ヒトミノキョウカ
@InasaKakuyomu
第1話「夏に堕ちた当主」
あの夏、あの子と過ごした時間だけが、今も僕の奥底で響いている。
そんな日々は、七十七日間の拷問の末に容赦なく奪い去られた。
あの子の命が奪われてから、八年。
あの子をこれ以上失わないために。僕はもう、手段を選ばない。
◆◆◇◇
――八年前・
廊下を走ってはいけない。そう躾けられてきた。
向かいの廊下を、僕と同じ年頃の子供達がかけていく。なんの遠慮もなく。
「どこへ行くのです、ヨスガ様。」
教育係のリュウジが、静かな声で僕を呼び止めた。――浮ついた気分は隠さなきゃ。
胸の奥のざわつきを押し隠し、平静を装って答える。
「裏庭へ。」
今僕は、自然に表情を固められているだろうか。
威厳を忘れてはいけない。そう躾けられてきた。
楽しい気分でも、表情を緩めてはいけない。僕はこの家の次期当主だから。
そうですか、と、リュウジが淡々とした声で言うものだから、話はこれで終わりかと思ったのだが。
「悪巧みは、もっと上手くやりなさい。」
そう言うとリュウジは目を細め、わずかに身じろいで上から見下ろした。
「…そんな年相応な目は、はじめて見ました。」
なぜかその声音だけが妙に柔らかくて、かえって胸がざわついた。
彼の言葉の意図が読めなかったので。
「私は何も見てません。授業の時間には戻るのですよ。」
「…はい。」
――
”この国、緋月を怪異から護る一族”。そう世間は言う。
けれど、その実態は不思議なものだ。
外の世界には、整った「いんふら」や、高層ビルの立ち並ぶ都市があるというのに、未だに山奥に身を寄せ合って、称えられることもない。
それでも、次期当主である僕の重責はよく言い聞かせられている。
だから、本当はこんなことをしていてはいけないのだ。
僕は裏庭へ向かった。そこには秘密の抜け道がある。
空の井戸に潜った先――たどり着くのは、古い座敷牢だ。
静かなのを確認して、扉をノックする。
コンッコンッ
コン、コン
数拍置いて、ノックが返ってきた。今なら入ってもいい合図だ。
扉を開けて、横に都合よくついている錆びた鎖の梯子を下ろして、座敷牢に降りる。
誰が、何のために作ったのかはわからない。子供の足でも抜け道にできるように仕込まれた梯子は、古さのわりに丈夫だった。
「…ヨスガ、だめだよ。」
そういいながらも、彼女の声は弾んでいる。
「わかってる、よっ」
ぴょんと梯子から飛び降り、僕が出たのは木の格子の外側だ。
やっぱり設備をつくった奴が恨めしくなる。せっかくなら中に通せよ!
「調子はどうだ、キョウカ。」
格子の向こう、薄暗い光の中で。
彼女だけは、いつもの可愛らしい顔で僕を見ていた。
「よくない。ほんとうに、心配だった。」
そう言うと彼女はむう、とそっぽを向いてしまった。ほっぺの上に、涙の粒が浮かんでいる。これはいけない。悪いことをしてしまった。
「悪かったよ。まさか見つかるなんて。」
「…大丈夫だったの。」
「ああ。僕は次期当主だぞ。すごく偉いんだ。誰も僕に逆らえない。」
「そっか。」
本当に偉いなら、こんな場所に彼女を置いたままにしているはずがない。小さな噓に罪悪感を覚えながら彼女を見つめる。
服の汚れもそうだが、肌の色が良くない。
手首なんて、折れそうなくらい細かった。
ほんとうに誰も逆らえないほど偉ければ良かった。
そうしたら、今すぐここから出してやるのに。
「そういうわけで、キョウカ様〜?本日の貢物でございまーす。」
「…ふふっ、くるしゅーないぞー、みせてみろ」
ばん!っとキョウカの前に広げた紙。
そこには屋敷の僕の部屋から見える景色が描かれている。
――山と、夕焼け。それから雲。
力作ではないけれど、まずは簡単なものからだ。ご飯といっしょだな。
キョウカの目がくりっと輝く。
「これはなに?」
