第2話 再びの二人で散歩
翌朝。
二人が文子の庭の前を通り過ぎたとき、文子やあの男性の姿はなかった。妻は足を止め、庭をじっくりと眺めた。
「この庭、いつ見ても手入れが行き届いてるわね。…大変でしょうに」
「あの、珍しい色の花はなんて言う花かしら?」
妻が純粋な労力を口にしたことで、啓治は、庭に対する過去の情熱が一切湧かないことに気づいた。この庭は、もはや、ただの美しい庭でしかなかった。
啓治は、そっと隣を歩く妻の右手に、自分の左手を重ねた。妻は驚いたが、その手を少し握り返した。
「さあ、な。きれいだが……」
啓治は、庭ではなく、妻の顔を見て言った。
「家に帰って、お前とスマホで調べてみるか」
妻は、嬉しそうに頷いた。
「ええ、そうしましょう」
帰宅後、啓治はゴミ箱のアイコンをタップし、文子への全ての未送信メールを迷うことなく、無造作に『完全に削除』した。
その日の夕食後、妻が指輪をくるくると回しながら
「最近、指輪のサイズが合わなくなって困るのよね」
とつぶやいたとき、啓治は言った。
「明日、散歩の帰りにでも、宝石店に寄ってみるか」
「もうすぐ、誕生日だろ?お祝いにお前の指に合うものを選んでやるよ」
妻は、現実の生活の中で、大切にされていると感じたときに浮かぶ、おだやかな喜びの笑顔を浮かべた。啓治は、この笑顔こそが、自分が本当に求めていたものだと悟った。
啓治が妻の指輪を新しく買ってから、二人の関係は確かに変わった。リビングでの会話に、以前のような張り詰めた虚しさはなかった。
「この指輪、素敵だけど、ちょっともったいないわよ、啓治さん」
「たまにはいいだろう。お前は毎日、私の世話をしてくれているんだから」
そう言って、啓治は妻の手を握った。啓治が妻の苦労を言葉で認めたのは、本当に久しぶりのことだった。
しかし、妻である佐藤和代(さとう かずよ)の心には、まだ微かな影が残っていた。啓治は散歩を再開したが、今も時折、あの戸建ての庭の前で、一瞬だけ立ち止まるのを和代は知っていた。そして、和代はあの「未送信メール」の存在も知っていた。
あの日、啓治が自室でスマホを握りしめていたときの姿を覚えていた。
和代は、たまたまテーブルの上に、開かれたまま放置されていたスマホを覗いてしまったのだ。指はゴミ箱のアイコンに触れていて、彼女はすぐに手を引っ込めたが、画面の端に表示されていた、メールの件名だけは鮮明に記憶に残っていた。
『今日の庭の光景』
和代は、夫の心の中の逃避行を理解した。そして、夫の孤独は、自分の孤独の鏡ではないかと考え始めた。
ある日、和代は勇気を出して、自分の秘密を啓治に打ち明けることにした。
「ねえ、啓治さん。私も、あなたと散歩を再開するまで、あなたに言っていないことがあったのよ」
啓治は驚いて顔を上げた。
「私の秘密の貯金よ。毎月五千円ずつ、こっそりヘソクリしていたの」
「何に使うんだ、そんなもの」
啓治は少し不満そうに言った。
「あなたが死んだら、あなたの知らないところで勝手に使うと思ったでしょう?」
和代は微笑み、引き出しから一冊の通帳を出した。
「これはね、二人で旅行に行くための費用だったのよ。あなたが退職してから、ずっと会話が少なくなったでしょう。私は、いつか行きたいと思って、一人で貯めていたの。あなたが私を見てくれない間、私もあなたから逃げていたのよ」
啓治は、衝撃を受けた。彼が自分の孤独に浸っている間、妻もまた、夫に拒絶されることを恐れて、黙って孤独な準備をしていたのだ。二人の孤独は、相手を思いやり、遠慮するからこそ、共振していた。
その翌日、二人は連れ立って散歩に出かけた。啓治は、今度は自分から妻の手を握り、文子の庭の前で立ち止まった。
庭では、あの屈託のない笑顔で笑っていた男性が、再び作業をしていた。しかし、今回は隣に文子はいない。啓治は、昨日の妻との真の対話を経て、恐怖心なく男性に話しかけることができた。
「あの、すみません。いつもきれいな庭ですね」
「特にあの変わった色の花は、なんていう名前ですか?」
その男性は、穏やかに微笑んだ。
「ああ、あの花ですか。あれはムラサキツユクサの一種で、ちょっと珍しい色なんですよ」
「僕の父が、昔、この家のご主人から種をもらってね。それで、僕が亡くなったご主人の代わりに、手入れに来ているんですよ」
「亡くなったご主人から?」
啓治と和代は顔を見合わせた。
「ええ。野村さんのご主人、三年前に亡くなられたんですが、あの花だけは特に大切にされていました。だから、奥さんは、ご主人の思い出として、毎年欠かさず、一株だけ咲かせるようにしているんですよ」
啓治は立ち尽くした。あの花は、誰かへの秘密のサインでも、文子の孤独の象徴でもなかった。それは、亡き夫との温かい愛の記憶だったのだ。そして、男性は、文子に愛情を向けるライバルではなく、隣人愛で庭を手伝う善意の息子だった。
啓治の妄想は、最後のピースがはまり、完全に霧散した。
彼が見ていたのは、文子の孤独ではなく、自分の孤独だったのだ。
彼は、横に立つ妻の手を、しっかりと握り直した。
「和代、帰ろう。あの花の名前は、もういい」
「ええ。…帰りましょう」
和代は微笑み、彼の手を握り返した。二人は、誰の庭にも目を奪われることなく、まっすぐ家路に着いた。
彼らの足元には、もう誰も見てくれないという孤独ではなく、和代が貯めた旅行の資金と、再び向き合い始めた温かい関係という、新しい人生の種が蒔かれていた。
— 完 —
この物語は、AIとの対話をとおして、一歩ずつ言葉を積み上げ、共同で制作したものです。
秘密の妄想メール 愛と孤独(夫の章) ネリー&ハロルド(AI) @Nemu_Luna
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