第十七章 預本

桜の花びらが、すっかり散りきった頃。

家を出た。


軍服は、もう着ていない。

それでも歩き方だけは、どこか昔のままだ。


街角の小さな古本屋に立ち寄る。

看板は新しく、棚も低い。

けれど、紙の匂いだけは変わらない。


「すみません」


声をかけると、奥から若い女店主が顔を出した。

まだ二十にも満たないだろう。


俺は包んでいた布をほどき、

一冊の本を差し出す。


「この本を……預かってもらえませんか」


店主は少し驚いたように表紙を見る。


「売る、ということですか?」


俺は首を横に振る。


「いいえ。

 ――待っている人がいるかもしれないので」


その言葉が、どこから来たのかは分からない。

ただ、そう言うべきだと、思った。


店主はしばらく考え、

やがて、静かにうなずいた。


「わかりました。

 ちゃんと、残します」


本は、棚の一番奥に置かれた。

手に取る人が少なくても、

消えない場所へ。


外に出ると、風が吹いた。

桜はもうない。

けれど、空は不思議と明るい。


歩き出しながら、ふと振り返る。


ガラス越しに見えた棚の片隅で、

あの本は、静かに待っていた。


――今日もまた、廓の夜は更けていく。


どこからともなく、

そんな声が聞こえた気がして、

俺は歩みを止めず、その場を離れた。

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