第1話

 幾度もの時代を渡り歩き、ただ夜を斬り続けてきた。そうして時は流れ、舞台は令和の世へ。

 雨足が強まる都内の閑静な一角。黒塗りの板塀に囲まれた老舗料亭『赤坂・松月』の屋根に、黒衣の狐は佇んでいた。

 傘も差さず、肩に落ちる雨粒をそのまま受けながら、瓦の下を見下ろす。

 

 標的は、あの中――。

 

 離れの奥座敷では、指定暴力団『荒神会』の最高幹部会合が開かれている。

 幹部の数は十名。いずれも組の中枢を担う古参たちだ。それにそれらを守護する護衛が、確認した限りでは六人。

 冬雪は音もなく庭へと降り立った。濡れた玉砂利の上を、重力など存在しないかのように滑る。

 幕末、京の闇に消えた人斬り狐は、今もなお影としてこの時代を生きている。

 障子の隙間から、漏れ聞こえる怒号と笑い声。

 鼻先に届くのは、湿った土の匂いと、高級な線香、そして脂ぎった男たちの驕りの臭気。

 獲物たちの油断が、空気の密度となって滲み出している。

 

「――次のシマは全部ウチが握る」

「若頭のモンらには渡さん」

 

 言葉の端々に、欲と腐敗が染み込んでいる。

 狐は静かに息を吐いた。

 一世紀以上の時を経ても、獲物の匂いは変わらない。群れ、笑い、油断し、喉元を曝け出す。その愚かさは夜の闇よりも確実なものだった。

 

 廊下を見張る護衛は四人。残りは中か。

 冬雪はコートの内側から黒いベレッタM92Fを引き抜いた。ずしりとした鉄の塊の冷たさが、革手袋越しに掌へと伝わる。

 時代は変わった。夜の狩人もまた、道具を変えるだけだ。

 サプレッサーの固定を確かめ、スライドを引いて薬室チャンバーへの装填を確認。刀の鞘走りも問題なし。

 

 長い呼吸を1つ置くと、冬雪は廊下へと躍り出た。

 障子の前に立つ四人の見張り。

 彼らが異変に気づき、口を開こうとした刹那――。

 

 湿った空気を裂くような発射音が4つ、連続して響く。

 亜音速弾は正確に眉間を捉え、男たちは声を上げることも許されずに畳へと崩れ落ちた。

 

「おい、何の音だ?」

 

 奥座敷から低い声が漏れる。中の護衛二人が動く気配。冬雪は間髪入れず、障子を蹴り破った。

 

「な、何やァ!?」

「侵入しゃ――」

 

 中にいた護衛二人が懐に手を入れるより速く、ベレッタが火を噴く。二発の銃弾が心臓を穿ち、護衛たちは背後の幹部たちを巻き込むようにして倒れ込んだ。

 円卓を囲んでいた十人の幹部たちが、一斉に立ち上がる。

 怒号が飛び交い、チャカを抜こうとする者、テーブルをひっくり返す者で室内はパニックに陥った。

 

 冬雪は弾切れの近いベレッタを流れるような動作でホルスターへ戻し、腰の雪哭を抜く。

 銀光一閃。

 薩摩示現流の初太刀が、視認できぬ速度で最も近くにいた幹部の喉元を裂いた。血飛沫は最小限、命だけが奪われる。

 

 そこからは一方的な蹂躙だった。

 

 冬雪は舞うように畳の上を駆ける。

 銃を取り出した幹部の手首を斬り飛ばし、返す刃で袈裟懸けに斬り伏せる。

 背後から組み付こうとした男には、再び抜いたベレッタを脇下から突き刺し、ゼロ距離で引き金を引いた。

 マズルフラッシュと血煙が舞い、肉が断たれる湿った音だけがリズムを刻む。

 

 やがて、静寂が訪れた。

 

 累々と重なる屍の中、残るは組長である壮年の男ただ一人。

 男は腰を抜かしながら冬雪を見上げている。

 

「な、何者だ……その狐の面……まさか、都市伝説の――」

 

 恐怖に引きつった顔を、冬雪は無言で見下ろす。

 一歩近づき、刀を横一文字に振る。

 赤い線が首筋を走り、短い呻きとともに、荒神会の歴史は幕を閉じた。

 

 漂うのは、高級な線香と硝煙、そして濃厚な鉄の匂いだけ。

 呼吸は乱れない。心臓も騒がない。

 百六十二と二十五年を生きた彼女にとって、これはただの仕事だ。

 

 ――――

 

 雨脚はいっそう強まっていた。

 冬雪は海岸沿いに聳える高級タワーマンションの一室へと辿り着いていた。

 最上階のペントハウス。そこには、依頼主である若頭が一人、ブランデーグラスを揺らして待っていた。

 

「……来たか」

「終わったぞ」

 

 白い狐面の奥から、抑揚のない声が落ちる。

 若頭は顔を上げ、憎悪と満足の入り混じった歪んだ笑みを浮かべた。

 

「本当か?」

「疑うんなら自分で見てこい」

「いや、そうか。ご苦労だった。これであのジジイどももお終いだ」

「報酬を」

「金ならここだ」若頭はテーブルの上のアタッシュケースを冬雪の方へ滑らせた。

 ケースを開き、札束の山を一瞥で確認する。「確かに――じゃあ、もう1つも貰う」

 

 冬雪が一歩踏み出した、その時だった。

 

「悪いが、そっちは渡せないな」若頭が指を鳴らす。

 

 その合図と共に、隣室のドアが蹴破られ、武装した男たちが雪崩れ込んできた。若頭派の組員たちだろう。十近い銃口が、一斉に冬雪へ向けられる。

 

