第3話 勇気を出して

 タクシーで帰宅すると、すぐに美穂から電話がかかってきた。


「美穂、どう?」

『点滴したら落ち着いた』

「ありがとう」

『かなり状態悪いけど、どこで拾ったのあれ』

「凌の仕事関係で会った人みたい。凌を頼ってきちゃった感じかも」

『たぶんだけどDVされてる、背中に酷いあざあった』

「……なるほど」


 私はマンションに入りながら電話を聞きながら頷いた。

 美穂は続ける。


『母子手帳は普通に持ってた。検診は最初だけ行ってて、あとは行って無い、成育は順調、つわり以外問題なし。よく居る普通の野良妊婦ね』

「病院千葉だって言ってたけど」

『そうね。仕事で寮に居たみたいだけどつわりで働けなくなって追い出されたみたい。生活課あたりに連絡しないとダメかも』

「本人やれそう?」

『どうだろう。結構メンタルきてるかんじ。これ以上頼られたくないなら、こっちで動いたほうが早い』


 私が美穂と話しながらマンションの廊下を歩いていると、もう部屋に到着した。

 部屋を開けようとすると、中から開いて、そこに心配そうな凌が待っていた。


「……凌に頼むわ」

『そうだ、プロじゃん』

「だからこそ面倒もある。ありがとう! 何かあったら私に連絡ちょうだい。お金も私に回して」

『了解』

「今度おごる」

『たのんますよ~』


 そう言って美穂は軽く笑って電話を切った。 

 私は玄関で靴を脱ぎながら、


「ただいま」

「おかえり。どうだった? 大丈夫そう?」

「菜々美さんDVされてるみたい。ねえ凌、千葉の生活安全課と連絡取れる? たぶん母子保護シェルターとかあると思うの」

「あるな。分かった、今連絡入れる」

「え、今? 時間外じゃない?」

「知り合いがいるから」

「助かる」


 私がそう言うと、凌は私を抱きしめて、


「たぶん仕事関係だと思う。悪いな」

「いいの。妊婦さんは無視できないわ」

「詩織はいつもそうだ。じゃあ今から電話する」


 そう言って凌はスマホを片手に隣室に向かった。

 凌は国民労働均衡庁の外郭団体で、労働環境について聞き取り調査を行っている。

 小売や介護、飲食……現場で起きたハラスメントや過労、育休トラブルなどを聞いて報告書にまとめている。

 菜々美さんも、勤務先のスーパーで「妊娠を理由に解雇されて寮から追い出された」と訴えているらしい。

 凌は東京千葉埼玉の首都圏を担当していて、会う人の数が多くて大変そう。

 それでも相談を上げるまえにできることはしたほうがいい、と市の相談窓口に繋いだり、犯罪を犯してしまう前に部署に繋いだり、人と向き合う仕事をしている。私は人と話すのがそれほど得意ではなく、ただ顕微鏡の中を見ているほうが好きだった。

