丈夫。いける。出した方がいい。必要ならテストは手伝う」


“手伝う”の中身が薄いのは分かる。

でも、いまは、その薄さがありがたい。

胸の奥が、少しだけ軽くなる。


(……大丈夫、って。)

大丈夫と言ってもらえると、


自分で考えなくて済む。


彼はチャットルームを開く。

送信欄に、短い文。

「少しだけ外に出す方向で考える。すぐは無理。準備する」


送信。

送信した瞬間、心臓が一拍遅れて鳴った。


(……言った。)

言ってしまったから、

また一つ、戻れないものが増えた気がした。


Scene12 現実の壁

彼はメモを新規で作った。

白い画面に、黒い文字が増える。


利用規約。

プライバシーポリシー。

同意の記録。

退会。

データ削除。

削除したことの確認。

招待。

期限。回数。権限。

勝手に増えない境界。


外部の履歴。

そもそも、勝手に取れない。


規約と制限。回数。

代わりのやり方。

サーバー。

負荷。

監視。

バックアップ。

復旧手順。

セキュリティ。

秘密情報。

攻撃前提。

通報。ブロック。凍結。


(……多い。)

多すぎて、笑えない。


でも。

(……無理ではない。)


そう思ってしまう。

思ってしまうから、指が動く。


“最低限”という言葉を、何度も書いて、消した。

最低限が分からない。


分からないのに、決めないといけない。

壁は、もう目の前に立っていた。


Scene13 佑真に頼る

キーボードから手を離して、スマホを取る。

画面の光が、指の腹を白くする。


室内は静かで、秒針だけがやけに大きい。


彼は佑真に短く投げた。

「運用とセキュリティ、手伝える?公開するなら必要」


送信。

既読はすぐ付いた。


返事もすぐだった。

「あー、俺アプリ側専門。インフラ分かんないわ」

「地味だし責任重いし。そこは任せる。お前得意だろ」


(……任せる。)

“任せる”は軽い。


軽すぎて、落ちる音がしない。

彼は返信欄に指を置いて、止めた。

手伝うと言ったはずの“テスト”は、どこに行った。


そう思うのに、問い詰める気力が湧かない。


(……結局。)

結局、いつもこうだ。


彼は短く返した。

「了解」


送って、スマホを伏せる。

伏せても、言葉だけが残る。


地味。

責任。

任せる。


彼は椅子を少し引いて、息を吐いた。

冷蔵庫の唸りが、また近くなった。


Scene14 高城

メモの「サーバー」の行にカーソルを置いたまま、動けなくなる。

監視。

バックアップ。

復旧。

攻撃前提。

秘密情報。


(……分かるけど。)

分かる。


分かるのに、手が止まる。

分からないところじゃない。


重いところだ。

彼は目を閉じた。


暗いまぶたの裏に、昔のフロアの光が浮かぶ。


夜遅く、誰もいない机。

モニターだけが点いている席。


そこに、いつもいた人がいる。

口数が少ない。

愛想もない。


でも、システムが落ちることを異様に嫌う。

落ちない仕組みの話をするときだけ、声が少しだけ速くなる。

(……高城さん。)


彼は連絡先を探した。

スクロールの音が、静かな部屋でやけに響く。


見つけて、止まる。

(……今さら。)


今さら、と思うのに。

今さら、のままでは進まない。


彼は短い文を作って、送った。

「久しぶりです。個人で作ったものを公開することになりそうで、運用まわりを少し見てほしい」


送信。

送った瞬間、肩が少しだけ固くなる。

返事が怖い。


でも、返事がないのも怖い。

彼はスマホを机に置いて、またメモに戻った。

白い画面に、黒い文字。

それがいまの逃げ道だった。


Scene15 冷たい設計図

スマホが震えた。

机の上で、短く。


乾いた音。

彼は画面を覗く。


高城。

「見せろ」

それだけ。


(……短い。)

彼はリンクを貼る。


概要を二行だけ書く。

書きながら、言い訳になりそうな文を消す。


長くなるほど、弱く見える気がした。

送信。

既読。

沈黙。

秒針。

冷蔵庫。

換気扇。


(……遅い。)

遅いのが怖い。


早いのも怖い。

また震える。


「……お前が一人でここまで組んだのか」

一拍置いて、次。

「穴だらけだな。これ、外に出した日に死ぬ」


(……死ぬ。)

