シーグラス

翠渓

シーグラス

 夕日が海に落ちていく。


 藍は砂浜の横に積み上げられたテトラポットの端に腰かけて水平線を眺めていた。誰もいない海岸は静かに繰り返す波の音だけが響いて、そのまま海に沈んでしまいたい衝動をかろうじて抑えた藍は、生臭い潮の香りが身体にまとわりつくのを許していた。

 

 藍の家は海に近く、昼過ぎに起きると毎日海岸のテトラポットの端に座って過ごした。

 車では訪れにくい場所だからか、たまに物好きな釣り人が来るくらいで、いつもほとんど人はいなかった。

 

 暑い夏も、毎日海を見ていた。やがて夏は終わり、秋が来た。

 

 藍は学校にも行っていないし、バイトも仕事もしていない。時間だけがまるで若い藍を嘲笑うかのようにじりじりと、しかし確実に過ぎていった。


 

 長袖のシャツ一枚では少し肌寒いと感じるようになったある秋の日、砂浜の向こうから一人の女性が波打ち際を歩いて近づいてきた。


 その女性は藍と同じくまだ十代に見えたが、他の人間と違う空気をまとっていた。何て言ったらいいんだろう、キラキラしている。


 そのまま藍の目の前まで歩いてきてこう言った。



「こんにちは。何してるの?」


 


***



 藍は、彼氏とその仲間に襲われた。


 生まれて初めてできた彼だった。

「家でゲームしようよ」

 そう言われた時、少しの不安とたくさんの期待のバランスで、答えは一つしかなかった。


 二人でPS5をしばらくやって、彼氏が言った。

「友達を呼んでもいいよな」

 その声には、NOを言わせない強さがあった。



 口をふさがれて、泣きわめくこともできなかった。自分の無力さに打ちのめされて、その辺に散らばった服をかき集め、何が何だかわからないまま家に帰る途中、公園のトイレで身だしなみを整えた。誰にもバレちゃいけない。汚い自分。




***



 藍は学校をやめた。

 学校には彼氏やその友達がいる。彼らは変わらず楽しげに過ごしているけど、自分は汚くなってしまったと思った。


 眠れない日々が続いたあと、滾々こんこんと眠った。食べ物を食べたくなくて、痩せていった。親や友人は心配してくれたけど、彼らに応える余裕はなかった。

 

 たくさん眠って、体重が減ると、少しだけ心のこわばりが解ける気がした。食べ物を口に入れると吐き気がしたけれど、これ以上心配させたくなかったから無理やり口に押し込んで後でトイレで吐いた。


 眠っている時以外の大半の時間を海で過ごした。



***



「こんにちは。何してるの?」


 藍は自分に声をかけられたことが一瞬理解できなくて、答えに詰まった。   

 近くで見たその女性はブリーチで髪はバサバサしていて、化粧っ気のない顔にはそばかすが散らかっていて、Tシャツに薄いデニムのパンツを履いた、ごく普通の高校生に見えた。


 その女性は藍の目を覗き込んで笑いながら再び言った。


「ここの海、なんか生臭いよね」 


 遠くから見た印象とのギャップに藍のかたくなな心が少しだけ緩んで、わずかに頷いた。

 

「あんた、毎日ここに座ってるよね。学校行ってないの?」


 藍は再び頷く。


「しゃべりたくないの?まあいいや。私も最近暇だからまた会えるかもね。私は鈴音すずねっていうんだ。似合わないでしょ」


 そう言って鈴音は立ち去った。



***



「また会えたね」


 鈴音がコンビニの袋に入ったプリンを差し出しながら笑う。


「多分いると思って二つ買ってきた。プリン好き?」


 藍は鈴音とプリンを食べたいと思ったけれど、言葉が出なかった。プリンのなめらかで甘い食感を想像するだけで軽い吐き気がした。


「プリンここに置いとくね。あんたは話したくないみたいだけど、そんなやせっぽっちじゃ見てらんない」


 藍は、プリンを食べる鈴音と並んで水平線を眺めていた。太陽を背に港へ戻る漁船の影が長く伸びる。


「私も何も食べれないときがあったよ。今は元気だけどね。ここの海臭いから、一緒にどこかにおいしいもの食べに行こうよ」


 鈴音はそう言ってまた笑った。泣きたくなるような笑顔。



***



 藍の止まった時間に、鈴音という一筋の光が差し込んでいた。なぜ鈴音なのかわからないけれど、藍は鈴音を光だと感じていた。


 鈴音とちゃんと話したいと思った。食事は相変わらず少ししか喉を通らなかったけれど、吐くのはやめた。

 


 冬になっていた。


 海は暗く波は荒れて風は冷たかったけれど、時折鈴音と過ごすその場所はどの季節より心地よかった。


 藍は少しずつ鈴音と話すようになっていた。海で見つけた貝殻とシーグラスのこと、流れ着いたゴミのこと、海岸に住んでいる野良猫の話、好きな音楽と好きな本、プリンは好きだけど食べられなくて悲しく思ったこと。でも食べられなくなった理由は言えなかった。


 鈴音はいつも屈託のない笑顔で藍の話を聞いた。そして時折自分の話をした。


「わたし家出したんだよね。今は一人で暮らしてる」



***



 鈴音は身体を売って暮らしていた。家出してしばらくはアルバイトで食いつないでいたけれど、小さな環境で人が互いの行動を見張りあっているような空気にどうしても耐えられなくてやめた。

 

「始めは気持ち悪かったよ」


 鈴音はそう言ってまた笑った。


「人ってさ、虫と変わんないんだよね。偉そうに説教しても、すました顔してても、ほんとにしたいことはみんな同じ。なんか笑えて、かわいくなっちゃった」


 水平線をみつめながら話す鈴音の横顔が夕日に照らされて、藍は思わずその頬に触れた。あの日からずっと誰にも触れたことのなかった手で。


「なんで触りたくなっちゃうんだろうね」


 そう言って鈴音がまた笑った。

 


***


 

 二人が出会ってから何度目かの桜があちこちで咲き乱れている。



 藍と鈴音は、時折近くのファーストフードで会うようになった。藍は少しずつだが確実に体重を増やしていき、鈴音は身体を売る仕事の合間を縫って昼の仕事を探し始めた。


 何も知らない人が見れば、ジャンクフードを片手に二人の無邪気な若い女性がじゃれあっているだけに見えるだろう。


 

 あの海はまだ少し生臭くて、猫が住んでいて、きれいなシーグラスが落ちている。

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シーグラス 翠渓 @ohiru_neko

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