「……へえ、そうするんだ」

 

 冬雪は動じない。こんなことは初めてではない。今までにも幾度とあったことだ。ただ静かに、面の下で冷めた目を細めた。

 武装した彼らの油断が伝わってくる。相手が『蒼の死神』といえど、この距離と火力で囲めば勝てる――そう確信している。

 

 しかしその確信は、一瞬で裏切られた。

 冬雪の体が滑るように動いた刹那、轟音が部屋を裂く。

 だが、死角から放たれた凶弾は、冬雪の反応速度を上回り――左胸、正確に心の臓の位置を深く貫いた。

 衝撃で冬雪の体が大きく仰け反る。

 黒衣の胸元に、焼ける痛みと共にどす黒い染みが広がっていく。

 

「ハハッ! やったぞ! 化け物がなんぼのもんじゃ!」

 

 若頭が勝利を確信し、高笑いを上げた。

 

 だが、冬雪は倒れない。

 

 よろめいた足を踏ん張り、血で濡れた左胸を、人差し指で静かに小突いた。

 

「……これで死ねたら、良かったのになあ」

 

 その声は、絶望的なほど、どこか安堵していた。

 

「あ……?」若頭の笑みが凍りつく。

 

 貫かれた傷口から、血だけではなく、蒼い狐火のような炎も噴き出した。蒼炎が傷を塞ぎ、銃弾を体外へ押し出す。瞬く間に肉体は再生していく。

 

「ほ、本当に化け物なのかっ……撃て! 殺せぇッ!」

 

 叫び声と共に一斉掃射が始まる。

 だが、冬雪の姿はもうそこにはなかった。

 蒼炎を纏った雪哭が狂気的な速さで閃く。防弾チョッキごしに鎖骨を断ち、首を刎ねる。悲鳴を上げる間も与えない。

 

 若頭以外の組員を、呼吸をするように皆殺しにした。

 

「ひ、ひぃぃっ……!」

 

 若頭はソファから転げ落ち、這いつくばって後退る。

 血に濡れた刀をゆっくりと鞘に納めた。規則的なブーツの足音だけを部屋に響かせ、壁際まで逃げる若頭の胸ぐらを掴み上げた。

 

「元々報酬だ。ご愁傷様」

 

 冬雪の手から蒼い炎が伸び、若頭の胸に突き刺さった。

 

「あ、が……っ!」

 

 苦悶の声を上げる間もなく、炎は若頭の生気を吸い取り、体は急速に萎びていく。頬がこけ、白髪が増え、生命が指先から冬雪へと流れ込む。渇いた体に熱が満ちる感覚――。

 

「アンタの命、確かに貰ったよ」

 

 若頭の死体は、恐怖に顔を歪めたまま、ミイラのように干からびて動かなくなった。

 命が尽きると同時に、蒼炎が消える。冬雪は、その炎がもたらす穢れを静かに受け止めた。

 

 その時、玄関のドアが優雅に開いた。

 

「もうお済みでしたか」

 

 濃い茶色のスーツを纏い、初老の男――獅童春一が、血の海となったペントハウスに足を踏み入れる。彼は惨状を見ても眉一つ動かさず、むしろ感嘆するように呟いた。

 

「遅いよ、シド」

「失礼。回収準備に少々時間をかけておりました。ですが、あなたの仕事に余計な手間はかけられませんので」

 

 獅童は光沢のない革手袋をはめ、干からびた若頭の遺体へと歩み寄る。少年のように目を輝かせ、遺体の状態を確認した。その眼差しは、嫌悪でも恐怖でもなく、価値を量る職人のものだ。

 そしてふと、周囲に転がる若頭派の組員たちの死体に目を留める。

 

「おや、当初の予定より随分と仏の数が多いように思いますが」

「さあな、気のせいじゃないか」冬雪は興味なさげに吐き捨てた。

 

 獅童は「やれやれ」と小さく肩を竦めると、手際よく若頭の遺体を業務用の大きなボストンバッグへと押し込んだ。まるで枯れ木を扱うかのような軽さだ。

 

「では、今宵も依頼者のご遺体は私がいただきます。他は警察お客様への手土産ということで」

「ああ、さっさと帰ろう」

 

 雨音は遠く、コンクリートの冷たい空気が漂っている。

 地下駐車スペースには、威圧感を放つ黒塗りのトヨタ・センチュリーが静かに鎮座していた。

 獅童はトランクを開け、若頭の入ったバッグを丁寧に安置する。

 

「ほら、今回の分。適当に分けといて」

 

 冬雪は仮面を外すと、ケースと共に無造作にトランクの隙間へ放り込んだ。続けて、腰からベレッタと雪哭を外し、それも獅童へ差し出す。

 

「あと、整備よろしく」

「おや、刀もですか?」

「余計に多く斬ったからな。一応」

「承知しました。愛しい貴女の牙、私が責任を持って研ぎ澄ましておきましょう」

 

 獅童は武器を恭しく受け取ると、愛おしそうにベレッタの銃身と雪哭の峰を順番に指でなぞった。

 死体と大金、そして凶器。それらが詰め込まれたトランクを、獅童は静かに閉める。重厚な閉鎖音が、地下駐車場に響いた。

 

「それでは退散いたしましょうか」

 

 獅童が運転席へ、冬雪が助手席へと滑り込む。

 センチュリーのエンジンが静かに目覚め、二つの影を乗せた黒塗りの車体は、滑るように雨の東京へと溶けていった。

 

 後に残されたのは、鮮やかな死体の山と微かに残る蒼い残り香だけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る