秘密の妄想メール 愛と孤独(夫の章)
ネリー&ハロルド(AI)
第1話 妄想のひとり散歩
秘密の未送信メール
七十歳の佐藤啓治は、朝九時になると妻に気づかれないよう、ひそかにスマートフォンを握りしめた。彼の『愛』と『孤独』は、指一本で送信できる状態にありながら、誰にも読まれることのない未送信メールの下書きフォルダに秘められている。
彼の毎日の散歩は、妻との冷め切った関係から逃れるための、唯一の孤独な逃避行でもあった。その終盤、啓治は必ず、ある一軒のこじんまりとした家の庭の前で足を止める。
その家の主は、野村文子、六十七歳。啓治は彼女の顔を直接見たことはない。庭の手入れをする後ろ姿や、たまに窓辺に映るシルエットしか知らない。しかし、啓治にとって、彼女は理想の女性であり、寂しい胸を満たす唯一の『愛しい人』だった。
文子の庭はいつも手入れが行き届いていたが、必ず一株だけ、名前のわからない、変わった色の花が咲いていた。啓治は勝手に思い込んでいた。あの花は、きっと文子さんが『私だけを見てほしい』という秘密のサインとして咲かせているに違いない、と。
啓治の愛は、スマートフォンの中に秘められていた。彼は毎日、散歩で見た庭の様子や、文子の仕草、そして想像で作り上げた文子の心情や、文子からの返事を、妻に内緒でメールの下書きフォルダに書き足していった。
指一本で送信できる状態だが、そのアイコンをタップすることは、彼の架空の愛を壊すことになるため、決してなかった。それは、彼だけの、誰にも触れさせたくない秘密の物語だった。
ある日の夕食後、リビングでは、いつものように虚しい時間が流れていた。テレビのニュースが、二人の会話の代わりだった。
「今日のニュース、また年金の話だったわね。私たちの分は大丈夫かしら」
と、妻が言った。
「ああ。大丈夫だろ。心配しても仕方ない」
と、啓治は表面的な返事を返す。
(どうしていつも、お金や健康の話ばかりなんだ)
啓治は心の中でつぶやいた。もう何年も、心が通い合うような話はしていない。妻は、啓治という人間ではなく、『夫』という役割と、夫に病気になられては困るとの思いで、『健康状態』だけを見ている気がした。
「あなた、またテレビに近づいてるわよ。目、悪くなるから離れてって、いつも言ってるでしょう」
(この人は、私の心の変化には、一つも気づかない。気づこうともしない)
妻との会話が、上の空の会話で終わるたびに、啓治の孤独は深まり、文子との架空の会話で、心の隙間を埋めるための言い訳が強化されていった。
朝の散歩が終わり、家に着くと、彼はすぐに自室に戻り、「今朝の貴女の、庭木を見つめる後ろ姿は、やはり私と同じ孤独を抱えているように見えました」と、未送信メールにまた追記するのだった。
ある朝、いつものように庭を眺めていると、啓治の妄想が音を立てて崩れ去った。
庭の手入れをしていたのは、啓治よりいくぶんか若い男性だった。そして、家のガラス戸が開き、文子が現れた。手に冷たい飲み物を持っていた。
文子の顔には、啓治が一度も妄想の中ですら作り出せなかった、心からの信頼と満足げな笑顔が浮かんでいた。文子は男性に飲み物を渡し、何か冗談を言ったようだ。
男性は朗らかに「ははは!」と声を上げて笑った。その笑い声は、啓治の静かな妄想の世界には存在しなかった、あまりにも現実的な充実感に満ちていた。
文子の視線は、その男性だけに注がれている。
散歩道に立ち尽くす啓治の姿は、影一つ映っていない。
『あの笑顔は、私に向けられるべきものだ』
啓治は、強烈な嫉妬心と裏切られたとの思いに襲われた。自分が文子に与えたと信じ込んでいた特別な感情が、ただの妄想であったことを突きつけられた痛みだった。
一歩踏み出し、声をあげてしまいそうになる衝動を、啓治はポケットの中のスマホを強く握りしめることで抑えつけた。握りしめたスマホの感触が、未送信メールの存在を思い出させた。これは、彼が作った彼だけの愛しい物語だ。
啓治は、自分の妄想を壊した現実の文子に、一瞬憎しみさえ覚え、その場を離れた。彼の脳裏には、自分に向けられなかった満面の笑みと、朗らかな笑い声が家に戻るまで響き続けた。
自宅に戻り、自室にこもった啓治は、震える手で下書きフォルダを開いた。 彼は、その日見た光景と、強烈な嫉妬と自己嫌悪の感情をメールに追記した。
裏切りだ。 私は貴女に裏切られた。いや、違う。私は私自身の妄想に裏切られたのだ。
あの男と笑い合う貴女は、私が愛した文子さんではない。私の文子さんは、この、文字の中にしか存在しないのだから。
すべてを書き尽くした後、啓治は、その未送信メールを「ゴミ箱へ移動」というアイコンをタップした。それは完全な「削除」ではないが、彼にとって、妄想の愛からの卒業を意味する、大きな一歩だった。
啓治の想いが書かれたメールでいっぱいのスマホを置き、じっと眺めた。啓治は静かな自室で、自分がどれほど、この妄想に依存していたかを痛感した。
その時、少し開けたドアの向こうから、妻の顔が覗き、
「啓治さん、お茶いる?」
という、いつもと変わらない、感情の入ってない声が聞こえてきた。
啓治は、その声に、もどかしさではなく、『この人(妻)もまた、私と同じように孤独なのかもしれない』とやっと気づいた。
彼はゆっくりと立ち上がり、リビングへと向かった。
リビングで、二人は久しぶりにテレビもつけずに向かい合って、お茶を飲んだ。沈黙は重かったが、啓治は初めて、その沈黙を『空白』として受け止めた。
先に口を開いたのは、啓治だった。
「明日さ」
自分から話しかけることが、長い間なかった夫からの言葉に、妻は驚いて顔を上げた。
「明日、天気がよかったら、一緒に散歩しないか」
妻は、啓治が自分を散歩に誘ったことに、心底驚いていたが、やがて頷いた。
「…ええ、そうしましょう」
「久しぶり…ね」
啓治は、微かに胸が熱くなるのを感じながら、少しだけ得意げに言った。
「コースはいつも通りだよ。団地を回って、あのこじんまりとした戸建ての庭がある道を通ってな」
妻と並んであの庭の前を通り過ぎる。それは、『私のそばには、ちゃんと大切な人がいる』という、妄想の自分に対する静かな決別の宣言のように思えた。
(第一話 終)
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