『余白に名前を書くまで』
seragi
第一章 夕霧
吉原の夜は、いつも同じ顔をしている。
灯りは明るく、人は笑い、約束は朝になれば消える。
最初に総一郎が廓へ来た夜、彼は仲間と連れ立っていた。
若い隊士たちは酒に声を弾ませ、座敷は賑やかだった。
その中で、総一郎だけが少し離れて座っていた。
笑ってはいるが、深く酔うことはない。
いつも、どこか出口を確かめるような目をしている。
夕霧は、ひと目でそれに気づいた。
「お静かなお人でありんすな」
冗談めかしてそう言い、彼女は総一郎の前に杯を置いた。
花魁として保つべき距離を、ほんのわずかだけ残して。
「……そう見えますか」
そう言って、微かに笑った。
若い声だった。
二十を少し越えた男の、まだ削りきれていない硬さがある。
「見えんす。見えるものは、だいたい当たりんす」
夕霧は微笑み、視線を外した。
じっと見ていれば、こちらのほうが先に崩れてしまいそうだった。
その夜は、それきりだった。
酒と笑い声、三味線の音。
総一郎は終始、聞き役に徹していた。
次の夜も、その次の夜も。
彼は仲間と現れ、同じ場所に座った。
変わらないようで、少しずつ変わったのは、間の取り方だった。
杯を渡す指が触れる時間。
目が合う、ほんの一瞬の長さ。
夕霧は、理由もなく思った。
――このお人、以前どこかで。
仲間たちが別の座敷へ移り、二人の間に静けさが落ちた。
「……よく、ここへ?」
総一郎がぽつりと尋ねた。
「廓は、夜しかありんせん」
夕霧はそう答え、三味線の音に耳を傾けるふりをした。
本当は、彼の声をもう一度聞きたかった。
数度目の夜。
鏡に向かう夕霧に、彼は言った。
「名前を、聞いてもいいですか」
一瞬、迷う。
名は、簡単に渡すものではない。
「……夕霧と申しんす」
名乗った瞬間、鏡越しに総一郎の目が、わずかに揺れた。
「いい名前ですね」
そう言いながら、総一郎は夜の格子の向こうに顔を向ける。
花魁に向ける言葉としては、ひどく素直だ。
「総一郎様も」
「僕ですか?」
鏡越しに夕霧を見返す。
夕霧はゆっくりと紅を引きながら、
「名を持っておりんす。それだけで、立派でありんす」
と冗談めかした。
その声の奥で、夕霧は彼を見ていた。
名を持つということは、戻る場所があるということ。
それなのに――
この男は、今夜も最後の顔をしている。
⸻
最初は、仲間に誘われただけだった。
酒と音に紛れていれば、何も考えずに済むと思った。
だが、座敷に通された瞬間、視線が止まった。
派手ではない。
それなのに、目を離せない。
まだ名も知らないのに。
何故か、ただ懐かしい匂いがした。
彼女は、間の取り方も、あしらい方も上手く、
そして踏み込まない。
それが、ありがたかった。
ただ、触れた杯に指先の感触だけが、
微かに残る。
なぜだろう。
分からない。
ただ、確かに知っている。
そんな気がした。
名を尋ねたとき、胸の奥がわずかに痛んだ。
名を知れば、自分の場所に戻れなくなる気がした。
それでも、聞きたかった。
生きていたら。
それ以上、僕には確かな約束は持っていない。
だからこそ、何も残してはいけない。
だから感じるのか。
ここではない場所の匂いがした気がした。
⸻
夜明け前、総一郎が立ち上がろうとしたとき、夕霧は声をかけた。
「次は……少し、先になりんすか」
「そう……ですね。
生きていたら、また」
ただ、困ったように笑った。
その表情で、夕霧は確信した。
――ああ、このお人は。
「……お待ちしとりんす」
それだけを、花魁の声で告げた。
その夜を最後に、総一郎は姿を見せなくなった。
噂は、夕霧の耳にも届いた。
京の町が騒がしくなったこと。
隊が忙しくなったこと。
討ち入りの名も、戦の話も聞こえた。
けれど、総一郎の名は、どこにもなかった。
死んだとも、生き延びたとも、誰も知らない。
ただ、誰かが一人、姿を消しただけだと。
あの夜、
夕霧は名を呼ばなかった。
問いただすこともしなかった。
ただ夜を迎え、朝を見送った。
⸻
夜は変わらない。
灯りも、笑い声も、昨日と同じだ。
けれど、人混みの格子越しに、
あの目を探してしまう癖だけが残った。
もしも、どこか別の世で、
同じ目をした人と出会ったなら。
そのときは――
名を呼ぼうか。
煙管の煙とともに、
今日もまた、夜は静かに更けていく。
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