その言い方が、妙に助かった。

「死ぬ」と言われると、


“直せば生きる”に変換できる。

彼は返信しようとして、止まる。


高城から、すぐに追い文が来た。

「明日。三十分。画面共有できるか」


彼は短く返す。

「できます」

送信。


翌日。

帰宅して、靴を脱ぐ。


部屋の灯りは点けず、モニターだけ点けた。

白。

通話を繋ぐ。

高城の声は、画面より先に冷たかった。

「で。サーバー、何台でどこに置いてる」


「……一台です。小さめのやつ」


「一台で公開?落ちたら終わりだな」

(……終わり。)


高城はため息を吐いたような、吐かなかったような間を置く。

「まず、落ちない話じゃない。落ちる前提で戻す話をしろ」

画面共有。


彼の構成が映る。


高城。

「DBのバックアップ、どこ」

「取ってないなら、今からやれ」


「復旧手順、紙に書け。手順が無い復旧は、復旧じゃない」


彼は頷きながら、メモを打つ。


高城。

「監視。落ちた時に“気づける”か」

「通知はどこに飛ぶ」

「ログの保管、何日」


質問が全部、具体的だった。

彼は息が浅くなる。

(……全部、後回しにしてた。)


高城。

「あと、入口。“みんな使える”なら、最初に狙われる」

「レート制限。サインアップの制御。招待の期限と回数」

「秘密情報。キーとパスワード、どこ置いてる」


彼は一瞬、黙る。

(……言いたくない。)

言いたくないのに、言わないと進まない。


「……環境変数で……一応」


高城。

「“一応”で死ぬ」

短い断言。

彼は言い返せない。


高城は、少しだけ声を落とした。

「法務は知らん。規約とか同意とか、俺に聞くな」


(……線引き。)

その線引きが、逆にありがたかった。

聞けるものと、聞けないものがはっきりする。


高城。

「俺が見れるのはここまで。落ちる・戻す・守る」

「外に出すなら、ここだけは最低限」

通話が切れる直前。


高城。

「あと、一個」

間があって、続く。

「ほとんどの場合、プログラムが落ちる前に、作ったやつが落ちる」


「今のお前は、プログラムより先に落ちるぞ」

彼は、喉の奥が詰まって、返事が遅れた。


(……そうか。)

落ちるのは、サーバーじゃない。


自分だ。

「……で、お前。寝てるか?」

唐突だった。

彼は少しだけ詰まってから答えた。

「……寝てます」


高城。

「嘘つけ」


通話が切れた。

画面の白だけが残った。


Scene16 積み木を積む夜

その夜から、彼の時間の使い方が変わった。

平日。

帰宅して、風呂を急いで済ませる。


机に座るのは、だいたい二十二時を過ぎる。

そこから二時間。


時々、三時間。

(……二時間だけ。)

そう決めて、守れない。

週末。

土曜の朝に起きて、


気づいたら日曜の夜だった。

(……消えた。)

時間が、消えた。

彼はメモを二段に分けた。

「自分でやる」

「高城さんに聞ける」

カーソルが点滅する。


点滅だけが現実だった。

自分でやる


利用規約

プライバシーポリシー

同意の記録

退会と削除(削除した証拠)

問い合わせ窓口(最低限)

説明文(入口の一行)


高城さんに聞ける

監視(どこで見る/どこに飛ばす)

バックアップ(頻度/保管)

復旧(手順/所要時間)

権限(管理者/一般)

秘密情報(置き場/更新)

レート制限(入口の絞り)

招待(期限/回数)


彼は項目を見て、喉の奥が苦くなる。

(……自分でやる方が多い。)

当たり前なのに、重い。

高城の声が頭の中で鳴る。

「落ちる前提で戻せ」


「“一応”で死ぬ」


彼はサーバーの設定画面を開く。

監視のダッシュボード。

通知先。

アラートの閾値。

バックアップの設定。

保存先。

暗号化。

復旧手順。

メモに書く。


実際に一回、戻してみる。

(……戻る。)


戻るのを確認しただけで、少しだけ肩が落ちた。

それでも、終わらない。


奈々。

「ねえ……さ。ちょっとだけ」

「もし“微妙”って言われたら、って思って」


佑真。

「さっき送ったやつ、見た?」

「……なんか、ちゃんと“入ってる”って分かると安心するじゃん」


Yui。

「二人とも、急かさないで」

「……というか、ほんとに寝て」


彼は返事を打って、短くした。

「大丈夫。いま詰めてる」

送信。


彼は返事を短くして、手を止めない。

止めた瞬間に、Yuiの質問が戻るから。

(……本音で話せてる?)

