第十二章 灯影
カフェーの仕事がひと段落すると、優子はようやく息をついた。
震災のあと、店は完全には直っていない。
机も椅子もまばらで、出せるものは簡単な飲み物と軽い菓子だけ。それでも、人が集まる場所があるというだけで、この街では貴重だった。
「優子、無理しないでね」
店の奥から声がかかる。
心配してくれているのは分かるけれど、どこか距離がある。
「はい、大丈夫です」
そう答えながらも、胸の奥では別のことを考えていた。
――さっき、いた。
瓦礫の中で出会った、あの学生。
顔を上げた瞬間、胸がひくりと鳴った。
けれど、声をかけることはできない。
ここでは、私は給仕で、相手は客。
養女として引き取られた今の立場で、知り合いのように話すわけにはいかない。
知らないふりをして、視線を合わせないように、ただ仕事に集中するふりをした。
それでも、不思議なことに、その存在だけははっきりと分かった。
仲間と話しながらも、時折こちらを見ている。
直接ではなく、確かめるような控えめな視線。
――心配、しているのかな。
そう思った途端、胸の奥が少し温かくなる。
考えるはずもないのに、考えてしまう。
仕事を終え、ふと外を見ると、もう彼の姿はなかった。
お客を送るため外に出ると、通りの向こうの街灯の影に一人立つ人影が見える。
こちらを見ているようだった。
――彼かしら?
優子は、思わず小さく微笑んだ。
理由は分からない。
ただ、瓦礫の中で交わした言葉が、ここにつながっている気がした。
やがて、その人影は夜の街に溶けるように消えた。
「……変なの」
微笑みながらそう呟き、胸に手を当てる。
まだ寒さが残り、肺の奥に凛とした空気が突き刺さった。
今日も、祖母の大切にしていた本は部屋で静かに眠っている。
あの本と同じように、言葉にできない何かが、確かにここにある。
外は夜風が冷たい。
けれど心の奥には、昼間の瓦礫よりも、少し柔らかいものが残っていた。
――また、会うのだろうか。
そう思いながら、優子は灯りを落とし、店の中へ入っていった。
⸻
学生仲間に誘われて入ったカフェーは、震災の爪痕がまだ色濃く残っていた。
壁には修繕の跡があり、机や椅子も揃っていない。
出されるものは簡単な飲み物だけだが、こうして腰を落ち着けられる場所があるだけでも、ありがたい時代だった。
「今日はここにしよう」
周りを見回した仲間の声に、無意識に頷く。
席につき、何気なく店内を見回した、そのときだった。
――いた。
給仕として働く少女の姿が、視界に入る。
昼間、瓦礫の中で会った、あの娘だ。
一瞬、言葉を失った。
声をかけるべきか迷う間もなく、彼女は視線を落とし、何事もなかったように仕事を続けている。
……気づいている。
そう確信した。
それでも、互いに何も言わない。
ここでは自分は客で、彼女は給仕だ。
それ以上でも、それ以下でもないふりをするしかなかった。
仲間の話に相槌を打ちながらも、意識はどうしても彼女に向いてしまう。
細い腕で盆を支える仕草。
時折、咳をこらえるように口元を押さえる様子。
昼間よりは落ち着いて見えるが、無理をしているのが分かる。
――働かなくてはいけない事情があるんだろう。
そう思うと、胸の奥が落ち着かなくなる。
目が合わないように、あえて視線を外す。
それでも、ふとした瞬間に、また追ってしまう。
自分でも情けないほどだ。
彼女は、こちらを見ない。
ただ、知らない人として、淡々と仕事をこなしている。
……それが、正しい。
分かっている。
分かっているのに、なぜか落ち着かない。
やがて仲間が席を立つ。
「そろそろでるか。」
仲間と一緒に店を後にした。
ただ外に出ても、足がすぐには動かなかった。
寒さがまだ感じられる。
街灯の下、しばらく店の方を見る。
彼女は客に笑顔を向けている。
さっきまでより、少し柔らかい表情だ。
それを見た瞬間、胸の奥が静かにほどけた。
……大丈夫そうだ。
それだけで、十分だった。
声をかけなくても、言葉を交わさなくても。
踵を返し、夜の街を歩き出す。
瓦礫の影が伸びる道を進みながら、昼間の出来事と、今の笑顔が、何度も頭に浮かんだ。
――また、会うことになる気がする。
理由は分からない。
ただ、あの本のように、簡単には手放せない予感だけが、胸に残っていた。
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