私が産んでない私の子

コイル@オタク同僚コミカライズ③発売中

第1話 旦那の子どもを妊娠したという女が来た

「斉藤さん、陽性出ました!」

「そう」

「今回も担当したの詩織しおりさんですよね、やっぱり腕が良い!」


 そう言って後輩は私……水城詩織みずしろしおりの方を見た。

 私はコーヒーを飲んで、


「斉藤さんは四度目の妊娠。ここからが勝負だから、まだ喜べないわ」

「でも私たちの仕事は陽性にすることです」

「わかってる」


 そう私は短く答えた。

 でも陽性が出ても子どもを抱けないなら、辛いと思う。

 陽性を出すのが私たちの仕事、そんなことは分かっている。

 だからその言葉を冷たくなったコーヒーと共に飲み込んで捨てた。

 斉藤さんは今回の四度目まで、すべて私が担当した。

 毎回自分ができる最大限の仕事をしていると、自信を持って言える。

 しかし妊娠継続は複合要素であり、卵子の生命力だけでは語れない。

 継続できない理由がどこかにあり、それは何度も身体や心を痛めて調べた先にあり、それを解決したからといって必ず結果が出るわけではない。

 私は星和生殖医療クリニックで胚培養士として働いている。

 分かりやすく言うと、子どもが出来にくい人たちの手助けをしている。

 現代において妊娠困難な人たちは多く、仕事に誇りは持っているが、たまに虚しさも感じる。

 でも私は人の命を扱っているのに、無機質な顕微鏡が並び、空気ひとつ暴れず、キャップで髪の毛ひとつ出さずに滅菌エプロンと手袋をして、男も女も何も関係がない、私という個性が消えるこの空間で仕事をするのが大好きだ。