「これはだなー、うお、すまん逆さだった」
慌てて紙の向きを変え、説明を始める。
これは自室から見える景色であること、その向こうにある街へのわくわく、それから…夕焼けが、白い太陽が、キョウカの綺麗な瞳を思い出させたこと。
「……こんなにきれいじゃないよ。」
「いいえいいえ!こんな絵では表しきれないほどに綺麗なのだよ。キョウカくん。さてさて!つぎにいこうじゃないか。」
照れくささを隠したくて、本にでてきた登場人物を真似ながら次を急ぐ。
――そうして何枚かの絵を見せて、そのこだわりについて語った。キョウカはこくこくと頷いて、興味深そうに聞いてくれる。…いくつか分からない言葉も、理解できない話もあるだろうに。
僕はこの時間が何よりも愛おしい。僕って、こんなに楽しいと感じる心をもってるんだと。そう思わせてくれる。
途中で目が会う度に慌てて逸らしちゃったりするのは、彼女が可愛いから仕方ない。
「最後のメインディッシュです、キョウカ様!」
「ほほーう」
僕の、今までで最大の力作。
それを静かに開いた。
「わあ、いっぱい、たくさん、キラキラしてる。」
彼女の反応に、胸が膨らむ。
「タイトルは、『響夏』。響く、夏と書いて、『キョウカ』だ。」
弾けたように顔を上げるキョウカ。その瞳に僕か映っている。
言葉を失う彼女に対し、僕は続ける。
「このあいだ、キョウカの名前の、意味を聞いたんだ。」
彼女の顔に怯えが走る。ああ、そんな顔をしないで。
「――『凶嘉』。喜ぶべき災い。
僕はなんかやだなって思った。それを教えてくれた人も、嫌な顔をしてたし。」
キョウカの顔がどこか影を落とす。
僕は慌てて、続きの言葉を探した。
「身勝手かもしれないけど、僕にとってのキョウカは違うと思った。――だから、僕にとってのキョウカはなにか考えた。その答えが、この絵だ。」
僕が『響夏』と名付けた絵には、海と鮮やかな星空や、花火が描かれている。とにかく、静かな水面と、胸を打つような彩やかさ。そのふたつを描いた。つもりだ。
それをひとつひとつ、説明していった。
「静かな美しさと、胸を打つような鮮やかさ。僕の中で響く夏。それが『響夏』。僕の大好きな君だと思った。だから…僕はそんな意味を込めて、君を呼びたいなって、それだけ。」
キョウカはぼろぼろと涙を零していた。
今までずっと、彼女は言い聞かせられてきたはずだ。
――彼女は『
それがなんだかよく分からないけど、僕ら印瞳の一族にとってとても怖いものらしい。災いを呼ぶ、らしい。
けど僕はそんなのどうでもいい。こんな君が好きなんだと、伝えたかったんだ。
『凶』なんてものじゃない。
――この世界で唯一の『喜び』だ。
「…」
…呆然と涙を流す君すら可愛いと思ってしまう自分を殴りたい。
キョウカのすすり泣く声が響く。彼女は色んなものを言葉にするのが苦手だ。だから僕は彼女に、いくつもの言葉を教えてきた。
けど、その気持ちは、言葉にしてあげなくてもいいかなと、思って。
ただよしよしと、格子の隙間から伸ばした手で、彼女を撫でる。
「――キョウカ。」
「今まで、色んな絵を見せたよね、海とか、街とか、夕焼けとか、花火とか。」
「一緒に見に行こう。」
キョウカのすすり泣く声が止む。再び顔を上げてこちらを見る。
生まれたての赤ちゃんみたいな、びっくりした顔をして。この世に期待でいっぱい、そんなふうな目をして。
そうして、僕の意思は固まった。
「ここを出よう。二人で、逃げ出そう。」
一瞬迷って、めいっぱい頷くキョウカ。僕も、期待で胸がいっぱいだ。
彼女とここを出て、どんなしあわせを掴もうか。それしか頭になかった。僕らはまだ子供で、未熟で、無邪気で。
何一つ叶わないなんて、よぎることもなかった。
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