第2話「夏に堕ちた当主」
屋敷の外廊下。
夕焼けが、まるで誰かが空を引き裂いたみたいに滲んでいた。朱と紫が混ざり合い、屋根瓦の端を血のように染めている。
遠く、山の向こうでは村が祭りの準備で騒がしいはずだ。太鼓の音も、子供の笑い声も、本来なら風に乗ってここまで届く。
なのに今夜は、厚い布越しに聞いているみたいに、くぐもって、遠い。
その代わり、耳に届くのはひとつだけ。
――軒先に吊るした風鈴の音。
しゃらん、と揺れるたび、音の尾がどこか濁っている。薄いガラスがきしむような、不吉な響きだ。それすらも、今夜で聞き納めなのだと思うと、可笑しいくらい静かに受け入れられた。
八年。
あの夏、あの子の命が奪われてから、八年。
座敷牢の格子の向こうで、泣きながら頷いたあの顔を、僕は八年、忘れられなかった。
忘れたかったのに。忘れることが、生きることだと知っていながら。
けれど、忘れることは、あの子を二度殺すことだった。
「――にいさま。」
背後から呼ぶ声に、足が止まる。振り返りはしない。
夕焼けを背にした影が、細い外廊下の床に伸びて、僕の影と重なった。
「忘れないでください。貴方の忠義を、背負う重みを。」
湿った空気の中に、張りつめた声が落ちる。
そう、心配でいっぱいですと、その続きを飲み込んだような荒さを孕んで。
僕の妹――印瞳 音狛(インドウ ネコマ)は、静かに一歩近づいた。
いつも通り重たげな二つ結びのおさげが、ゆらりと揺れる。所作は淑やかでも、その一挙手一投足には、わざとらしいほどの威圧が込められていた。
まさに、この家の女に似つかわしい態度。
……腹が立つ。
頭のどこかが、わずかに冷静にそう評しているのに、胸の奥だけがざわついた。
僕の袖をつかんで離さなかった、小さな手。
なんでも知りたがって、目をきらきらさせていた幼い瞳。
この世界には輝くものしかないのだと言わんばかりの相槌。
――もう、そんなものはどこにもない。
「――ネコマ。」
背を向けたまま、口を開く。
夕日を正面から受けているせいで、瞼の裏に赤が焼き付いて痛い。
「僕は何だ?」
一瞬、息を呑む気配がした。
僕は振り返らず、そのまま続ける。
「僕は君にとってどんな人間だ。ネコマ。」
廊下を渡る風が、とても小さく鳴った。
しばらくの沈黙ののち、やや震えながらも、よく通る声が落ちてくる。
「
ほんの僅か、言葉が途切れる。
そこで、彼女の本心を探すように耳を澄ませてしまう自分が、まだどこかにいた。
「――あってはなりません。」
だろうな。
喉の奥で笑いが漏れそうになるのを、なんとか飲み込んだ。
興奮で震えていながら、どこか凛とした声。忠義とやらで爛々としている目が、夕焼けの赤に照らされている光景がありありと想像できる。振り返らなくてもわかる。見たくもない。
「君のことを、守らなくてはいけない存在だと、愛していた時もあった。大切な妹だと。」
背後の気配が、びくりと揺れた。
ネコマの呼吸が、ひゅ、と一拍だけ止まる。
「君は、苦しくは思ってないんだな。」
言いながら、自分の声が驚くほど静かなことに気づく。
胸の内に渦巻くものは、怒りにも悲しみにも名前が付かない。
「…杞憂だったみたいだ。」
ぽつりと零して、歩き出す。
足音がやけに大きく響いた。
でも、まだ少しだけ期待していた。
もしかしたら、この家に縛られた彼女にも本音があったりして。
それを、今だけでいいから零してくれやしないかと。
その一言で、引き止めてくれやしないかと。
「あの怪異のことは忘れたんでしょうね。」
ばしゃ、と
瞼の裏に、別の光景が焼き付く。
格子の隙間から伸ばした手に触れる、小さな手の温度。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
――この世界で唯一の『喜び』だ。
胸の奥で、何かが踏み潰された音。
鈍い痛みと共に、じわりと黒いものが広がっていく。
僕はもう、振り返らなかった。
◆◆◇◇
あるく。あるく。
横でひれ伏す人間達を、一瞥ニ瞥、睨めながら。
仮面と紋付きと、同じような祈りの文言。
人間というより、並んだ器にしか見えない。
そうしてたどり着いた、祭壇の前。
高く積まれた石段の上に、神棚と鈴。
頭上には開けた天井。今や夜の紺色が覗き始めている。星はまだ出てこない。雲の裂け目だけが、淡く光った。
仮面を被った人間が、一歩前に出て問う。
「
「誓います。」
自分でも驚くほど淀みなく声が出た。
差し出された盃には、とろりとした液体が入っている。喉を灼くような匂い。
全部、飲み干す。
「
仮面の声に、百を超える人間が一斉に湧いた。
じゃわじゃわじゃわじゃわ。
あァ、煩い。
シャンッ。
鈴に触れた瞬間、指先から冷たいものが腕を這い上がってきた。
鎖の軋む音がする。座敷牢の梯子の、ぎしりという古い音がする。
そして――泣き声。
鈴の芯が振れるたび、八年前の「逃げ出すはずだった夜」が、輪郭を取り戻していく。
叶わなかった夜。奪われた夜。
僕だけが生き残ってしまった夜。
――これもまた、キョウカを縛るための道具だ。
喉の奥で、何かが笑った。
僕はゆっくりと、腕を振り上げる。
皆、僕が神を降ろすのを待っている。儀式は順調だ。ここまでは。
ここから先は、僕の儀式だ。
力任せに、鈴を振り下ろす。祭壇めがけて。
バリバリバリッ!
