第2話 初めての「つながり」
Scene1 最初のDM
夜。
部屋の灯りは落としてある。
モニターの白だけが、机の上を照らしていた。
エアコンの風。
冷蔵庫の低い唸り。
壁時計の秒針。
部屋の音だけが、妙に整っている。
(……静かすぎる。)
彼はマウスを握り直し、
画面の端にあるボタンを押した。
ログの読み込み。
集計。
スコア化。
《Value Similarity List》
一覧が出る。
スクロールバーが、細い。
下が長い。
(……こんなに。)
画面の下のほうには、ずっと数字が続いていた。
70%台。
60%台。
50%台。
“似ている”と言えば似ている。
でも、
それはきっと、薄い。
どこかが少し重なっているだけの群れ。
彼は、ゆっくり上へ戻した。
上位だけが、別の色で表示されている。
90%。
91%。
92%。
93%。
十数人が、90%を越えて並んでいた。
(……ここだけ、違う。)
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
すぐに、冷える。
(……価値観、ね。)
辞書を引いた。
読んだ。
分からなかった。
抽象語が増えるだけだった。
(分かんないから、こうしたんだろ。)
行動ログに滲む“影”。
そこから価値観を見つける。
自分にとっては、そのほうがまだ手触りがある。
(この十数人に、送る。)
そこまでは決まった。
次が、決まらない。
彼は一番上のアカウントを開く。
プロフィール。
投稿。
反応。
(……近そう。)
そう思った瞬間に、
別の声が被さってくる。
(“近そう”って何だよ。
分かってないくせに。)
彼は入力欄を開いた。
カーソルが点滅する。
……何を書く。
「突然すみません」
消す。
「はじめまして。変なDMでごめんなさい」
消す。
(変って言うな。)
三行書く。
消す。
五行書く。
消す。
説明を増やすほど、怪しくなる。
削るほど、失礼になる。
(……無理だろ、これ。)
手が止まる。
指先が冷たい。
(返事が来なかったら。)
その先を考えないようにする。
考えると、送れなくなる。
(既読とか、付くのか?
……いや、分かんない。
分かんないほうが怖いか。)
怖い。
送っても怖い。
送らなくても怖い。
彼は短く書いた。
「突然すみません。
こういう“価値観の近い人”を探すみたいなものを試していて、
もしよければ少しだけ話せませんか。」
……止まる。
(価値観って言葉、気持ち悪い。)
でも、他に言い方がない。
「興味」だと軽い。
「考え方」だと嘘っぽい。
彼は文末だけ直す。
敬語の温度だけ変える。
二人目。
三人目。
途中から、
自分が何を書き直したのか分からなくなる。
(……何人に送るんだっけ。)
上位の十数人。
そこまでは分かる。
でも、
いまの自分は数えていない。
時計を見る。
深夜。
(……明日にしよう。)
そう思って、
スマホを伏せて、
五秒だけ黙る。
五秒のあいだに、
胸の奥の穴だけが、存在感を増す。
(……明日にしたら、送らない。)
分かっている。
こういうのは、
送らないまま終わる。
ずっと。
指先が、少し震える。
(怖い。)
怖いなら、考えるな。
考えたら止まる。
彼は一度だけ息を吐いて、
決める。
(……全部送っちゃえ。)
送信。
送信。
送信。
途中から、感情が追いつかない。
“怖い”の位置がどこかへ逃げて、
代わりに手だけが動く。
(……今だけ止まるな。)
最後の一人。
送信ボタンを押す。
画面の端に、小さく出る。
「送信しました」
その瞬間、
背中に汗がにじむ。
(……あ。)
(送ってしまった。)
部屋は静かだった。
通知音は鳴らない。
モニターの白と、
時計の秒針と、
彼の呼吸だけが残っていた。
Scene2 返事が来る
翌朝。
いつもと同じ天井。
いつもと同じ白。
なのに、
