第4話 境界が曖昧になる

 ある日、死者の夢を聞いている途中で、僕は自分の記憶の断片を拾った。拾ったと言っても、手で拾うわけではない。話の中に混ざっているものがあった。


「コーヒーの匂いがした」

 死者が言った。

「どんな匂い?」

「朝の匂い。走り始めの匂い」


 走り始め。僕はその言葉に反応した。反応したが、顔には出さなかった。僕は走っていたのかもしれない。走っていないのかもしれない。確かめる方法はなかった。


 夢の中で、死者はベンチに座り、僕に似た男が隣に座ったと言った。僕に似た男は、僕に似た声で「大丈夫だ」と言ったらしい。大丈夫だという言葉は、内容を持たない慰めの典型だった。僕はそれを書きながら、自分がその言葉を誰かに言ったのかどうかを考えた。


 境界が曖昧になった。死者の夢と、僕の記憶と、この場所。どれがどれなのか、区別が薄くなった。薄くなったが、崩壊はしなかった。崩壊しない程度の曖昧さは、生活の中にもある。


 女性は僕を見て、初めて少しだけ表情を変えた。変えたように見えただけかもしれない。


「混ざってきた?」

 彼女が聞いた。

「たぶん」

「それでいい」

「良くはないと思う」

「良い悪いは、ここでは弱い」


 弱い、という言い方が適切だと思った。良い悪いは確かに弱かった。弱いものは、判断の材料にならない。

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