石と木がひしゃげる凄まじい音が広間に響き渡る。
祭壇は割れ、供物は床に散らばった。
人間たちは叫びもせず、ただ呆然と立ち尽くしている。
「ヨスガァァァァッ!!」
静寂を破った怒鳴り声。
重たいおさげを振り乱し、一人の人間が突進してくる。
急がなければ。
「宿りたまへ。
腹の底を蹴り破る雷鳴。稲光。空気がうねり、松明が青白く灯り直す。
人間たちは吹き飛ばされ、仮面が床を転がり、恐怖が剥き出しになった顔が広間に散る。
――静寂。
僕は自らの肩を抱き、うずくまっていた。
背に、肩に、首筋に――温かいものが触れている。
夏の匂いがする。湿った土と、遠い花火の残り香。
「久しぶり、キョウカ。ずうっと恋しかった……。」
自分でも知らないほど柔らかい声が、口から零れた。
「はは、やっぱり、やっぱり裏切ってた!!!」
床に這いつくばったまま、かつて妹だった女が叫ぶ。
「にいさまは、
ゆっくりと立ち上がり、振り返る。
幼子を諭すように、しぃ、と人差し指をたてて。
「……ネコマ。慎んでくれ。君らの命を奪うのは、本意じゃない。」
僕は告げた。
「僕らはここを去る。彼女と穏やかに余生を過ごしたいだけだ。
けれども――邪魔するなら、壊れるのも、仕方ない。」
その言葉に、ネコマの顔が歪んだ。
裏切られた。そう被害者ぶって。
そして。
――空気が、震えた。
シャンッ
シャン、シャンッ。
何かが、来る。
崩れた祭壇の残骸を踏み越えて、青い火の松明の間を、ゆっくりと近づいてくる足音。そのような、何か。
人間の足音ではなかった。
小さな鈴がたくさんなるような音。付随して、床を爪で引っ掻くような。
空気が獣臭くなる。雨に濡れた犬の毛の匂い。血と土の匂い。
――そして、どこか懐かしい匂い。幼い頃、裏庭で嗅いだ、濡れた苔の匂い。
「…来たか。」
僕は息を吐いた。
視界の端で、ネコマが身構える。仮面の人間たちは、逃げることも祈ることも忘れ、ただ固まっていた。
「…
だれかが呟く。
緑の炎を纏って現れたのは、巨大な
人の背丈を軽く超える狼のような姿。毛並みは緑と灰の混ざった色で、美しい。だというのに一部が禿げ、肌には古傷が走っている。
片目は潰れていた。もう片方の瞳だけが――あり得ないほど澄んでいる。
その目が、僕――ではなく、僕の肩に触れている“気配”を見た。
「……
狗神の声は、喉の奥で石が擦れるみたいに低かった。
人の言葉を知っている獣の声。
それだけで、場の神聖さが逆流し、狗神の色に染まっていく。
狗神は続ける。
「印瞳の当主が、それを宿すとは。
……また、過ちを繰り返すのか。」
“過ち”――その一言が、胸に刺さった。
僕は笑った。乾いた笑い。八年分の喉の痛みを引きずった笑い。
「繰り返す?そうだな、間違いなく過ちだ。僕からキョウカを奪ったのは!」
神は嫌いだ。僕らを縛る口実に過ぎない。キョウカの命を奪う口実に過ぎない。そんなの、許されない。
僕はゆっくりと視線を狗神に向けた。
神を、糾弾したくて。
「お前、知ってるのか。
“モクヒ”の存在。お前の息子。お前は母としての役目も果たさずに、彼を見殺しにしようとしてた。僕は見てたよ。ちゃんと。」
◆◆◇◇
最初に見たのは、朱だった。
裏手の納屋の前で、青年たちに囲まれて、地面に転がされていた子犬。
泥と血と、噛み殺した息。
「まだ動いてるぞ」
「しぶといな」
「もういいだろ、出来損ない。」
背筋に虫が這ったような気がした。
出来損ない。
――殺してもいい理由。
モクヒは、声を出さなかった。
泣かなかった。
ただ、必死に目を開いていた。
生きたいとも、助けてとも言わずに。
その目を見て、体が勝手に動いた。
「やめろ!!」
声が裏返ったのを、今でも覚えている。
僕は彼らを突き飛ばし、殴って、引き剥がした。
力なんて大したことなかったのに、必死だった。
青年たちは舌打ちをして去っていった。
「当主の息子かよ」「面倒だ」
そんな軽い理由で。
子犬は、しばらく動かなかった。
もう死んでいるのかと思った。
「……生きてるか?」
そう聞いたとき、
モクヒは、ほんの少しだけ、頷いた。
夜。
僕は彼を、こっそり自室まで連れていった。
血を拭って、震える体を温めた。
「君、狗神の子供だろ。どうしてあんな扱いを?」