胸の奥だけが落ち着かない。
(……昨日、送った。)
スマホを探す。
画面を点ける。
何もない。
(……そりゃそうだ。)
分かっているのに、
もう一度点ける。
何もない。
(……待つな。)
待ってる時点で、負ける。
そう思って、
顔を洗って、
駅まで歩いて、
電車に乗って、
会社に着く。
世界はいつも通りだ。
信号の音も、車内広告も、誰かの咳も、全部いつも通り。
自分だけが、半歩ずれている。
午前。
会議。
チャット。
タスク。
画面の文字は読める。
手も動く。
でも、頭の隅に“別の窓”が開いたままだ。
(……来たら、どうする。)
来ないなら来ないでいい。
来たら来たで落ち着かない。
焦りだけが増える。
昼前。
スマホが震える。
(……)
DM。
文面が、いきなり質問だった。
「俺もプログラミングでシステムとか作ってるんだけど、
それ、どこまで自動で取れてる? 自分でラベル付けしてる?」
(……よし。)
反射で“よし”が出る。
自分の考えが、間違ってない気がする。
怖さはない。
ただ、嬉しい。
ただ、前に進める感じがする。
彼は自然に返す。
「あれは……技術的な話し、になるんだけど。」
そのまま、少しだけ具体を書く。
ログ。
重み付け。
今の精度。
どこが雑で、どこを直したいか。
打っているうちに、
指が軽くなる。
(……通じる。)
その感覚が、今はやけに気持ちいい。
昼休み。
もう一度、スマホが震える。
今度は、軽い温度の文だった。
「それ、面白そうじゃん。
何それ、どういうやつ?」
(……返ってきた。)
さっきとは違う嬉しさが来る。
技術じゃないところで返ってきた。
彼は、また長く返す。
止まらない。
自分がプログラマーで、
自作でツールを作っていること。
最近好きなもの。
昔から好きだったもの。
初めてDMしたこと。
“価値観が近い”と出たのが嬉しくて、
それを言いたくて仕方ない。
ゲームの名前も書く。
『Lattice Frontier(ラティス・フロンティア)』。
会社で誰もやってないこと。
話せる人がいないこと。
相手が反応していたのが嬉しかったこと。
送信。
送った瞬間に、我に返る。
(……俺、きもくないか。)
(長すぎないか。)
(初めてDMとか、重くないか。)
スマホを伏せて、
でもすぐまた点ける。
落ち着かない。
二日目。
三日目。
返信は他にもいくつか来た。
七人か、八人か。
そのへん。
でも、続かなかった。
一往復で終わる。
「面白いね」で止まる。
忙しいで終わる。
話題が合わないで薄くなる。
彼は、そのことを深く考えなかった。
考える余裕がない。
必死だった。
数日後。
生活は、表面だけ見れば変わらない。
仕事は同じ。
帰り道も同じ。
部屋も同じ。
なのに、
手の中だけが違う。
スマホに触れる回数が増えていた。
続いているのは、三人。
一人目は、佑真。
最初に返信してきた、プログラマーだ。
佑真とは、あれから何度もDMした。
ログの取り方。
重み付け。
最近のシステム構築の流れ。
モデルを使うか、使わないか。
技術の話ばかりなのに、
それが妙に楽だった。
(……通じる。)
二人目は、奈々。
IT会社の事務方。
でも、プログラムがまったく分からないわけじゃない。
奈々とは、ゲームの話が続いた。
『Lattice Frontier』の無課金コアファンで、
質問が細かい。
回答も細かい。
彼は質問を投げる。
奈々は答える。
奈々が質問を投げる。
彼が答える。
攻略というより、
“同じ沼にいる確認”みたいなやり取りだった。
三人目は、Yui。
Yuiとのやり取りは、一番印象的だった。
短い言葉なのに、
なぜか残る。
なぜ残るのか、まだ分からない。
(……この人は、ちょっと違う。)
そして、その夜。
彼は、YuiのDMを開いた。
Scene3 Yui