 凌とは都が行っている公開シンポジウムで会った。

 医療従事者の働き方やメンタルケアの課題を共有する会議なんだけど、私はクリニック側、凌は行政側で出ていた。

 凌はシンポジウムが終わったあとの食事会で、すぐに個人的な連絡先を聞いていた。

 紳士的で優しくて話も面白くてカッコイイ……そんな凌に私はどんどん惹かれて行った。

 台所で手を洗っていると凌が電話を終えて戻ってきて、


「明日ちゃんと話す。でも今母子保護シェルター満杯みたいだ」

「大変ね」

「入るのも大変、場所がないのも大変」

「凌も大変」


 私がそういうと凌は私を優しく抱き寄せて、


「お腹すいた?」

「すいた!」


 私がそういうと凌は笑顔になり、台所でお肉を焼き始めた。

 凌は料理が好きで上手で、私も好き。だからふたりで台所に立つ。

 凌がお肉を準備している間に私はサラダを作る。取っておいたちょっと美味しい生ハム、食べちゃおう。

 ワインを飲むならチーズも。私と凌はふたりで料理を仕上げてソファーの前に並べて食べ始めた。

 明日は金曜日で平日。普通に仕事なのでそこまで深酒できないけど、少し飲みたい気持ち。

 ワインを飲みながら凌が買ってきた美味しいお肉を食べて、ホラー映画を見て過ごした。



「じゃあ寝ようか」


 私たちは食事を終えて食器を片付けてお風呂に入り、一緒に布団に入った。

 そして病院で決めたことを行動に移すことを決めて、凌にしがみ付いた。


「……ねえ、凌。したいな」

「……詩織」

「凌と、したい。私、子ども出来なくていいから……凌としたい」

「詩織……ごめん……でも俺詩織が好きなんだ、世界で一番詩織が好きなんだ……」

「うん……それはもう分かってるけど……」


 私がそう呟くと、凌は私の顎を持ち上げて優しくキスをしてきた。

 私は凌にしがみ付く。凌は私の背中に手を回して強く引き寄せる。

 そして髪の毛を優しく解きながら、それでも強く引き寄せて、首に唇を落とす。

 私は凌の下半身に触れるけど……凌の反応はない。


「……ごめん」

「ううん。あのね、本当に……ごめん。凌が好きで」

「寝よう、詩織」


 そう言って凌は私を後ろから抱きしめて睡眠体勢に入った。

 もう今日、このタイミングしか言えない。

 私は覚悟を決めて凌のほうを見て、


「レビトラって知ってる?」

「……なに?」

「EDの薬なんだけど、30分程度で効くの。バイアグラはダメだったけど、こっちで治った人もいるの」

「……いや、もう……どうかな」


 凌はそう言って私から視線を外した。

 ……辛い。

 私は姿勢を戻して目を閉じた。

 結婚して二年は普通にセックスをしていた。それで出来なくて検査の結果、重度乏精子症が分かった。

 それから凌は勃起障害……EDになった。凌はすぐに自ら病院に行き、バイアグラを処方してもらったけど無理だった。

 そこから一年はずっと薬を飲んでしてみたけど……ダメで。

 私はこの分野には詳しいので、こういう状態になる人が多いのは知っていた。

 自分の精子に能力がないと知ってしまうと、立たなくなる……それはデータでは知っていたけれど、自分の旦那がこうなるのは想定外だった。

 凌のお父さんは国民労働均衡庁のお偉いさんで、私の親は医者だ。

 私たちふたりとも一人っ子で、孫を強く望まれていた。

 だから顕微授精までしたけど……無理だった。

 それは両家の両親に話して、もう子どもが無理なのは科学的に納得してくれた。

 でも私は、ただ凌に抱かれたい。

 凌が好きで、凌にただ愛されたい……子どもを作る行為だけど、それとは関係なく。

 私はベッドで膝を抱えて涙を落とす。


 ……菜々美さんが凌の子どもを妊娠しているはずがない。


 精子もない、勃つこともない、その子どもをどうやって妊娠するの?

 レビトラを試してほしいってずっと言おうと思っていた。でも……あれからずっと出来なくて傷ついている凌に言えなくて……ずっと逃げてきた。

 勇気を出して言ったけど……やっぱり凌を傷付けてしまった気がする。

 傷付けたらもっとしてくれなくなるのに。

 私は布団の中で膝を抱える。

 さっき菜々美さんに『夫婦関係が破綻している』と聞かされて心臓が跳ねたのはこれが理由だ。

 怖くて怖くて、ずっとこの話を口に出すのを避けていた。菜々美さんは適当に言っただけかもしれないけれど……私はずっと気になっていた。

 ……人間ってめんどくさい。

 数値が良ければ動く、悪かったら動かない、この数値以上は合格ライン、それ以下は不可能。

 数字の世界は全部決まっているのに、人の心で出来る出来ないが決まるなんて、めんどくさい。

 そんなことにいちいち傷ついて、苦しくて、夜眠れなくなるのが辛い。

 でも明日も仕事。私は枕元から眠剤を取り出して口に投げ込んで目を閉じた。





「ベッドに空きがない……そりゃそうよね」

「うちもキチキチなのよ。だから千葉に戻って貰うしか無いんだけど……」


 次の日仕事を終えて美穂のクリニックに菜々美さんに会いに行くと、かなり顔色がよくなっていた。

 菜々美さんは笑顔になり、


「これなら歩けそう。……本当にすいませんでした。えっと……生活保護もらったら返金します」

「生活保護って、はい今日からどうぞって貰えるものじゃないの。それに家も無いんでしょ?」

「家っていうかリボンマートの寮? 働いてない人に部屋なくて」

「そりゃそうよ」


 私は頷いた。

 凌が千葉の生活安全課に連絡を取ってくれたけど、面談は最速で月曜日。

 今日は金曜日で、もう菜々美さんは病室を出ないといけない。

 まだ体調は最悪で、ホテルにひとりに出来る状態ではない。

 私は菜々美さんの横に座り、


「月曜日までうちに泊まっていいわ。土曜日、日曜日とここに点滴しにきて良い?」

 美穂は頷いて、

「オッケーオッケー。それならむしろ安心。三日間点滴して様子見て、続きは千葉でいいと思う」

「じゃあそうしましょう」


 私は菜々美さんにそう言った。

 菜々美さんは目を丸くして、


「え……不倫相手を家に置くとか大丈夫そ?」

「だから……もういいわ。もうそれでいい。そう私は不倫相手を家に置く女」

 私がそういうと美穂は目を丸くして、

「あらまあ気が強い」

「ね。いいの、大丈夫よ」


 私は菜々美さんを立たせて一緒に家に帰った。

 昨日凌に断られてから、朝は普通に話せなかった。菜々美さんの言葉に振り回されて「新しい薬を試してほしい」なんて言うべきではなかった。

 家の空気が最悪で……もういっそ菜々美さんがいるほうが、バラバラでいることに理由が生まれる。

 私は菜々美さんに向かって、


「何なら食べられるかな」

「トマト……すっごく酸っぱいの食べたい」

「なるほど。ちょっと高級スーパー行って、あれこれ買っちゃう?」

「! 良いんですか、奥さま」

「いいですよ、菜々美さん。その奥さまってやめて。詩織よ」

「詩織さん。短い間ですが、よろしくお願いします」


 そう言って菜々美さんは頭を丁寧に下げた。

 元気になると、ちゃんと挨拶も出来るし、可愛い子だと思った。

 凌との子どもはあり得ない。セックスも出来ていない。

 そして菜々美さんは妊娠させられた男にDVされていたと思われる。

 かなり心が傷ついていて……正直可哀想だ。

 なにより私が菜々美さんの世話を焼く「頭がおかしな人間」になることで、一時的に凌から離れられる。

 週末だけでいい、凌から逃げたい。週が始まればすぐに仕事。今だけ逃げさせて。

 私は菜々美さんを連れて色んな野菜が売っているスーパーに向かった。

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