第十五章 追送

第十五章(桜の記憶)


老いた爽太は縁側に腰を下ろし、ゆっくりと一冊の本を開いた。

いや、正確には――二冊だった。


並べて置かれたその本は、どちらも古び、角は丸く、紙は黄ばんでいる。

幾度も開かれ、幾度も閉じられてきた痕跡が、そのまま年月の重さを語っていた。


庭先では桜が静かに散る。

風に乗った花びらが、縁側にひとひら、またひとひらと舞い落ちた。


「……今年も、咲いたな」


小さく呟く声はかすれ、彼自身もそれほど長くはないことを悟っていた。


若い頃、爽太もまた戦地に立った。

人が人を壊す光景を嫌というほど見た。

医師として救える命もあったが、救えなかった命の方がずっと多かった。


それでも――

ほんのわずかな、砲声が止んだ時間。

夜明け前の静寂の中で、彼は胸に忍ばせたあの本を開いた。


活字を追いながら、ふと浮かぶのは、決まって同じ顔だった。

瓦礫の中で咳き込みながら、それでも本を抱きしめていた少女。

笑うと少し困ったような目をする、あの人――優子。


ページをめくる指が自然と止まる。

そこには、あの文字があった。


――おゆう。


祖母の文字。

いや、もっと遠い時間から受け継がれた、確かな痕跡。


「……ちゃんと、持っているよ」


誰にともなく、そう告げる。


そのとき――


「父さん」


背後から、低く若い声がした。


振り返ると、そこに立っていたのは息子だった。

軍服がよく似合い、かつての自分と重なって見えるほどに。


心配そうな目がこちらを見ている。


爽太はふっと微笑んだ。

もう、取り繕う力も残っていない。


「……大丈夫だ。少し、昔を読んでいただけだよ」


本をそっと閉じ、二冊とも丁寧に重ねる。


妻を失い、そして今、息子までも戦地へ送り出すことになるとは――

若い頃の自分は思いもしなかった。


それでも。


この本だけは、ずっと残っている。

人の残酷さも、優しさも、別れも、祈りも――すべてを抱えたまま。


桜の花びらが、もう一枚、二冊の本の上に落ちた。

爽太はそれを払わず、ただ見つめていた。


――いつか、また誰かの手に渡るだろう。

――そして、また読まれる。


それでいい。


そう思いながら、老いた医師は静かに目を閉じた。

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