部屋の灯りは落としてある。
モニターの白だけが、机の上を照らしていた。
壁時計の秒針。
冷蔵庫の低い唸り。
エアコンの風。
全部いつも通り。
なのに、
手の中だけが違う。
同じ日に、二通返ってきた。
技術の話ができる相手。
ゲームの話ができる相手。
それだけで、
今日は勝った気になっていた。
スマホが震える。
三通目。
彼は反射で画面を開いて、
そのまま指が止まった。
名前。
Yui。
(……)
文は短い。
でも、目が離れない。
「急にごめん。
DM、読み返して、変に残った。
“価値観が近い人を探してる”っていうより、
今のままが嫌で、何か変えたい感じがした。
違ったらごめん。」
(……)
彼は、もう一度読む。
(……なんで、そんなことが分かる。)
分からない。
検討もつかない。
なのに、その一行だけが、
胸の奥を正確に押してくる。
彼は返信欄を開く。
カーソルが点滅する。
「違うよ」
……消す。
(違わない。)
「大丈夫」
……消す。
(大丈夫じゃない。)
…近×b1…不…認…文…=…偽…
指が止まる。
止まったまま、時計の秒針だけが進む。
(……どう返せばいい。)
佑真には技術で返した。
奈々にはゲームで返した。
それは楽だった。
安全だった。
でも、これは違う。
話題を変えて逃げたら、
この一行が、ずっと残る気がする。
彼は、ゆっくり打つ。
「急にごめん。
いまの文、読んで、ちょっと止まった。
なんでそう思ったのか、正直、分からない。
でも、たぶん……合ってる。
俺、最近ずっと、会話が薄いって感じてて。
職場でも、SNSでも、話してるのに、何も残らない。
その場は笑っても、家に帰ると、結局ひとりのままっていうか。
自分だけ、ずっと外にいるみたいで。
それが嫌で、しんどくて。
何でも話し合える仲間が欲しいって思った。
愚痴でも、くだらない話でも、ちゃんとした話でも。
言っても大丈夫な相手が欲しい。
そういうのって、俺にはずっと無い気がして。
だから、俺なりにやり方を作った。
行動のログなら、まだ手触りがある気がして。
見てるものとか、反応してるものとか、
そういうのを集めて、数字にして、近い人を探せないかなって。
“価値観”って言葉も、正直よく分からない。
辞書見ても、ふわっとしてて、腹が立って。
でも、行動には出るだろって思った。
同じものを見て、同じところで反応してるなら、
たぶん、近い。たぶん、話が続く。
仲間になれる。
そういう発想になった。
プログラマーだから、
こういう形にするのが一番早いと思った。
正しいかどうかは分からない。
でも、やらないよりマシだと思った。
DM送るの、初めて。
初めてって言うのも恥ずいけど、本当に初めてで。
送ったあと、何してんだ俺って思った。
きもいかなって思った。
長文で送った相手には、特に。
でも、送らなかったら、何も起きないのも分かってて。
今のままが嫌って思いながら、
何もしないで、また一週間終わるのが一番嫌で。
だから送った。
いまのままが嫌で、何か変えたい。
それだけは本当。」
送信。
送った瞬間に、
心臓が一拍遅れて鳴る。
(……重い。)
(……きもい。)
(……でも。)
スマホを伏せて、
また開く。
伏せて、
また開く。
数分。
震える。
Yuiからだった。
「読んだ。
長いのに、ちゃんと読んだ。
うまく言えないんだけど、
“価値観が近い人を探してる”って話より、
もっと別のところが先に来てる感じがした。
今のままが嫌、みたいな。
でも、私もそれを説明できない。
たぶん、あなたのやり方が間違ってるって言いたいんじゃなくて、
読んでて、ただ引っかかった。
引っかかったから、返した。
答えは分からない。
どうしたらいいとかも、言えない。
でも、聞くことならできる。
いま一番きついのって、どこ?
仕事の中?
人の中?
それとも、帰ったあと?
