第2話

 ――そして、時は流れた。

 海は、未来叶と向き合う日々を選んだ。

 結婚して間もなく、叶は病に倒れたが、

 私は彼女の最期の瞬間までその手を離さず、生涯、叶を愛し続けた。

 誰とも結ばれることなく、独身を貫きながら。


 若い頃には、ふとした拍子に思ったこともある。

 ――あのとき、未琴を選んでいれば、

 こんな深い悲しみを味わわずに済んだのではないか、と。

 胸を締めつけるような後悔が、夜ごとに顔を出した日もあった。


 それでも、時間が経つにつれ、私は理解していった。

 どの道を選んでも、後悔は形を変えて残ったのだと。


 選ばなかったもう一つの道は、

 消えることなく、胸の奥に静かに残り続けていた。

 人生には、小さな後悔もあれば、

 引き返せないほど大きな決断もある。

 それらすべてを抱えたまま、私は、ただ前へと歩き続けた。


 そして――死期が迫った、その夜。海は病室のベッドで、時計の秒針だけが響く深夜に、窓の外も静まり返った世界に目を閉じていた。


 あれから今日に至るまで、

 私に似た“四次元生命体”と名乗る彼は、一度も姿を現さなかった。


 待ち続けた、というほど殊勝でもない。

 来ないまま、時間が流れただけだ。

 ただ最近は、不思議と彼のことを、よく思い返していた。

 病室の消灯後、時計の秒針の音だけが響く深夜になると、決まって――だ。


 そして――死期が迫ったそのとき。

 彼は、あの日の姿のまま何事もなかったかのように再び現れた。


「やあ」


「……あぁ……待っていましたよ。

 また会えると、思っていました」


 咳き込みながらも、私は深夜の来訪者を、心から喜んだ。


「ああ。約束だったからね」


「随分と、遅かったのですね……明日にはもう、会えなくなるところでしたよ」


 私は、かすかに口元を緩めてそう言った。

 冗談めかした響きとは裏腹に、胸の奥では、時間の残酷さが静かに脈打っている。

 自分でも驚くほど、こんな場面で軽口が出てくるのだから、人間とは不思議なものだ。


「それは、すまなかった」


 彼は軽く肩をすくめ、続ける。


「過去に戻って、日を改めようか?」


「いえ」


 私は、静かに首を振った。


「せっかく会えたんだ……

 このまま、君と話がしたい」


 私は、まるで親友に語りかけるように、

 これまでの人生を、ひとつひとつ話した。

 私の人生には、数えきれないほどの“分岐点”と呼べる瞬間があった。


 彼は話を聞きながら、

 その先にあったはずの“答え”を、淡々と教えてくれた。

「そのときは、こうなった」

「それは、その選択しか君は絶対選ばないよ」

「ふふ……それは、少し損をしたね」


 若い頃には、ほとんどの問いをはぐらかしていた彼が、

 今は、どんな質問にも答えてくれる。

 それが、私の死期が近いからなのか――

 あるいは、最初から決まっていたことなのかは、分からない。


「君との約束だったからね」


 彼は、穏やかにうなずきながら言った。


「話を聞くのは、なかなか新鮮で……嬉しいものなんだね」


 彼は、微かに笑みを浮かべながらそう言った。

 その様子を見て、私の胸にも、不思議な安心感が広がった。

 しかし、安心の中にあっても、どうしても知りたいことがあった。

 私は、少し躊躇いながらも、静かに彼に尋ねた。


「……妻……いや……叶は結婚してすぐに病気になり……

 その後どうなるかも分かっていたのだろう――なぜ、あの時教えてくれなかった?」


 問いを口にしたあと、私の喉は乾き、手はわずかに震えていた。

 胸の奥に押し込めてきた疑問と後悔が、静かに渦巻く。

 言葉を発した自分自身が、その重さに少し息をつまらせるようだった。


「……それを聞いて、君の選択は変わったのかい?」


 私は、しばらく黙ったまま――

 やがて、静かに首を振った。


「うん、良かったら君に何か伝えておこうか」


 ――そんなことを聞かずとも、

 彼には、私が何を望むのか、分かっているのだろう。


「では……若き日の私には、答えを教えないでください。

 それと……『どちらを選んでも、後悔は残る』とだけ」


「わかった。……約束は、ちゃんと果たしただろう?」


「ええ……

 あなたは、約束を守ってくれました」


 彼はどこか満足げに微笑んだ。


「そろそろ、みたいだね」


「どうやら、そのようだ……楽しい時間は一瞬で……本当にあっという間…だったよ。

 君は、私の人生でいちばん――ミステリアスで、刺激的な友人だ」

 言葉を紡ぎながら、私は静かに微笑み、過ぎ去った時間の重みを噛みしめた。


 彼は黙って、手を差し出した。

 私は、それを、しっかりと握り返した。


「また、気が向いたときには会いに来るさ。友達だからね」


「ほほ……そうですか……では、そのときまで――しばしの別れ、ということのようだ」


「また、会いに来てくださ…い」


 互いに微笑みを交わし、静かに手をほどいた。

 私は深く息をつき、目を閉じた。心の奥に安らぎが広がる。

 最後の呼吸が静かに身体を抜け、私は、長い人生の幕を閉じた。



 ――そして。



 病室を出る直前、ほんのわずか立ち止まった。

 振り返ることはせず、旅立つ友へ向けて、柔らかく言葉を落とす。


「じゃあね、必ず――また、会おう」


 その声を聞いた瞬間、

 世界はゆっくりと、音もなく、次の層へと折り畳まれていった。

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選ばなかった未来の隣で ―四次元の友人と過ごした最後の時間― 篠崎リム @visions

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