第十六話 記憶
砲声が、遠ざかった。
完全に静まり返ったわけではない。
けれど確かに――ひとつの戦が終わったのだと、誰もが感じていた。
塹壕の端に腰を下ろし、俺は軍服の内側から一冊の本を取り出した。
父が渡してくれた、あの本だ。
「……読め」
出征の前夜、父はそれだけ言った。
理由も、説明もなかった。
表紙は古く、角は丸い。
何度も開かれた痕がある。
それなのに、なぜか不思議と――怖くはなかった。
ページをめくる。
そこに書かれていたのは、遠い昔の、さらに遠い誰かの物語だった。
廓の夜。
薄暗い灯。
名を呼ばれぬまま、心を交わした男女。
不思議なことに、戦場の冷たい土の匂いと、その文字列が、どこかで重なった。
「……おゆう」
知らないはずの名を、俺は小さく口にしていた。
仲間の一人が、こちらを振り返る。
「なんだ、それ」
「父の本だ」
それ以上は、言えなかった。
読んでいる間、不思議と、人を撃つことを考えずにいられた。
生き延びるために手を動かしながらも、心のどこかで、“別の時間”に身を置けた。
父も、そうだったのだろうか。
戦が終わり、帰還の命が下ったとき、
俺は無意識に、本を胸に押し当てていた。
――生きて帰る。
そう、思った。
⸻
桜は、まだ咲いていた。
駅に降り立った瞬間、見覚えのある風景と、そうでないものが混ざり合う。
家の門をくぐると、庭の縁側に見慣れた影があった。
……いや。
それは、もう“記憶の中の姿”だった。
机の上には、一冊の本が置いてある。
父が、最後まで手放さなかったもの。
俺は、その横に、そっと一冊を置いた。
「……帰ったよ、父さん」
風が吹く。
桜の花びらが、二冊の本の上に、静かに落ちた。
目を閉じ、深呼吸をする。
過去も、別れも、祈りも、すべてこの二冊に残っている。
守りたいもの、忘れたくないもの――
それは、確かに、ここにある。
そしていつか、また誰かの手に渡るだろう。
その時には、あの少女の記憶も、そっと生き返るに違いない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます