龍田川

日暮奈津子

龍田川

 いにしえの神代の頃より、龍田川には美しい女神が住んでおりました。

 ある時、龍田川のみなもとがある山奥に女の赤ん坊が捨てられていました。女神はまことに優しい心をお持ちであったので、我が子のように慈しみ育てました。

 女の子はすこやかに成長し、やがて女神のほんとうの娘であるかのような美しい乙女となったのです。

 初秋のある日、ふもとの城から鹿狩りに訪れた若君が供の者とはぐれ、山奥へと迷い込んでしまいました。

 山中を彷徨さまよい歩くうち、若君は龍田川の源で女神の育てた乙女と出逢ったのです。

 若君は怪我をしておりましたが、乙女の優しい介抱をうけ、傷が癒えると龍田川を下流へとたどって山を降り、無事に城へと帰り着きました。

 秋が深まりゆくにつれ、龍田川ぞいの山々は美しい紅葉に染まってゆきます。

 けれども、乙女はそれを眺めてはため息をつく日々を過ごしておりました。

「そんなにもあの若君をお慕いしているのですね」

 龍田川の女神に言い当てられ、乙女の頬も小さな紅葉もみじのように赤く染まりました。

「……ですが、私はあの方のような立派な若君には釣り合いません」

 乙女もまた小さい声で母なる女神に答えました。

「私はごく平凡な人間の娘です。私にあるのはあのお方を思う心、ただそれだけ……」

「我が娘のなんと奥ゆかしいこと」

 うつむいた乙女の心細げな顔にそっと優しい手を触れると、女神はおおらかに微笑みかけました。

「では、あの若君の伴侶にふさわしい婚礼衣装を私がととのえてさしあげましょう」

 女神は目の前を散り落ちようとした紅葉を手にとり、しばし眺めると。

「あなたの心の美しさがえるよう、ほんの少しばかり、くくり染めをいたしましょうね」

 そうしてはらりと、白いたなごころからその紅葉葉もみじばを落として川の流れに乗せました。

 あたかもそこに細やかな女神の手があるかのように、龍田川は鮮やかな紅葉もみじを澄んだ水面みなもにくくりながら川下へと運んでゆきます。

 ひとひら、さらにひとひらと、女神は奥山の一面に散り敷く紅葉を川面に浮かべて次々と流してゆきました。

 あっという間に龍田川の水面みなもは見事に美しい唐紅からくれないの錦へと姿を変えてゆきました。



 ちょうどその頃、若君には縁談が持ち上がっておりました。

 若君の父である城主の元に、家老から我が娘をぜひとも若君に輿入れさせたいと申し出があったのです。

 その娘は親の欲目ではなく大層美しくて気立てもい姫であったので、家老はまず一度若君にお目通りの機会をと願い出て、城主はそれを聞き届けました。

 家老は風流を解する人柄で、屋敷の庭には龍田川の流れを引いた曲水があり、目利めききで腕も良い職人に細やかに手を入れさせた木々や季節の花も、訪れる人の目を楽しませておりました。

 その庭園で家老は紅葉賀もみじのがの宴を開き、若君をお招き申したのです。

 若君が庭に足を踏み入れると、かえで紅葉もみじの木はどれも見事に色づいて、家老の姫も、秋の景色によくえる美しい衣装をまとって、しとやかにお迎え申し上げました。

 ところが、かくも見事な庭園と姫君を目の前にしても、若君のお顔には何故か深い憂いのかげがありました。

 庭を彩るくれないに染まる木々は、確かにとても美しくはありますが、どこか色あせた作り物めいていて、眺める心は晴れません。

 流れる曲水にうつる紅葉の景色もまこと鮮やかなはずなのに、どうしてか水底に沈む朽葉くちばのように見えてしまいます。

 やさしく微笑みかける美しい姫にかしずかれても、金糸銀糸で織られた打掛けが目にちかちかと眩しく映り、かえって胸が痛むばかりです。

 家老と姫は、若君のその様子に気付きました。

「いかがなされましたか、若君さま。この庭の見事な紅葉の眺めはお気に召しませぬか」

「私は、若君さまのお心に叶う女子おなごではございませんでしたか。何か不調法を致しましたのでしたら……」

「そうではない。そなた達は何も悪くはない。この庭も、姫もまこと美しい。何も間違ってはおらぬ。ただ私は……」

 言いかけた若君は、ふと庭を流れる曲水に目を止めました。


 小さな、けれどもくっきりとあざやかなくれないに染まった一葉ひとはのもみじ川面かわもを流れてきます。

 それはこの庭にあるどの紅葉もみじとも楓とも似ていない、燃えるような秋の深山みやま唐紅からくれないを宿していたのです。


「これは……」

 若君は、息を飲んで立ち上がると、家老が止める声も耳に入らず、姫が差し伸べる手もかえり見ず、絢爛けんらんたる紅葉賀もみじのがの宴を後にして庭園を出ていってしまいました。


 

 乙女の見つめる前で、女神は細く美しい指先で龍田川の透き通る水の流れに目にもあやなる紅葉葉もみじばの彩りを次々とくくり、つらぬきとめてゆきます。

 あかねのもみじと、くれないと。

 あけに染まった楓葉かえではと。

 晩秋の山は、彩りに満ちた紅葉で見るものを包み込んでくるようです。

 もえる想いをうつしたかのような、緋色ひいろに染まったもみじ葉に、深紅に沈む物思いの楓を取り合わせて。

 そこへ時折、黄金色こがねいろ銀杏いちょうが切なくも胸の愛しさを抱きしめるように差し挟まれてゆきます。

 奥山の景色にはまぶしい秋の陽が刺しこんで、照り映えるようにその彩りを輝かせます。

 ますます赤く色付く楓やつたの見事な紅葉は、女神の手によって次々と龍田川をあざやかに染め上げてゆきました。

「さあ、ご覧なさいな」

 錦秋きんしゅう、と呼ぶに相応ふさわしく、見るもみごとに仕立て上げられた打掛けを娘の細い肩に着せかけると、女神は乙女の耳元にそっとささやきました。


「あなた達の想いはこんなにも色づいていたのですね」


 それを聞いて龍田川の乙女は振り向きました。

 見つめるその先には。


 曲水の庭を抜けて小川をたどり、流れに浮かぶもみじ葉に導かれて来たのでしょうか。

 あるいは、ただその心の求めるままに、奥山の紅葉もみじを踏み分け、身も焦がれるほどの思いに突き動かされたのでしょうか。

 明るい秋のに照らされて、ただ言葉もなく立ち尽くす若君の姿がありました。

 こんこんと湧きづる龍田川の源流のかたわらで、木漏れ日の挿すその最中さなかに立つ乙女の姿をその目にしばし留めんと、息をのんで見つめるばかり。


 まさにその美しさたるや。


 あざやかに染まる唐紅からくれないの打掛けをまとった乙女の姿は、まさしく深山みやまの奥に住むと言う女神そのもののようでありました。


 若君の優しい微笑みはようやく愛する人にめぐり逢いて、その喜びがあふれ出すかのようで。


 そうして龍田川の乙女の手を取ると、いとしい顔を見つめながら、若君はこれなる一首を詠みました。



 ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川

    からくれなゐに 水くくるとは



     (終)

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龍田川 日暮奈津子 @higurashinatsuko

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