沈む花




窓辺に置いた百合の花は、今朝ついに茎から崩れ落ちた。

もう水を換える意味もないのに、私はそれを捨てられずにいる。


彼を愛してはいけない――その言葉が

頭の奥で木霊するたび、

私の中の酸素がひとつずつ抜け落ちていく。


あの夜、抱きしめられた腕の中で、私の未来は完全に壊れてしまった。


彼には生活があり、

家族があり、

名誉がある。



私にはなにもない。


だから、彼の名を呼ぶことすら許されない。


名前を呑み込み、笑顔を作るたび、

胸の奥に黒い澱のようなものが溜まっていく。


窓の外の世界は明るい。

子供の笑い声、

電車が通過する振動音、誰かの足音。


なのに私は、

その音のすべてが遠く聞こえる。


世界と自分のあいだに、分厚いガラスがはめられたようだ。


このまま死んでもいい――

その思いは、ため息のように自然に湧いてくる。

涙はもう出ない。


ただ、心臓の鼓動がゆっくり鈍くなっていくのを感じるだけだ。


もしこの世に罪があるなら、


それは彼を愛してしまったことではなく、



自分を捨てるほどに愛してしまったことだ。




最後の夜、私は百合を一輪、胸に抱いたまま目を閉じた。


何もかもを終わらせるために。


せめて、次に目を覚ますときには、




私の心がもう彼を

知らない世界で

ありますように





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遠きは花の香 志に異議アリ @wktk0044

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