第十三章 託
瓦礫の片付けもひと段落し、あの場所へ足を運ぶ理由は、いつの間にか薄れていた。
気づけば、あの街角を通ることも少なくなっている。
それでも、ある日ふと思い立ち、久しぶりにカフェーの扉を押した。
以前と変わらない、簡素な店内。
けれど、探していたあの姿は、そこにはなかった。
給仕の少女が水を運んできたのを見計らい、何気ないふりで尋ねる。
「あの……ここで働いていた人は?」
少女は少し困ったような顔で答えた。
「体を悪くして、しばらく家にこもっているそうです」
胸の奥がひやりと冷えた。
理由を聞くまでもなく、嫌な予感が広がる。
その足で、教えられた家を訪ねた。
控えめに戸を叩くと、出てきた家人が事情を話してくれた。
「労咳です」
淡々とした声だった。
だが、その続きは重く胸に沈んだ。
「本人には、まだはっきりとは伝えていません。でも……おそらく、もう長くはありません」
言葉を失った。
助ける術を学んでいるはずの自分が、目の前の一人さえ救えない。
その事実が、胸を締めつける。
部屋へ通されると、そこには以前とは別人のような優子がいた。
頬はこけ、肩は小さく、呼吸も浅い。
それでも、こちらに気づくと、静かに微笑んだ。
「来てくれたのね」
それだけで、言葉が出なくなった。
それから、ほとんど毎日、彼女を見舞うようになった。
話すことは些細なことばかり。
外の様子、本の話、カフェーのこと。
未来の話は、誰も口にしない。
日を追うごとに、彼女の体は弱っていく。
その傍らで、自分の無力さだけがはっきりしていった。
救いたいと思うほど、何もできない現実が突きつけられる。
ある日、優子が枕元に置かれた包みを指さした。
「お願いがあるの」
包みの中には、祖母が大切にしていたあの本があった。
「これを……預かってほしいの」
戸惑うこちらを見て、彼女は静かに続けた。
「大事な本なの。ずっと、誰かを待っているみたいな本だから」
それが何を意味するのか、言葉にしなくても分かった。
引き受けることは、託されること。
そして、別れを受け入れることでもある。
「……分かった」
そう答える声は、思ったより低く、震えていた。
本を受け取った手の重みが、胸に残る。
守れなかったもの、救えなかった命。
それでも、託された想いだけは、手放してはいけない気がした。
優子は、安心したように目を閉じた。
その表情は、どこか穏やかで、少しだけ寂しそうだった。
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