本来、近くの山奥に住む狗神は守り神の一柱として神聖視されているはずだ。
子犬改め、|沐陽(モクヒ)は答える。
「…生まれつき力が弱い。人型に変わることもできない。神々の一員なら、できて当然。
彼らは僕の兄たち。僕を処分しようとしてた。…助けてくれて、ありがとう。」
「なら逃げるべきだ。僕も手伝う。」
そう言うと、モクヒは少し考えてから答えた。
「逃げたら……
母さまに、嫌われる」
胸の奥が、冷たくなった。
結局そのすぐあと、モクヒは山に戻った。
闇の奥から現れた、巨大な影。
灰色の毛並み。片目の獣。
――
モクヒは、そいつにすがった。
傷だらけの体で、必死に。
「ごめんなさい。
弱くて、ごめんなさい。
死ぬ以外なら何でもします。頑張りますから。」
返事は、なかった。
狗神は踵を返す。
瀕死の身体を、それでも引きずってついていくモクヒ。
あのとき、はっきり分かった。
この世界にいるのは、救う神じゃない。
ただ尊大にそこにいるだけだ。
◆◆◇◇
僕は、狗神を睨んだ。
「なあ。お前らのどこが尊いんだ?」
僕は言葉を重ねる。
「モクヒは兄弟たちに虐められていた。
憂さ晴らしの道具みたいに扱われて、泣いて、叫んで、それでも……誰も止めなかった。」
狗神の鼻先が僅かに震えた。
「お前は息子を見殺しにするところだった。“守り神”のくせに。
この一族が『神』と呼んで縋った、お前はただの屑野郎じゃないか。」
ネコマが息を荒くした。
怒りか、恐怖か――いや、両方だ。
僕は、ふと背中にある温度を確かめるように肩を抱いた。
――キョウカ。
八年前のあの夏。格子の向こうの目。絵。
『響夏』。
そのすべてが、僕の言葉を押し出してくる。
「僕は、八年前に学んだよ。
神は導くだけ。守らない。何もしない。
人が守るか、奪うか、恨むか。全部、人だ。」
ネコマが叫ぶ。
「神を――冒涜するのか!」
その言葉に、僕は心底可笑しくなってしまった。
笑った。喉がひきつるほどに。
「冒涜? 違う。事実だ。」
僕は、喉の奥の黒いものを、吐き出すみたいに言った。
「神は何も成せない。成すのは人だ。
なにかを恨むのも、人だけだ。」
そして、一息を吸う。
「僕は恨めしいよ。
お前ら全員。
あの子を奪った、お前ら全員!」
その瞬間――ネコマが動いた。
袖の中から、刃が滑った。
装飾に偽装された短刀。祭具に紛れた殺意。
次期当主を支える忠義の刃――いや、“当主を殺してでも掟を守る”刃。
風が裂ける。
その刃は、気づけば眼前にあった。
とっさに僕は身を躱す。
避けた、つもりだった。
頬に生暖かいものが伝う。
かすっただけ――ホッとしたのも束の間だった。
背中の温度が、跳ねた。
キョウカが、反応した。
まだ目覚めていなくて、理性のない、力だけのキョウカ。八年前、僕の呼びかけに涙をこぼしたキョウカではない。
――怪異としての本能が、傷つけられた刺激で暴れ出す。
「……ッ、やめろ!!」
僕の声より早く、空気が破裂した。
緑の炎が、一斉に潰れる。
石畳が軋み、割れ、ひびが走る。
紫の雷が、空気を這って放射状に広がり――
人間が、飛んだ。
「ぎゃ――」
悲鳴は途中で潰れた。
頭が壁にぶつかり、骨が折れ、血が散る。
仮面が転がり、歪みきった顔が露わになり、次々に倒れていく。
「キョウカ!! 僕だ! 僕だよ、止まれ!!」
僕は肩を抱き、身を折った。
まるで荒れ狂う獣の首を抱きしめて、抑え込むみたいに。
でも、止まらない。
止まらない。
別に本気でみんな殺したい訳じゃない。憎いけれど。それをしたら同じだろう。僕らも。
「……っ、また……!」
狗神が吠えた。
吠え声は命令だった。山の奥へ響く“守るための声”。
「印瞳を守れ!ここを守れ!結びを守れ――!!」
狗神の身体から、古い光が滲む。
毛並みの奥、傷だと思っていた文様が浮かび上がる。
この一族が“守り神”として崇めた、狗神の権能。
炎の中から現れた狗神の子供たちが、僕に向かって飛び込んできた。
真正面から。守るために、殺す決意を孕んで。
それは、切って落とされた火蓋だった。
ヒトミノキョウカ @InasaKakuyomu
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