第二章 余燼
時代が変わり、気づけば肩章の数は増え、人は俺を「閣下」と呼ぶようになっていた。
剣を手放した日の感触だけが、
今も身体のどこかに残っている。
その日も、役所を出て自宅へ戻る途中だった。
馬車を使う距離ではない。
歩いたほうが、頭が静かになる。
詰襟の軍服は目立つ。
道を空ける者もいれば、
無遠慮に見上げてくる視線もある。
慣れているはずだった。
――なのに。
夕方の町角で、足が止まった。
甘いとも、懐かしいとも言えない匂い。
ただ、確かに知っている気配。
貸本屋の軒先に、一人の娘が立っていた。
年の頃は二十前後。
派手ではないが、よく動く。
本を抱え、父親に何か言っている。
「……あの、立ち読みはご遠慮くださいね」
こちらに気づき、声をかけてから、
しまった、という顔をする。
「いえ、立ってるだけならいいんですけど。
でも、その……軍の方って、急にいなくなることがあるでしょう?」
「おゆう。」
父親の低い声が、静かに制した。
「だって、本が戻らないと困るじゃない」
そう言い返しながら、
ほんの少しだけ肩をすくめる。
悪びれきれないその様子に、
父親は小さく息を吐いた。
俺はそのやり取りを見て、
ほんのわずかに口元を緩めた。
それに気づいたのか、
一瞬だけ、こちらを見る。
「借りるつもりはありません」
「え?」
「通りがかっただけです」
「なんだ」
残念そうに肩を落としたが、
すぐに顔を上げ、店の奥を指差した。
「でも、せっかくですし。
一冊くらい、見ていきます?」
勧めるというより、決めつける口調だった。
店内は薄暗く、ランプの灯りだけが
静かに二人の影を映し出していた。
本棚の前に立つと、一冊の本を手にしたが、
彼女は踏み台に乗り、別の本を差し出す。
「それ。字が細かくて難しいですよ。
こっちのほうが読みやすいです」
奥から父親が苦笑する。
「すみませんね。娘は、人を選ばなくて」
「選んでるわよ。だって
この人、きっと読む人だもの」
決まったような言い方だった。
ただ、真っ直ぐな目だった。
理由は分からない。
けれど、避けることもできなかった。
薄い本を借りて、
その夜、俺は灯りの下で頁をめくった。
文字を追っているはずなのに、
行間に、別のものが挟まる。
――字が細かくて難しいですよ。
思い出して、
俺は思わず息を漏らした。
可笑しいことは、何もない。
それなのに、口元が緩む。
本を閉じ、
膝の上に置いたまま、灯りを見つめる。
誰もいない部屋で、
小さく笑っている自分がいた。
こんなふうに本を読むのは、
いつぶりだろうか。
三日後、
俺は再び貸本屋を訪れた。
「あっ」
おゆうが声を上げる。
「返しに来てくれたんですね」
本を差し出すと、
両手で受け取り、少し得意そうに笑う。
「早かったですね」
「薄かったので」
「そう言うと思いました」
そのとき、背後から声がかかった。
「――閣下」
若い士官だった。
一礼し、貸本屋の看板を見て、言葉を飲み込む。
「構わない」
短く答えると、士官は去っていった。
おゆうは、黙って見ていた。
「えらい人、だったんですね」
問いではなかった。
「……仕事柄です」
「ふうん」
それ以上、踏み込まない。
だが、距離は確かに変わった。
次に店へ向かう朝、
俺は衣紋掛けの前で足を止めた。
軍服は、きちんとかけられている。
埃ひとつない。
それでも、手は伸びなかった。
この服を着ている限り、
俺は俺でいる前に、役目になる。
貸本屋に、
それを連れて行きたくなかった。
だから俺は、外套を手に取った。
「あ、こんにちは!」
声は、変わらず明るい。
――ほっとした。
本を返すと、
彼女はにこにこして受け取る。
「今回はどうでした?」
「……最後が、少し」
「ですよね」
片付けの最中だったのか、
踏み台に乗ろうとしたそのとき、
おゆうが足を踏み外した。
反射的に、俺は腕を伸ばす。
おゆうの指先が、袖に触れる。
ほんの一瞬、
彼女の身体が、硬くなる。
「……す、すみません」
先に距離を取ったのは、彼女だった。
次に会ったのは、
数日後の夕方だった。
店先で本を並べている彼女と、
目が合う。
「……こんばんは」
「こんばんは」
それだけで、会話は止まる。
「また、本が必要になったら」
“来てください”とは、言わなかった。
俺は、頷いた。
誰も悪くない。
ただ、
同じ速さで歩けなくなっただけだ。
俺は背を向けた。
振り返らなかった。
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