変な言い方になってたらごめん。
私、こういうの、上手く言えない。」
彼は、しばらく画面を見たまま動けなかった。
言葉は少ない。
でも、胸の奥に落ちる。
落ちた。
(……そう、なのか。)
でも、
“そう”が何なのかは分からない。
分からないのに、
分かった気になりそうで怖い。
彼は返信欄を開く。
何か書こうとして、
指が止まる。
説明しようとすると、嘘になる。
深く言おうとすると、言葉が出てこない。
(……今、これ以上書いたら、
たぶん、変になる。)
彼は、短く打った。
「ありがとう。」
送信。
それだけ。
すぐにスマホを伏せる。
でも、胸の奥の落ち着かなさだけが残る。
少しして、また震える。
Yuiからだった。
「……うん。
よかった。
ごめん、変なこと言ったかなって思ってた。」
(……)
彼は、画面を見て、何も返せなかった。
何も返せないまま、
部屋の秒針だけが進む。
モニターの白が、机を照らしている。
同じ夜。
佑真からはまた技術の質問が来る。
奈々からはゲームの話が来る。
そこには返せる。
返しやすい。
でも、Yuiには返せない。
(……なんでだ。)
分からないまま、
彼はスマホを握り直した。
Scene4 同じ箱
夜。
部屋の灯りは落としてある。
モニターの白だけが、机の上を照らしていた。
壁時計の秒針。
冷蔵庫の低い唸り。
エアコンの風。
全部いつも通り。
なのに、
今日は少しだけ違う。
通知が来る。
返事がある。
佑真の質問。
奈々の軽いノリ。
Yuiの短い文。
それが、彼の中で同じ重さになっていた。
(……三人もいる。)
三人。
たった三人。
でも、彼にとっては“もう三人”だ。
(……これ、いける。)
いける、が先に出る。
何がいけるのかは、まだ曖昧なのに。
個別のDMは散る。
同じ話を何回も書く。
誰に何を言ったか分からなくなる。
(……まとめたい。)
そこで、もう一つ、都合のいい確信が出てくる。
(“価値観が近い”って出たんだ。)
(ってことは、俺だけじゃなくて。)
(この三人同士でも、たぶん話が合う。)
合うはず。
(……じゃあ、チャットルームでいいか。)
彼はブラウザを開く。
自分のローカルの画面。
黒い背景に、白い文字。
まだ未熟な、自分専用のツール。
そこに、機能を一つ足す。
“似てる人”をリスト化した。
次は、その人たちと話せる場所がいる。
(……必要だろ。)
必要。
そう思った時点で、もう手が動く。
彼はエディタを開く。
新しいファイル。
新しいテーブル。
Room。
Member。
Message。
雑に作る。
今は綺麗じゃなくていい。
動けばいい。
(……名前。)
「chat_room」
(……それでいい。)
考えない。
考えると止まる。
招待リンクみたいなものを吐かせて、
DMに貼るための短い文を作った。
「急にごめん。チャットルーム作った。
“価値観が近い”って出た三人で、ここで話せたらと思って。
リンクここ。」
送る相手は三人。
佑真。
奈々。
Yui。
最後のところで、一拍だけ止まる。
(……いいよな。)
許可は取っていない。
でも、今さら聞くのも変だ。
変だと思っているのに、
作ってしまった。
送信。
送った瞬間に、背中に汗がにじむ。
(……勝手すぎたか。)
でも、取り消せない。
すぐに反応が来る。
佑真。
「自前で部屋作ったの草。
いいじゃん。ログの仕様、ここで詰めよう。
データ構造、貼って」
彼は小さく息を吐いた。
次。
奈々。
「え、チャットルームw
ラティスの質問していい?
今イベントの『氷原の黎明祭』、無課金だと無理じゃない?」
画面の端で、通知が重なる。
次。
Yui。
少しだけ、間が空いた。
通知が来る。
「リンク開けた。
うん、ここでも大丈夫。」
短い。
それだけ。
彼は三つの返事を眺めて、
それだけで安心してしまう。
同じ部屋にいる。
同じ文字を見ている。
だから、大丈夫。
彼は勢いのまま打つ。
「じゃあ、まず俺のツールの話していい?
