第2話 私たちの秘密をなぜ知っているの?
凌は「重度乏精子症」だ。
正常の精子なら1ミリリットルの中に1500万個の精子がある。しかし凌は2万個しかいない。
なにより通常の精子の総運動率は42%あるが、凌の精子は0%……全く動いていなかったのだ。
私は胚培養士で、プロであり、その数字が完全に「重度乏精子症」だと言い切ることができる。
動いてない精子が、どうやって卵子と出会うのだ。
「菜々美さんの卵子が、凌の精子の所に動いたのかしら」
「そうかもー。だって凌さんの子どもをリアルに妊娠してるもん」
淡々と説明する私の横で、ピンクのピクニックシートに座った菜々美さんは言った。
私と凌は結婚して二年間普通にセックスをして妊娠しなかった。
私はこの状態はおかしいと判断して、すぐに凌とクリニックを訪ねて、そこで凌の重度乏精子症を知った。
二年間、ほぼ毎日「孫が見たい」と言ってきた両親にしっかりと「こういうことだから無理だ」と伝えてくれたのも凌だ。
両親はそれでも更に調べてTESEという睾丸に直接針やメスを入れて精子を「探して取り出す」手術を薦めてきた。
精子が存在していて動いていない……それならTESEでのみ可能性がある。それは痛みを伴い、酷く大変なものだ。
凌はそれを受けてくれた。「それでも動いている精子はなかったのだ」。
「……無いの。だから、凌の子どもを自然妊娠することは、あり得ない」
「でも凌さんとしかセックスしてない。絶対に」
菜々美さんは私をまっすぐに見て言った。
私は困ってしまう。
私はどちらかというと理系で、ただ顕微鏡を覗き、数字で生きている人間だ。
冷たいと言われようが、数字は嘘をつかない。というか、生活の上にある数字が好きなのだ。
でも凌は違う。
私は凌に向かって、
「……どうする?」
凌は私の頭を優しく撫でて、
「仕事関係だと思う。正直年間数百人に会うからそこまで覚えてない」
凌はそう言って菜々美さんの横に座った。
そして、
「君はどこの店で働いているのかな?」
「えーー?! 知ってるでしょ? ピリ辛の鶏肉弁当! 好きでいつも買って食べてたよね? 今もあるよ」
「ピリ辛の鶏肉弁当……スーパー関連か。マーキュリー関係かな? リボン系?」
「リボンマートだよ。えー、ちょっと待って、ウケる、あそこまでしておいてこの態度マジでウケるんだけど。ねえねえ、記憶喪失? ねえねえ凌さん、演技がお上手ですね? 凌さーーん」
菜々美さんは凌の服を引っ張って顔を近づける。
……どうしよう。私今までの人生で妊婦さんに苛立つの、はじめてかも知れない。
笑顔で凌に話しかけた瞬間、菜々美さんは口にゴミ袋を持ってきて、そのまま吐いた。
「……っ、ごめんやっぱダメだ。ごめんね貰ったのに」
一瞬苛立ったけれど、吐いている姿を見て我に返り、菜々美さんの横に座る。
「ごめんね辛いのに食べさせて。病院に行きましょう、どこに通ってるの?」
「千葉」
「なるほど、遠いわね。分かった、私の知り合いのクリニックに頼むわ。タクシーで行きましょう」
「お金ない……」
「わかった。一時的に出す。公的支援もあるから、それはあとで返してくれればいい。このままじゃ命に関わるから」
「えー……、奥さん良い人だし、仲良しじゃん訴えられるオワタと思ったのに優しい。ありがとうー」
菜々美さんはやっと凌の服から手を離した。
その瞬間に心がほっと解放されて、ため息をつく。
私もう結婚して5年経ってるし、凌のことを「男の人として好きなのか」と問われたら分からなくなっていた。
でもはっきりと分かった。凌に女の人が触れると、ものすごく苛立つ。
私は凌の手を握り、
「ごめん、私が連れ込んだから、連れて行く。美穂なら見てくれると思う」