「これが山の手線だよ」

「やまのて! みどりいろ!」

「緑色だねえ」


 仕事を終えた帰り道の電車の中、小さな男の子と、お母さんの会話が聞こえてくる。

 子どもは二歳程度だろうか。電車が好きなようで目を輝かせて話している。

 可愛い。私は横に立って見守った。

 私には子どもがいない。子どもが望まれた夫婦だったし、私も欲しかったけれど、いない。

 小さな子どもを見るとまだ胸が痛むし、私ならこんな時どんな風に接したかな……と妄想もする。

 でも併走する埼京線を見ながら、人生など同じ方向に向かって走っている電車だと思う。

 そして私は親になる駅に止まらなかった人生を歩んでいるだけ、そう納得している。

 最寄り駅に到着してマンションに向かっていると、スマホが鳴った。

 旦那のりょうだ。


『詩織、仕事終わった?』

「うん、凌は?」

『今駅、詩織が駅にいるなら一緒に買い物に行きたいと思って』

「ごめん、もうマンションに近いの、戻ろうか?」

『いやいいよ。じゃあ……今日は一緒に料理しないか? 美味しい肉を焼いて食べたい気持ちだ。俺が作る』

「いいわね。じゃあ私ワイン準備しとく」

『見たい映画あったよな。ホラーの』

「アマプラで探しましょう」

『じゃあ肉を買って帰る』

「待ってる」

『あとで』


 凌は甘く言って電話を切った。

 結婚して五年。子どもはいないけど凌はいつだって穏やかで、私のことを大切にしてくれる旦那さまだ。凌は私を愛しているし、私も凌を愛している。

 マンションに向かって歩いて行くと、マンションの目の前のベンチに座り込んでいる女性が見えた。

 大丈夫だろうか……と思って見ると、鞄に見えたのは『妊娠しています』のキーホルダーだった。

 私は仕事柄、妊婦さんが困っている時に無視できない。

 私はすぐに横に座り、


「大丈夫ですか?」

「……ありがとうございます……今日は調子がいいから行こうと思ったんだけど……全然ダメっぽい……フラフラして気持ち悪い」


 ベンチに座り込んでいた女性は髪の毛を金色に染めていて、その長さは腰まである。

 肩と足が大胆に出ている服装をしていて、かなり若々しい。

 そして妊婦には危ないハイヒールを履いている。でも妊婦のキーホルダーはしっかり付けるアンバランスさ。

 細すぎる眉毛に、深紅に塗られた口紅。どう見てもよくいる若い子なのに春が終わって夏前の五月の空のような甘さと清潔さがある。

 何より声がハスキーで、話し声なのに低音と高音が混ざり、どこか心地が良い海外の言葉を聞いているようだ。

 私はとりあえず顔を近づけて女性に話しかける。


「病院はどこですか? 検診が始まってるならそこの病院に行ったほうがいいです」

「そうだね、そう……その通り」


 そう言って女性はそのまま立ち上がろうとして、ふらりと座り込んだ。

 これは良くない。

 私は素早く女性のお腹を見るが、まだ膨らんでいない。妊娠初期。

 そして腕に触れると冷たく、顔を見ると青白い。

 女性はすぐに意識を戻して、


「……ごめん、帰るわ」

「低血糖だと思います。このままだと駅までたどり着けない。一度私の家にいきましょう。家にブドウ糖があります」

「なにそれ、聞いた事ない。てかたぶん無理。なに食べても吐くし」

「なるほど」


 つわりで低血糖になっている可能性が高い。

 私は看護師ではないし、医療の資格は持ってないけど、妊娠周辺だけの知識はある。

 私は座り込んでいた女性に向かって、


「あなた、名前は?」

菜々美ななみ


 女性は長い金髪をサラリと揺らして私に名乗った。

 私は菜々美さんをとりあえず自分の部屋に連れて行くことにした。




「入って」

「……ごめんなさい、マジで吐きそう。だからここから入れない」

「じゃあゴミ袋持ってくる」

「持ってる。いつも持ってるから、ここで休憩させて、それだけで助かる」


 そう言って菜々美さんは我が家の玄関に座り込んだ。

 そこは汚い。正直座り込んでほしくない場所だ。

 でも私につわりの経験はない。だからここまでつわりが重いと一歩も動けなくなるのか、それが分からない。

 仕方なくシートを持って来て玄関に敷くと、菜々美さんはお尻を少し動かしてそこに移動して、


「玄関でピクニックしてるみたいだね」


 と言った。状況的にどう考えても変なのにそれを受け入れている菜々美さんがよく分からず戸惑う。

 でもとりあえず何か口にしたほうが楽になるのは分かっている。


「ブドウ糖持って来ます」

「どうだろ、ほんのちょっと落ち着いたから何も口に入れたくないな。また吐く」

「病院は」

「入院しろって言われてる。無理、お金ないし」


 高額療養費制度もあるし申請すればそこまでの事にはならない気がするけど、手持ちが少ない状態だと戸惑うのは分かる。

 とりあえず私は部屋に置いてあるブドウ糖を取りに行く。

 私も食欲がない時はそれを飲んだりする医療用の物で、あの状態だと効くと思うけど……。

 取りに行くと玄関から悲鳴が聞こえてきた。

 私が慌てて玄関に戻ると、そこに旦那の凌が立っていた。

 私は慌てて、


「凌ごめん、マンションの前で体調不良の妊婦さんを助けたの。どうしてもそのままにしておけなくて」

「いや、大丈夫だ、びっくりしただけ」


 凌は両手にエコバッグを持っていて、駅前で買い物してきてくれたのだと分かる。

 凌は私にエコバッグを渡して女の子の横に座り、


「え、こんな玄関じゃなくて部屋に入ったほうが良くないですか? 大丈夫ですか? 救急車は? あ、妊婦さんは病院決まってるか」


 こんな状態なのに冷静な凌に惚れ直してしまう。

 私もエコバッグをリビングの机に置きブドウ糖を手に持って菜々美さんの方に向かう。

 そして、


「酷いつわりみたいで。私ブドウ糖持ってるから、これで少し良くなるかなと思って」

「なるほど。大丈夫ですか、部屋に入って……」


 凌がそう話しかけるとぐったりしていた菜々美さんは顔を上げて、


「……凌! 良かった会えて」


 と言った。

 凌?

 凌のことを呼び捨てにする女性は、私以外にはお義母さんしかいないと思う。

 すると凌は眉間に皺を入れて、


「……ひょっとして相談で会ったことがある方……とかですか」


 凌がそう言うと、菜々美さんは、はたと私の方をみて少し考えて、


「……なるほど、そういう対応するんだ。え、私を助けてくれた方が奥さん? えー……結婚生活は完全に破綻してて離婚寸前。家でも一言も話さないって言ってたのに嘘だったんだ。凌、私ね、妊娠したの。12週。つわりが酷くて仕事クビになっちゃった。ねえ、凌、生活費ちょうだい。病院にも行けないし、家賃も払えないの」


 そう言って菜々美さんは凌の服を甘えるように引っ張って顔を近づけた。

 その女の表情と、すぐ隣にいるのが凌という現実に苛立つ。

 私は菜々美さんの手に触れてなんとなく離れさせて冷静に言う。


「凌の子どもを妊娠しているというのは、あり得ないことです」


 菜々美さんは私の方を見て、


「私、凌としかセックスしてない。だから妊娠したのは絶対に凌の子どもだよ」


 そう言ってお腹を撫でた。

 さっきまで絶対に助けなきゃと思った妊婦さんだったのに、一瞬でお腹の中を引っかき回されたように苛立つ。

 でも私は息を吸い込んで冷静に言う。


「凌の精子は運動率0%。全く動いてないの。だから自然妊娠はあり得ないの」


 私が言い切ると、私の横に座っていた凌も静かに、


「俺に妊娠させる精子はない。だから俺の子じゃない、あり得ないんだ」


 そう断言した。

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