価値観の近さって、今は行動ログから出してて——」
送信。
壁時計の秒針が進む。
モニターの白が、机を照らしている。
チャットルームの画面だけが、
静かに動き始めた。
Scene5 使ってみたい
夜。
モニターの白が、机の端を冷たく照らしていた。
チャットルームは動いている。
佑真の発言で流れが変わる。
奈々のスタンプで空気が軽くなる。
Yuiは短い文で、時々だけ割り込む。
彼は、それをひとまとめに“回ってる”と思った。
佑真が言った。
「これさ、俺も使ってみたいんだけど」
彼は一瞬、止まる。
(……使う。)
自分専用のつもりだった。
ログは自分のだけ。
自分の癖だけ。
でも、いま目の前に“使いたい”がある。
彼はすぐ返した。
「今は俺のログ前提で作ってる。
人のを入れる想定、まだない」
佑真はすぐに返す。
「じゃあ、そこ作ろう。
今のって“自分の順位付け”でしょ?
他人が入ってきたら、ちゃんと“マッチング”にしないと」
(……マッチング。)
その言葉が、妙にしっくり来た。
彼の中では、まだ“近い人の一覧”だった。
佑真は続ける。
「誰が誰とどれくらい近いか、スコアで出す。
閾値も決める。
上位何人、とか。
そうしないと、後で比較できない」
彼は、画面を見ながら息を吐いた。
(……比較。)
比較できる、という言葉は強い。
奈々が入ってくる。
「え、マッチングって、恋愛アプリみたいw
でも、こういうの詳しい人の生の声、聞ける?
ラティスのイベントの話とかさ。
会社、誰もやってないんだよね」
彼は少し笑いそうになる。
(……求められてる。)
そう思うほうへ、気持ちが傾く。
「じゃ、入れられるようにする。
形式合わせないと無理だから……テンプレ作る」
言った瞬間、もう手が動いていた。
ブラウザを閉じて、エディタを開く。
まだ未熟な自分のツール。
そこに、入口を足す。
ログの形式を決める。
timestamp
action
target
最低限。
動けばいい。
CSVのテンプレを吐く。
ダウンロードのボタンを付ける。
画面の端で、チャットが動く。
Yui。
「みんなが使えるようにするんだ。
……あなたは、それで本当にいいの?」
(……)
彼は一瞬だけ止まる。
“本当にいいの”。
何が。
何に対して。
深く考えようとして、
でも考えると止まる。
彼は短く返す。
「いい。
むしろ、それがいい」
送信。
自分でも、答えが速すぎると思った。
でも、速く答えたかった。
佑真が続ける。
「で、マッチングなら、反応全部同じ扱いはやめたほうがいい。
“見ただけ”と“保存した”って同じじゃないじゃん」
彼は背筋を少し伸ばした。
(……来た。)
「今は同じ。
まだ雑」
「もったいない。
重み付けしよう。
保存=3、完走=2、いいね=1、閲覧=0.2とか。
あと“みんなが踏むやつ”は軽く。
流行り踏むだけで近くなる」
返事を打たない。
エディタに戻る。
actionごとの重みテーブル。
“マッチングスコア”の関数。
出力は0〜1の値。
(……スコアで出す。)
佑真の言葉が、そのまま形になる。
奈々が言う。
「ラティスで言うと、
“周回した回数”が重いってこと?
一回触っただけと、毎日やってるのは違う、みたいな」
彼はチャットに戻って打つ。
「そうそう。まさにそれ」
数秒。
画面に新しい一覧が出る。
上位が少し入れ替わる。
“近い”が、少しだけ別の並びになる。
彼はその変化に見入った。
(……動いた。)
数字が動く。
世界が動く。
彼はチャットルームに戻って投げた。
「入口つけた。テンプレ吐ける。
佑真、貼れる範囲でいいから一回入れてみて。
あと、マッチング、スコアで出るようにした。
重み付けも入れた」
佑真が返す。
「いいね。
その“マッチング”って分かるようにしといて。
後で比較したい」
彼は一瞬だけ止まって、
でもすぐ打った。
「了解。分かるようにしとく」
奈々。
「テンプレって、私もやったほうがいい?
