第5話 あなたは「何?」

「詩織、おはよう」

「……おはよう、凌」


 目を覚ますと目の前に微笑んでいる凌がいた。

 こんなに満ち足りた気持ちで目覚めた朝は久しぶり……と凌にしがみ付くと、凌は私を抱き寄せてキスをした。

 夜の暗い部屋じゃない。朝日の柔らかい光が入ってくる寝室……それにふたりとも裸でするキスは久しぶりで……朝から気持ちが良い。

 凌は唇から私の首筋に唇を移動させた。私の太ももには少し元気になりはじめている凌自身を感じる。


 ……レビトラって何時間効く薬だったかしら……たしかそこまで継続時間は無かった気がするけれど……その前にいつ薬を貰ってきたの?

 レビトラってそんな簡単に出してもらえる薬だったかしら?


 昨日の夜は快感で押し流した疑問が一気に押し寄せてくる。


 でも三年ぶりの甘い朝にそんなことを考えている自分がイヤになり、凌にしがみ付いて吹き飛ばす。

 今は久しぶりにこの甘さを全身で感じたい。

 凌は朝日の中で私の全身を見ながら抱き「きれいだ」とずっと褒めてくれた。

 たったひとり、大好きな旦那さまが抱いてくれないなら、太っても痩せても、身体なんてどうだってよいと思った時期もあった。

 でも私自身の生真面目さがそれを許さず、ストレッチを続けて肌を保って……本当によかったと思ってしまう。

 凌は果てたあとに私を抱き寄せて、


「……もう今日はずっと寝室にいたい」

「今日は無理よ。でも嬉しいから……来週とか……?」

「今日がいいのに」

「もお、子どもみたいね、可愛い」

「可愛いのは詩織だ」


 そう言って凌は起きようとしていた私を再びベッドに押し倒す。

 こんなふうにベッドでじゃれているのは久しぶりで、幸せすぎる。

 私はちゃんと伝えようと決めて凌のあぐらの上に座り、凌の顔を見て、


「……あのね、私あんまり言えてなかったけど、凌が本当に好きなの」

「! ……詩織、あのさ。今俺、はじめて詩織を好きになった時くらい好きなんだけど」

「え、遅い、ひどい」

「遅くても、取り戻せる」


 そう言って凌はあぐらの上に乗せた私に何度も何度もキスをした。

 幸せすぎるけど、凌と週末を過ごしたくない一心で、急用ができた人の代わりに土曜日の午後からの仕事を引き受けてしまった。

 それに菜々美さんを美穂のクリニックに点滴に連れて行かなきゃいけない。

 そう伝えると凌は私の胸元で犬のように情けない顔をして、


「……せっかくできたのに」


 私が好きになった頃の凌みたいで笑ってしまう。

 でも「ごめんね」と謝った。こんな風に突然愛されると思っていなかったのだ。

 寝室を出ようとしたら、再び凌が私を抱き寄せて、


「今晩もしたい」


 と言った。私は振り向いて凌を抱きしめて、


「……うん」


 とだけ答えたけど、脳内にはもう疑問が浮かんでいた。

 そんな頻度でレビトラを使っていいのかな……。

 どう考えてもここまで効く薬を連続で使うのは凌の身体に良くない……そんなことを考えてしまう。

 でも薬のことを口にしてどうしようもないほど後悔したから、もう薬のことは言わない、口にしない、もう絶対に嫌だ。

 凌が私を抱けるようになった。それだけでいいと思うけど……私の本当に悪い所なんだけど……凌に薬のことを伝えたのが木曜日。

 金曜日、凌は朝から夜まで仕事で忙しかったと思う。その間に病院に行って薬を貰う時間があったのかしら。

 ああ、もう、自分が嫌いだ。

 こうやってひとつの事実を前に枝分かれする可能性を無限に探してしまう。

 でも私は、ただ安心したいのだ。

 驚くようなことが起きたあとにはその裏付けが必要。

 再現できないことは事実ではなくただのエラー、再現が不可能になる。

 ひとつ良いことがあったら、それを再び再現したい。そのための努力を仕事で日々続けていると、こういう思考になってしまう。

