第四章 余情



ある日の午後、店に総一郎が現れた。

背筋を伸ばした制服姿には、どこか影がある。

表情はいつもより硬く、わずかに疲れも見える。


「今日はお願いがあってきたんだ。」


小さく微笑みながらも、声には重みがあった。

わたしは、思わず息をのみ込む。


「はい……なんでしょうか?」


彼は少し迷ったあと、手元の本を見つめる。

そして、いつもの毅然とした表情ではなく、柔らかい微笑みを見せた。


「しばらくここを長く離れることになったから、……一冊だけ、選んでくれないか」


その微笑みに、わたしは何かを察した。

自然に頷き、手渡した本。

彼は静かに受け取り、その指先の温もりが胸にじんわりと残った。


「本を読めば、少しは気がまぎれると思って……」


制服姿の総一郎からは想像もつかない、切なくもやさしい表情に、わたしの胸はぎゅっと締め付けられた。


わたしはうなずくしかなかった。

言葉にはしなかったけれど、互いに惹かれていることは、まだ気づいていない。


扉が閉まると、店内には静けさが戻る。

扉の向こうに消えた総一郎の背中を思い出すと、胸の奥にぽっかり穴が空いたような不安が広がった。


あの日、総一郎に渡した本は、わたしの手の中にあった一冊だった。

でも、何ヶ月経っても、彼も本も戻ってこない。


戦争は終わり、戦地から帰ってきた人々で街は賑わっていた。

だけどわたしにとっては、総一郎がいない日常は、何も変わらないままだった。


静かな店で、わたしは本を手に取り、そっと棚に戻す。

胸の奥には、切なさと焦れ、そしてかすかな希望が混ざる。


――いつか、また会えるだろうか。

そんな思いが、わたしの心を静かに支えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る