ラティスの話できれば満足なんだけどw
とりあえず今イベント『氷原の黎明祭』、無課金だとどこまでいける?」
彼はリンクを投げた。
「ここ。
timestampとactionだけでも回る。
で、氷原の黎明祭は——」
打ちながら、胸の奥が少しだけ温かい。
(……回ってる。)
その感覚だけで、今は十分だった。
Yuiは短く。
「……うん。
無理しないでね」
その言葉に、返事を作ろうとして、
彼は止まった。
止まって、
でも、結局短く返す。
「大丈夫。今、楽しい」
送信。
モニターの白が、机を照らしている。
彼はキーボードに手を置いたまま、
画面の“matching”の文字を見た。
その名前が付いた瞬間、
これは少しだけ、彼の手を離れた気がした。
Scene6 少しだけ、前に出る
翌日。
朝の電車はいつも通り混んでいる。
つり革を掴む手。
スマホを見下ろす首。
広告の白。
全部いつも通り。
なのに、
頭の中だけが違う。
(……マッチング。)
昨日、佑真が言った言葉。
あの一言で、形が決まった。
“近い人の一覧”じゃなくて、
“マッチング”。
名前が付くと、やることも増える。
増えるのに、嫌じゃない。
会社に着いて、椅子に座って、
仕事の画面を開く。
その裏で、
もう一つの画面も開く。
ローカルのツール。
黒い背景。
白い文字。
(……今日も少しだけ。)
少しだけのつもりで触って、
いつも少しだけじゃ終わらない。
昼。
チャットルームに通知が溜まっている。
佑真。
「テンプレ入れた。
で、俺のスコア、誰が近い?」
Yui。
短い。
「昨日、寝れた?」
彼は、まず佑真に返す。
「今出す。
スコア、上位は——」
結果を貼る。
番号。
パーセント。
佑真がすぐに返す。
「おお。
これ、俺のほうから見たときも同じ順?
対称になってる?
なら、距離関数それっぽい」
彼は嬉しくなる。
(……それっぽい。)
それっぽい、が欲しかった。
次に、奈々からも通知が来る。
奈々。
「待って、このマッチングすごくない?
私と相性いい人、みんなラティスの話してるんだけどw
さすが、あなた、天才すぎない?」
彼は嬉しくなる。
(……天才、か。)
悪い気はしない。
むしろ、その言葉だけで胸の奥が温かくなる。
彼は返す。
「たまたまだよ。
でも、うまく動いてるならよかった」
送信。
その直後。
佑真からの反応が、すぐには来ない。
数秒。
何も来ない時間が、ほんの少し長く感じる。
そして、短い文が届く。
「……まあ、ロジックは俺が言った通りだしな。
次、閾値決めよう。」
(……)
彼は、そこで少しだけ止まった。
でも、止まったのは一瞬だった。
(……次がある。)
次。
改良。
前進。
佑真の「次」は、彼にとって安心でもある。
彼はすぐ返す。
「了解。
90%以上だけ表示、とかにする?」
佑真。
「それ。
あと、“何が似てるか”も出せ。
根拠がないと信用しづらい」
(……根拠。)
根拠。
それは、彼の得意な言葉だ。
彼は打つ。
「根拠表示、やる。
似てる行動トップ5とか出す」
送信。
最後に、Yui。
「昨日、寝れた?」
彼は返事を打って止まる。
寝れたか。
昨日は、寝れなかった。
指が勝手に動いて、結局夜更かしした。
でも、それを言うのは少しだけ怖い。
怖い理由は分からない。
彼は短く返した。
「少し。
でも平気」
送信。
返した瞬間に、胸が少しだけざわつく。
(……平気、じゃない。)
そう思ったのに、
もう画面はエディタへ戻っていた。
根拠表示。
似てる行動トップ5。
“マッチング”を、もっとそれっぽくする。
それを作れば、
仲間が増える。
仲間が増えれば、
何でも話せる相手ができる。
そう思うと、止まれない。
少しして、また短い文が来る。
Yui。
「……無理してない?」
(……)
彼は、その文を見て、
返事を作れなかった。
作れないまま、
指はキーボードに触れている。
窓の外。
昼の光。
いつもと同じ街。
その下で、
小さな画面だけが、静かに進んでいく。
チャットルームも、
コードも、
彼の気持ちも。
Scene7 名前が付く
その週の終わり。
仕事は相変わらずだった。
会議は長い。
タスクは減らない。
でも、通知だけは違った。
昼休みでも、帰り道でも、
スマホが震える。
名前が流れていく。
短い文が積み上がっていく。
(……増えてる。)
返事をしなきゃいけないのに、
嫌じゃない。
むしろ、落ち着く。
(……誰かがいる。)
部屋に戻る足が、昨日より軽い。
夜。
部屋の灯りは落としてある。
モニターの白だけが、机の上を照らしていた。
チャットルームにも通知が溜まっている。
佑真。
「根拠表示、できた?
