第十八章 継項

大学の図書館は、夕方になると人がまばらになる。

古い蛍光灯の光の下で、総一は一冊の本を開いたまま、しばらく頁をめくれずにいた。


紙は黄ばみ、活字も今のものより角ばっている。

物語なのか、記録なのか。

その境目が、ひどく曖昧な文章だった。


――今日もまた、廓の夜は更けていく。


胸の奥が、ふとざわつく。

理由は分からない。

ただ、この一文を「知っている」気がした。


その下、余白に鉛筆の文字がある。


ここで筆を置く。

それでも、待つ人がいると信じたい。


総一は指先で、その文字をなぞった。


「……総一」


署名のように記された名前を、

無意識のうちに声に出していた。


「それ、難しそうな本ですね」


声に顔を上げると、

ノートと講義書を何冊か持った女子学生が立っていた。


見覚えのないはずの顔。

それなのに、どこか懐かしい。


「古本屋で買ったんです」


そう答えると、彼女は小さくうなずいた。


「……うち、実家が古本屋なんです。

その本、普段は誰も見ない棚にありました」


そう言って、彼女は総一の手元の頁に目を落とす。

そして、ほんの一瞬、息を止めた。


「その余白……」


彼女の視線は、鉛筆の文字に吸い寄せられている。


「知ってる?」

総一が尋ねると、彼女は首を横に振った。


「いいえ。でも……」


言葉を探すように一拍置き、続けた。


「なぜか、その人が

ちゃんと“帰る場所”を探していた気がして」


総一は何も言えなかった。


頁の奥から、

瓦礫の匂いと、咳き込む気配と、

胸に抱えられた一冊の重みが、

理由もなく押し寄せてくる。


彼女は、静かに微笑んだ。


「私、悠って言います」


その名を聞いた瞬間、

総一の指が、頁の端を強く掴んだ。


言葉にしなくても、分かってしまった。

この本は、ここで終わるために在ったのではない。


受け取るために。

そして、また手渡すために。


本の中で、静かに頁が鳴る。


――今日もまた、廓の夜は更けていく。


けれど今度は、

夜の向こうに、確かに朝があると、

総一ははじめて感じていた。

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