第3話 扉を開けた人間の話
扉を開けた人間がいる、と誰かが言ったのは、雨の降る夕方だった。雨はこの町では珍しくない。珍しくないものは、人の口を軽くする。酒場の隅で、古い兵士がそう言った。
「昔、開けた奴がいた」
彼はグラスを持ったまま言った。
「誰が?」
「知らねえ。名前も顔も知らねえ」
それは情報としては役に立たなかったが、役に立たない情報ほど残りやすい。僕はその言葉を持ち帰った。
翌日、城の回廊で別の人に聞いてみた。聞くのは質問になるかもしれなかったが、質問をしないという決まりは、紙に書かれていたわけではない。僕の中にあるだけだった。
老いた書記が、棚から古い帳簿を取り出して見せた。帳簿には名前が並んでいたが、扉のことは書かれていなかった。書かれていないことが、逆に扉の存在を確かなものにした。
「開けた者は戻らなかった」
書記は言った。
「全員?」
「全員だ」
全員という言葉は強いが、強い言葉は実感を伴わないことが多い。僕は頷いた。
「どこへ行ったんですか」
「それは書いてない」
「誰も見てない?」
「誰も見てない」
彼は淡々とそう言った。淡々とした声は、恐怖を生まない。恐怖が生まれない分だけ、事実はそのまま残る。
僕は扉の前に立ち、鍵を握った。鍵の刻みが指に食い込んだ。扉の向こうに何があるのかはわからないが、誰かがそこへ行ったことだけはわかった。行った者は戻らなかった。戻らないことが死を意味するのか、別の何かを意味するのかはわからない。
城下町に戻ると、平和は相変わらずそこにあった。子どもは走り、露店は賑わい、音楽は鳴っていた。平和の中で「戻らない」という言葉を考えるのは妙だった。平和は戻る場所を前提にしているように見える。戻る場所があるから、日常は続く。戻らない場所があると、日常は少し歪む。
その夜、僕は夢を見た。扉の向こうに誰かが立っていた。顔は見えなかった。夢は夢として終わり、朝になると残らなかった。残らないことに、少しだけ安心した。安心の理由はわからなかった。
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