戻ってくる前に、次の項目へ。

“最低限”という言葉を、今度は消さなかった。

最低限。

最低限だけ。

そう書くと、少しだけ前に進めた。


Scene17 外に出す

一週間で終わる話じゃなかった。

二週間。

三週間。

平日の夜が削れて、週末が丸ごと消えていく。

机の上には、やることの紙が増えた。


増えて、減って、また増えた。

(……終わらない。)

終わらないのに、進んではいる。


彼は“公開”という言葉を、いくつかに割った。

入口。

説明。

同意。

削除。

問い合わせ。

運用。

戻す。

一つずつ。


ある夜。

利用規約の文章を、自分の言葉で書き直していた。

コピペだと分かる文を消して、短くして、また消す。

「分かりやすく」


それが一番むずかしい。

(……言葉が重い。)

書いているのに、誰とも話していない。

なのに、頭の中が疲れていく。


別の夜。

監視の画面を開いて、通知先を変える。


閾値を決める。

決めて、悩んで、また決める。

バックアップの時間をずらす。


保存先を確認する。

暗号化のチェックを入れる。


復旧手順を、紙に書く。

手順が一行でも抜けると、戻せない。

(……戻す。)

一度、わざと落としてみた。

戻してみた。

戻るまでの時間を測って、メモに書く。

五分。

七分。

九分。

その数字が、妙に怖い。


週末。

彼は“入口”を作った。

招待の期限。

回数。

権限。

勝手に増えないための境界。


境界を作るほど、外へ出す意味が薄くなる気がして、少しだけ虚しくなる。

(……でも。)

境界がないと、死ぬ。

高城の「“一応”で死ぬ」が、頭の中で鳴る。


その間も、通知は来る。

奈々の軽いスタンプ。

佑真の「こうしたら伸びる」。


彼は返事を短くする。

短くして、手を止めない。

止めた瞬間に、Yuiの問いが戻るから。

(……本音で話せてる?)


戻ってくる前に、次のチェックへ。


高城から、短い追いメッセージが来た日もあった。

「復旧、実際にやったか」

「やりました」

「“やった”だけじゃ足りない。手順に落としたか」

彼は手順書を開いて、行番号を振った。


言われるほどに、仕事っぽくなる。

仕事っぽくなるほど、怖くなる。


そして、ある夜。

彼はメモの上から、赤線を引いた。

規約。

同意。

削除。

境界。

監視。

バックアップ。

復旧。


全部に線が引けたわけじゃない。

でも、“最低限”の輪郭は見えていた。

(……最低限。)


最低限だけ。

それを口の中で繰り返して、指先を動かす。

画面の端に、小さな切り替えがある。

限定。

一般。

指先を置いて、止まる。

押した後の景色が、頭の中で並ぶ。


知らない問い合わせ。

削除依頼。

通報。

落ちる可能性。

戻す責任。


そして、高城の声。

「今のお前は、プログラムより先に落ちるぞ」


奈々の「言っちゃった」。

佑真の「いつ」。

Yuiの「戻れない」。


全部が、違う角度から同じ場所を押してくる。


彼は息を吐いた。


押す。

…4b……あ…の…2…何…を……67F─…く…だ…さ……11…わ……ない……


切り替わる。


送信。


何も起きなかった。


スマホは震えない。

机も鳴らない。


部屋の音だけが戻ってくる。


冷蔵庫の唸り。

秒針。

換気扇。


彼は画面を更新した。


もう一度。


数字は、動かない。


(……来ない。)


来なくて当然だ。


当然なのに、胸の奥が少しだけ軽くなる。


(……やりきった。)

その言葉が、喉のあたりまで上がってきて、下に落ちた。


軽くなるのと同時に、別のものが来る。

これから何が起きるか分からない、という感じ。


静かすぎて、怖い。


(……いつ通知が来る。)

来たら終わる、じゃない。

来ることが始まり。


それが分かっている。


彼は、奈々の顔を思い出して、いったん閉じた。

佑真の「いつ」を思い出して、いったん閉じた。


いま送ったら、たぶん喜ぶ。

たぶん、そのまま次が来る。


(……まだ。)

まだ、少しだけ、この静けさを持っていたかった。


YuiのDMだけを開く。

送信欄に短い文を打つ。


「DeepMap一般公開した」


送信。


すぐに返ってくる。

「よかった」


次に。

「これで、少しゆっくりできそうだね」


彼は画面を見たまま、笑いそうになって、止めた。


(……ゆっくり。)

ゆっくりできるわけがない。


でも、そう言ってくれるのが、ありがたい。

ありがたいのに、痛い。 


彼は短く返した。


「ありがとう。

少しだけ休む」


送信して、スマホを伏せた。


モニターの白に戻る。

数字は、まだ動かない。


動かないのに、胸の中だけがうるさい。


(……始まった。)

そう思ってしまった。


何も起きていないのに。

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