“近い理由”が見えないと、マッチングっぽくない」
奈々。
「ねえ、天才、今日も動いた?w
私の相性上位、全員ラティス民で笑うんだけど」
Yui。
短い。
「みんなが使えるように作り替えるの?
それ、今よりもっと大変になるけど……大丈夫?」
(……)
彼は、その文を見て止まる。
“大変”。
大変なのは分かっている。
でも、それより先に来るものがある。
(……みんなが使える。)
その言葉が、胸の奥を温かくする。
(……それでいい。)
彼は短く返す。
「大丈夫。
むしろ、そうしたい」
送信。
返した瞬間に、少しだけ胸が軽くなる。
軽くなるのに、落ち着かない。
理由は分からない。
彼はまず、佑真に返す。
「根拠、出せるようにした。
似てる行動トップ5、表示できる」
すぐに画像を貼る。
スコア。
似てる行動。
頻度。
佑真。
「いいね。
これで“マッチング”って言える。
閾値は? 90以上だけ表示、とか、決めよう」
(……決めよう。)
言い方が、ちゃんとしている。
強くはない。
でも、はっきりしている。
彼は返す。
「90以上は“強い”、80台は“弱い”で分ける。
表示も分ける」
奈々がすぐに乗る。
「え、じゃあ私の“強い”人、また増える?w」
彼は短く返す。
「増える。たぶん」
奈々。
「たぶん大好きw」
画面の向こうで笑ってる顔が、勝手に浮かぶ。
(……回ってる。)
回ってる。
それだけで、胸の奥が埋まっていく気がする。
佑真が続ける。
「“みんなが踏むやつ”の扱い、もう少し詰めたい。
流行りで近くなるのはノイズになりやすいから。
係数で調整できると助かると思う」
(……係数。)
佑真の言い方は丁寧だ。
助かる、と思う。
彼は頷きながら打つ。
「係数、出す。
ただ、最初は固定で回して感触見る。
崩れたらつまみで戻す」
奈々。
「係数って何w
なんか急に理系すぎw」
彼は笑いそうになって返す。
「つまみ。
近くなりやすさを弱めたり強めたりするやつ」
奈々。
「つまみw それなら分かるw」
Yuiの文が、少し前の位置に残っている。
「みんなが使えるように作り替えるの?
