蒼の死神

@Mackey008

プロローグ

 文久三1863年。夜の京を覆うのは、血と鉄の匂いだった。

 梅雨明けを待たぬ湿気が燈籠の炎を揺らし、その光の中に白い狐面が浮かぶ。

 女は黒衣に身を包み、濡れた石畳を音もなく歩いていた。

 灯りに映る刹那の姿は、影のように儚く、刃のように凛としていた。

 

 彼女の名は、冬雪。

 齢まだ二十半ばの娘でありながら、誰もが畏怖し『人斬り狐』と呼んだ。

 

 京の片隅で飢えていた孤児の身を拾い上げたのは、薩摩藩の中核を担う島津家の重臣だった。

 島津は武士の死生観と狂気が常人の想像を遥かに超えた藩だ。冬雪はそこで、『退くは恥、死するは誉れ』という、極端な武士道を叩き込まれた。

 それから武芸十八般、暗殺に特化した秘術を魂に刻まれた。刀を抜けば、声もなく首が落ち、血飛沫すら闇に呑まれる。返り血を浴びぬその業は、夜の影そのものだった。

 彼女の世界に意味が生まれたのは、島津の手に拾われてからだ。それは、人の世の業を血で洗い流す道具として生きることを受け入れることだった。


 その夜もまた、冬雪の世界に意味はなかった。主君がため、討幕のため、ただ命を奪う。それだけが日常。

 

 古寺の裏手、松明が不気味に揺れる。黒衣と白狐の面に覆われた彼女は、冷え切った指で刀を握りしめる。重いのは刃ではなく、背負ってきた血の数だ――だが刃先はなお、月光のように冴えていた。


 一歩、また一歩、標的に近づく。板塀の隙間から、中の会話が漏れ聞こえた。


「もう攘夷派など滅びるさ。幕府の勝ちだ」

「今のうちに寝返れば、命は助けるか……」


 男の声がした瞬間、冬雪は板塀を飛び越えた。


「何者だ!」


 ――刹那、一閃。

 鋭い切り傷が男たちの喉元に走る。二人の男は、そう言葉を発した次の瞬間には絶命していた。


 これが、冬雪の日常だった。この先もずっと、討幕後も変わらぬものだと思っていた。

 だが、運命の夜は唐突に訪れた。


 幕末動乱も佳境。討幕の兆しが見え始めたある夜、冬雪は志士たちの密会に呼び出される。場所は、すでに荒れ果て、誰も顧みぬ鳥羽離宮跡。かつて玉藻前が鳥羽上皇を惑わしたと伝わる、その曰く付きの地に、篝火が不気味に揺れていた。

 そこに集まっていたのは、彼女と同じく闇に生きる人斬りたち。皆、冬雪と同じく、攘夷派に雇われ、幾人もの命を奪ってきた影の剣士たちだ。


「よく来たな、冬雪」

 

 声をかけた藩士の目は、氷のように冷たい。

 嫌な予感が背筋を這い上がった、その瞬間。

 背後で一斉に鞘鳴りが走った。

 仲間だったはずの藩士たちが、迷いなく刃先を冬雪へ向けている。


「殿の御内意だ。悪く思うな」

「維新の世には、人斬りなど不要なのだ」

「すまぬな、冬雪――用済みだ」


 冬雪は即座に刀を抜いた。

 篝火が揺れ、冷え切った殺気が四方から迫る。

 己が役目の終わりを告げられ、胸中には怒りよりも先に、底知れぬ虚無が広がった。

 

 銀光が奔り、悲鳴もなく次々に血が飛んでいく。裏切りの刃に腹を裂かれ、冬雪もを膝を落とした。

 血濡れた石畳に横たえられると、仲間だったはずの屍と共に、荒れ果てた離宮の庭へと放り込まれる。


「火をくべろ」

 

 乾いた声とともに、薪木が乱雑に積み上げられ、油がぶちまけられた。次の瞬間、篝火が投げ込まれ――ごう、と炎が噴き上がる。

 肌を裂く熱風。煙が肺を焼き、呻き声は喉の奥でかき消された。熱に炙られるたび、皮膚がはがれ、視界が赤黒く溶け落ちていく。


 ――死ぬ。

 その言葉が、初めて冬雪の胸を刺した。

 人斬りとしての役目が終えただけの事。狐は静かに死するのみ。

 