 私は髪の毛をまとめて着替えを出しながら、


「じゃあ私、シャワー浴びて準備するね。菜々美さんの朝ご飯も準備しないと」


 そう言うと、さっきまで甘い表情をしていた凌の表情が一変した。

 今日買ったばかりのおもちゃを取り上げられた小さな子どものような表情になり、


「俺、すごく詩織のことが大切な気持ち思い出したから、正直あの女をめちゃくちゃ邪魔に感じる……ごめん」

「……え?」

「正直まったく優しくできないと思う。分かりやすく邪魔にしちゃいそうで悪いから、俺夜まで出かけるよ」

「え? そんなに……」

「詩織が優しくしたいと思ってる人に、俺が優しくできないのがイヤなんだ、しかも俺が詩織に甘えたい、独占したいというエゴで」


 そう言ってふにゃ……と柔らかい表情になり、


「俺は詩織の意志を尊重するよ。それが医療に関わる詩織だもんな。その詩織が好きだから、だから俺が我慢する」

「……うん、ごめんね」

「こうやっていつでもキスしたい。だから今は出てくる。久しぶりに実家行くよ」

「あ、なるほど。お義父さんとお義母さんによろしく。私は仕事よ、それをちゃんと伝えてね? そうしないと一緒に実家に行かないダメ嫁になっちゃう」

「おっけー、ちゃんと言う」


 そう言って凌は私に甘くキスをして家を出て行った。

 乱れたベッドに甘いキス。望んでいた毎日なのに、胸の奥に小さな……本当に小さなひっかき傷がある気がする。

 こんな幸せな朝にそれに浸れないなんて……。




「……残念すぎる性格だわ」


 私は車の運転をしながら呟いた。

 朝ご飯を食べ終わり、菜々美さんを美穂のクリニックに連れて行った。

 体調に問題はなく、やはり食べられない事により脱水症状になっていただけだった。トマトを食べて点滴をしてしっかり眠った結果、菜々美さんはつわりが重めの妊婦になった。

 点滴を終えてクリニックを出た車の中、菜々美さんは助手席に座って私のほうを見て、


「えー? 詩織さんは一ミリも残念じゃない。マジで神。ゴッド。マジ神ゴッド」

「何を言ってるのか全然分からないけど、体調がよくなって良かったわ。トマトが良かったみたいね」

「このトマトがあれば乗り切れそう。それに保冷剤でキンキンに冷えてて最高!」

「凍るくらいのが匂いもないし、楽なんじゃないかと思って、そうして持って来たの。食べられるタイミングでいつでも食べて」

「えーん、詩織さんありがとう。だから言ってるじゃん、詩織さんは一ミリも残念じゃないよ」


 助手席に座っている菜々美さんは凍ったトマトを食べながら私を見て言った。

 凌は本当に朝ご飯も食べずに家を出て行ってしまって、ほんの数分前に抱き合っていたのに、その切り替えの速さが違和感の正体だと分かっている。

 菜々美さんは助手席で凍ったトマトを食べながら、


「……旦那さんのこと……?」

「うーん。そうね」

「正直詩織さんが変なんだよ。私みたいな素性が知れない女を家に泊めてこんなに優しくしてさあ」

「私の仕事をみれば分かるわ。悪いけど、今日は私これから仕事なの。だからクリニックからは自分で電車で帰れる?」

「帰れる帰れる。トマト食べて点滴してもらってたら元気になってきた」


 そう言って菜々美さんは笑顔で答えた。

 私は車をクリニックに止めて菜々美さんと一緒に歩く。

 都内にある星和生殖医療クリニックは、ビル街の真ん中にある。

 不妊治療をしている人たちの多くは働いていて、都内に出勤している。

 仕事をして、その間にクリニックに通い、長い待ち時間にひたすら耐えている。

 星和生殖医療クリニックは、入り口も複数あり、通っている人が不妊治療をしていると分からないようにもなっている。

 必死に生きる女性の手助けと、幸せのためにできる仕事を私は誇りに思っている。

 菜々美さんは私の後ろをついて歩きながら、