「了解」
「それで……この子のこと、調べられる? たぶん……ちょっと……」
「わかった。リボンマートで千葉だとすぐに分かると思う」
「ありがとう」
私は凌の頬にキスをした。
凌は優しく微笑んで、私の腰に手を回して唇に甘く口づけして、
「肉の準備して待っとく」
「うん。美穂から『仕方ねえなあ』って来たから、連れて行くね」
「美穂さんによろしく」
凌はそう言って笑った。
私は菜々美さんの横に座り、
「もうマンションの外にタクシー来てるから行こう。私の大学の同期が近くで産婦人科医してるの。そこならすぐに見てもらえるから」
「奥さん優しすぎて草。いいなあラブラブで、いいなあ。羨ましい。てか全然話が違うんだけど。旦那さんクソだけど、大丈夫そ?」
「……分かったから、行こう?」
私は菜々美さんを立たせた。
凌は国民労働均衡庁の外郭団体にあたる公益財団法人で労働環境について聞き取り調査を行っている。
現場で起きたハラスメントや過労の訴えを一人ずつ面談しその声を匿名でまとめて報告書にする……それが凌の仕事だ。
月に何度も、東京や千葉、埼玉の現場に足を運んでいる。
老若男女から話を聞いて優しくて、それに凌はカッコイイから、正直今まで何度も現場の人たちに誘われる……とは聞いていた。
訴えがある人たちは基本的にメンタルを病んでいる。
病気で仕事ができなくなったから、困っているから訴えているのだ。
だから本当にこういう言葉を使うのはよくないけれど、少し錯乱している人も多い。
凌の精子で妊娠は出来ない。
そして凌は私を愛している。
だからその確率が極めて高いと私は判断した。
マンションを出るとタクシーが止まっていたので、それに菜々美さんを乗せて美穂が働く産婦人科に向かう。
美穂は私と同じ大学出身で、美穂は胚培養士になると決めた私に向かって「一緒に医療の地獄にいこうよおお」と最後まで誘っていた。
ごめんだけど無理。医者は基本的に理系の仕事じゃない。こういう……少し困った人ともしっかり話をしなきゃいけないはずだ。
私は凌に触れられただけで、私の基本「妊婦に優しく」が崩壊する所だった。
信じられる数字の前でしか、私は冷静でいられない。
到着した病院で、美穂は笑いながら私を睨み、
「ちょっとーー。突然困るんですけどー?」
私は両手でパンとお願いをして、
「ごめん、お金は全部私に請求して。どうやら凌の仕事関係者みたい」
「……なるほど。身体の状態だけしか見られないけど大丈夫?」
「とりあえずつわりがかなり酷いけど、お金がないから我慢してたみたい。費用はこっちに回して」
「了解。高くつくよ、もお」
「今度奢る!」
「はい、お名前いいですか? 保険証ありますー? 市役所いってますー? 母子手帳はー?」
美穂はそう言って車椅子に乗せた菜々美さんを連れて行った。
私はふたりの背中を病院の入り口で見送った。
美穂に任せれば安心。
そして私は凌に『今から帰ります』とLINEした。
凌はすぐに既読して『ご飯も炊いた!』と連絡してきた。
本当に凌は私を愛してるし、私も凌を愛している。
でも……私たちは三年セックスをしていない。さっき菜々美さんは「夫婦関係は破綻していると聞かされていた」……そう言っていた。
ひょっとしてセックスレスのことを話したのかしら……。いやでも相談員のひとりにそんな話はしないだろう。
でも『菜々美さんに対してはそうでは無かったとしたら?』
私は胸元の服をぐっ……と引っ張って大きく深呼吸をした。
ずっと凌に言いたかったことがある。今日なら言えるかもしれない。
そう決めて病院を出た。
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