 そう思った瞬間、耳ではなく骨の髄に、艶やかな女の声が響いた。


『……まだ終わらぬ。殺せ。奪え。生きろ』


 炎にあぶられたはずの体の奥で、ぞわりと蒼い炎が芽吹いた。声は重なる怨嗟とともに、妖しく名乗りを上げる。


『妾は玉藻前――九尾の妖火の威光をもって、汝が身に永劫の呪詛を刻まん』

 

 焼けただれた肌に、黒い血潮が逆流した。朽ちかけた体に熱が灯る。燃え尽きるはずだった肉体は、蒼炎に抱かれ、灰燼が集まり、朽ちた身を補っていく。

 炎はもはや灼熱ではなく、妖しく冷たい蒼光となって冬雪を包み込む。背後には、太く大きな尾のように形作った蒼炎が靡く。

 

 冬雪の指がぴくりと動いた。

 髪が蒼炎に揺れ、瞳には常世の火が宿った。

 呻き声は笑みに変わり、頬には艶めく影が走る。

 

『……妾はここに在り』

 

 低く囁く女の声と笑みが冬雪と重なった瞬間――彼女はゆっくりと立ち上がった。

 

 側に突き立てられていた愛刀――雪哭せっこくを掴み、焼け爛れた手で柄を引き抜く。その刃は蒼炎に舐められ、青白い狐火のように揺れている。


 ゆらり。

 一歩。

 二歩。

 歩み出すたび、燃え盛る炎さえ道を譲る。


「……化け物だ!」

 

 藩士たちが叫ぶ。

 ざわめきは恐慌に変わった。


 そして――ひと振り。蒼い弧が宙を裂き、鮮血が夜空に散った。雪哭が一閃するたび、悲鳴は途絶えた。

 一人、また一人と、呼吸をするように、次々と斬り伏せていく。悲鳴は炎に飲まれ、次の瞬間にはもう声も形もなかった。


「やめろ、やめてくれっ」


 最後に残った男は、そう言って腰を抜かしていた。しかし冬雪は、操られたように、自然と男の首を掴んだ。

 すると、蒼炎は目の前の志士の身に移り、黒髪がぱさりと白く変わっていく。肌はしぼみ、骨ばった顔が仰向けに凍りつく。男が事切れると同時に、蒼炎は冬雪の体へと戻るように消えていく。

 

 都の南端、荒れ果てた鳥羽離宮の跡地。栄華の面影を失った石垣と崩れかけの礎石が、夜の闇に沈んでいる。風が止み、しじまに包まれた空間に、音と呼べるものはただ一つしかなかった。

 ぱち、ぱち、と乾いた薪のはぜる音。時折、じゅ、と湿り気を含んだ脂が燃え、湿った土と焦げた臭気が空気を濁す。青白い煙はまっすぐに夜空へ昇り、まるで魂を都の空へ送り返す道筋を描いているかのようだった。

 炎は崩れた石垣と雑草を不気味に照らし出し、廃墟の中に長い影を揺らめかせる。虫の声も、町のざわめきも届かない。ただ、かつて人であったものが燃え尽きて天に還ろうとするその音だけが、失われた離宮の静寂を支配していた。

 冬雪は静かに目線を落とした。

 刀身に映る自分は、黒髪は血に濡れ、瞳は夜より深い赤黒さに沈んでいた。

 吐息と共に体の芯が段々と熱を取り戻し、焼け朽ちた皮膚は生気を帯びて再び元の肢体へと戻っていく。

 冬雪は刀を鞘に収め、闇に身を隠した。

 

 蒼炎の狐火は、死を告げる鐘のように夜空を染め上げる。

 その日を境に、冬雪はもはや人ではなくなった。

 他人の命を糧にしか生きられぬ呪われた存在――。


 やがて討幕の世が訪れた時、闇にその名は囁かれ始める。

 人を呪わば穴二つ。

 標的と依頼人、双方をも死へ誘う、蒼き炎をまとう狐面の殺し屋。


 ――『蒼の死神』。

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