「生殖医療クリニック……おおおお……なんかそういうお仕事って言ってたけど……あれだ、不妊治療だ」

「そう、知ってる?」

「ネットで見たことある。自分で注射するんでしょ?」

「そうね、そういう治療もあるわ」

「そっかー。赤ちゃん欲しいよね、分かる。分かるよー……、そっかー大変な人もいるんだよねー……」


 菜々美さんは入り口でポスターを見ながらまだ大きくなっていない自分のお腹を撫でた。

 そこに自分以外の命があると知っている人の動き。

 すぐ隣にあるのに絶対たどりつけない国にいるようで、羨ましくて、遠くて、それでも今すぐ消えてしまいそうなほど儚くて。

 私はそれを切り捨てるようにさっぱりと菜々美さんに向かって、


「これから17時まで仕事なの。家に帰れる? 鍵これ」

「わーお。私を家に一人にしていいの?」

「仕事ばかりしている夫婦なの。家に凌はいないし。貴重品は鍵が入った所に入ってるけど、当然あまりフラフラしないで」

「分かってるよ。部屋で寝てる。居させてもらえるだけで、本当に感謝してる。ありがとう」


 そう言って菜々美さんは私の前で腕を広げた。まるで自分自身をさらけ出すように。

 私が戸惑っていると、そのままぎゅ……としがみ付いてきた。

 私は少しだけ驚く。他人にこうして抱きつかれたのは何年ぶりだろう。

 私は少し戸惑って、


「……菜々美さんってご家族に海外の方がいたり?」

「中1で死んだおばあちゃんはアメリカ人だったよ。最上級の感謝するときはいつだってハグ。体温は嘘をつかない。人間だよ、安心して」


 そう言って菜々美さんは私の背中を優しく撫でた。

 どうして私がハグされて安心してるのか分からないけれど、こういうのも悪くない。

 菜々美さんは私から離れて鍵を受け取って「部屋に直行して寝てる」と言ってクリニックを出て行った。

 私は身体に残る菜々美さんの体温が消えるのを感じながら、思っていた。

 凌の手はいつも温かい。ふわりとした柔らかさがあって、私はいつだって凌と手を繋ぎたいと思っていた。

 でも今日の朝、私を抱き寄せる凌の指先が冷たくて驚いたのだ。


「……レビトラの副作用も調べよう」


 私は更衣室に向かいながら呟いた。

 そして着替えながら思う。凌が言ったたったひとつの言葉「あの女」がどうしても脳裏から離れない。

 凌はいつだって紳士で、はじめて会った時から私のことを大切にしてくれた。私の友だちたちとも良く食事に行く。

 常に紳士で言葉使いも丁寧、職場の男はすべてクソと言い切る美穂さえ「凌さんは良い」と言ってくれるような優しい人だ。

 そんな凌が私は大好きなんだけど「あの女」。

 女性に向かって凌がそんなことを言うなんて……と思うけれど、正直私のほうが「何をしてるんだ」と言われてもおかしくない。

 点滴を打ちに美穂のクリニックに行ったら、美穂に「凌さんに感謝したほうがいい。正直変だと思うよ」と笑われた。

 家の前に転がっていた凌の子どもを妊娠したと主張する女を家に泊める。

 しかも三年ぶりにセックスできたというのに。


「……まあ私が変か」


 私は納得した。

 でもさっき菜々美さんとハグをして……私はやっぱりあの子、結構好きなのよね、よく分からないけれど。

 ずっと事実だけを追い求めて生きてきた。奇跡とか真実の愛とか恋とか、目に見えないものは信じない。

 恋をしたならしっかりと告白をして心を伝えて行動を見せるべき。恋なんて愛なんて見えないからこそ行動しかない。

 それを積み重ねた上でやっと「愛」だといってほしい。行動して見せるすべてが感情を語る。そう思っている。

 だけど菜々美さんは……よく分からない。

 それでも、


「……さあ、人間を作りましょう?」


 私は手を念入りに消毒しながら呟いた。 

 人間だよ、安心しよう。

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