それ、今よりもっと大変になるけど……大丈夫?」
彼はもう返した。
「大丈夫。むしろ、そうしたい」
でも、そのやり取りだけが、どこか浮いている。
浮いているのに、
彼は浮いている理由が分からない。
(……大丈夫。)
そう言い切ったほうが、前に進める。
彼はエディタを開く。
閾値。
表示の分岐。
係数。
やることは増える。
増えるのに、嫌じゃない。
むしろ、嬉しい。
(……増えてる。)
“やること”も、“話す相手”も。
画面の端で通知がまた増える。
チャットルームの外からも、短い文が流れていく。
彼は一つ一つは追わない。
でも、流れているだけで、落ち着く。
(……誰かがいる。)
その感覚を、手放したくなかった。
佑真の提案メモを横目で見る。
保存=3、完走=2、いいね=1、閲覧=0.2。
“みんなが踏むやつは軽く”。
(……全部は、そのまま使えない。)
直感で分かる。
誤差じゃない。
ずれる。
でも、佑真にそれを言葉で返すのは面倒だった。
面倒、というより——
いまは、壊したくない。
(……動かしたい。)
彼は、提案の一部だけを拾って、
残りは手元で静かに作り替えた。
数字の丸め方。
頻度の扱い。
重みの下限。
“係数”は残す。
でも、中身は少し違う。
(……これでいい。)
この「これでいい」は、誰にも説明しない。
説明するより先に、結果が欲しい。
しばらくして、チャットルームに戻る。
奈々がまた書き込んでいる。
「ねえねえ、
マッチングで出た人に、もう話しかけた?w
ラティス民だったら絶対盛り上がるじゃん」
佑真。
「上位十数人いるなら、まず“強い”だけでいいと思う。
閾値固めてから広げた方が、ブレない」
(……広げる。)
広げる。
その言葉が、胸の奥を押す。
彼は返す。
「90以上だけ、まず送る。
テンプレも同時に出す。
形が崩れないようにする」
佑真。
「いいね。
あと、マッチングの定義、メモっとこう。
後で話がズレると面倒だし」
(……話がズレる。)
その言い方は、現実的だった。
彼は短く返す。
「了解」
佑真からスタンプが来る。 親指を立てた、信頼のサイン。
それを見て、少しだけ胸が痛む……こともなく、次の画面に移る。
ふと、フォルダ名が目に入る。
tool
tmp
match_test
全部、仮のまま。
(……名前。)
これには名前がない。
チャットルームもある。
テンプレもある。
マッチングもある。
なのに、名前だけがない。
名前がないままだと、
どこかで手が止まる。
奈々の「天才すぎない?」を思い出す。
佑真の「定義、メモっとこう」を思い出す。
Yuiの「大変になるけど大丈夫?」を思い出す。
(……大丈夫。)
その言葉を、もう一度自分に向けて言う。
彼はカーソルを移動して、
リポジトリ名を打ち直す欄を開いた。
(……何て呼ぶ。)
“価値観”は、まだ気持ち悪い。
ふわふわしている。
でも、やってることははっきりしている。
見てるもの。
触ってるもの。
反応してるもの。
そういう“深いところ”の痕跡を集めて、
並べて、
地図みたいにする。
表の会話じゃない。
その下の動き。
(……深い、地図。)
深い。
地図。
指が止まらない。
DeepMap
打った瞬間、
画面の文字が少しだけ重く見えた。
(……DeepMap。)
保存する。
保存しただけなのに、
胸の奥が少しだけ落ち着く。
名前が付いた。
名前が付くと、
それはもう“気分”じゃなくなる。
(……続ける。)
彼はチャットルームに戻って、短く打った。
「一回、名前付けた。
DeepMapって呼ぶ」
返事が来る。
奈々。
「え、かっこよw
ディープマップ!
なんかそれっぽいw」
佑真。
「いいじゃん。
機能的にも合ってる。
じゃ、DeepMapの仕様、軽くまとめよう。
閾値と根拠の定義、今のうちに固めたい」
Yui。
少し遅れて、短い。
「……名前が付いたね」
(……付いた。)
彼は画面を見たまま、息を吐いた。
名前が付いた。
それだけで、
この一週間が一つの形になった気がした。
スマホが震える。
チャットルームの外でも、通知が増えている。
彼はそれを見て、少しだけ笑う。
(……増えてる。)
仲間が。
そう思ったまま、
彼はまたキーボードに手を置いた。
次を作る。
DeepMapを、もう少しだけ前に出す。
その指先の熱だけが、
いまは確かだった。
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