第3話第2話ブリッジ
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### **(第1話ラスト)**
わたしの世界は、彼が息をする音だけで、満たされているのだから。
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### **第2話:完璧なルーティン**
午前六時三十分。
目覚まし時計が鳴るよりも早く、わたしは瞼を開けた。
カーテンの隙間から、薄青い朝の光が差し込んでいる。隣の部屋からは、まだ何の物音もしない。壁に耳を当てて、三十秒。微かな衣擦れの音と、水道管を水が流れる低い音が聞こえた。
彼が起きた。
その事実を確認して初めて、わたしの一日が始まる。
布団から起き上がり、手早く着替える。
選ぶのは、地味なグレーのパーカーと、動きやすいデニム。髪は無造作に束ねる。わたしは、この街の風景の一部でなければならない。電柱や、ガードレールや、道端の雑草と同じように、彼の視界に入っても意識されない存在であること。それが、この完璧な生活を維持するための絶対条件だ。
七時十五分。
アパートのドアを、音を立てずに開ける。
二十メートル先、丁字路の角を、彼の背中が曲がっていくのが見えた。
わたしは深呼吸をする。朝の冷たい空気の中に、微かに残る彼の柔軟剤の香り――シトラスと、何か温かいものの匂い――を肺の奥まで吸い込む。
それだけで、空腹なんて忘れてしまう。
さあ、追跡(デート)の時間だ。
彼は規則正しい。
駅までの徒歩十五分の道のりを、決して急ぐことなく、一定のペースで歩く。
わたしは、五十メートルの距離を保ちながら、彼の足跡をなぞるように歩く。
彼が立ち止まって野良猫に目を細めれば、わたしもまた、彼がいなくなった後にその猫を見つめ、彼と同じ角度で目を細める。彼が自動販売機で缶コーヒーを買えば、数分後、わたしも同じ銘柄のボタンを押す。まだ温かい取り出し口に指を触れ、彼の間接的な体温を感じながら。
駅の改札へと彼が吸い込まれていくのを、柱の陰から見届ける。
そこまでが、午前のルーティン。
彼が電車に乗ってしまえば、もう追うことはできない。会社までは特定していないし、特定するつもりもない。そこは「現実」の領域だから。
アパートへ戻る道すがら、ポケットの中でスマホが震えた。
画面には「美咲(みさき)」の文字。
大学時代からの友人だ。唯一、わたしが引越しをしたことを伝えた相手でもある。
無視しようか迷ったけれど、着信はしつこく続いている。わたしは小さく息を吐いて、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『あ、ありさ!? やっと出た!』
美咲の声は、鼓膜に突き刺さるほど大きかった。
『あんた、今どこにいるの? 仕事辞めたって本当? おばさんから電話あってさ、ありさと連絡がつかないって泣いてたよ』
「うん、元気だよ。心配しないで」
『心配するでしょ! いきなり全部捨てて消えるとか、どういうつもり?』
美咲の声のトーンが下がる。真剣な、説教モードの声だ。
『……まさかとは思うけど、また「アレ」やってないよね?』
「アレって?」
『ほら、三年前の。あの営業部の先輩の時みたいに。あんた、一度好きになると周りが見えなくなるじゃない。潜水艦みたいに潜って、息継ぎもしないで』
「潜水艦……」
『そうよ。ありさの集中力はすごいけど、それは諸刃の剣だって、自分で言ってたじゃない。一度刺さったら、自分も相手も傷つけるまで止まらないって』
美咲の言葉は、的を射ていた。
わたしは昔からそうだ。
受験勉強の時も、ピアノの練習の時も、仕事のプロジェクトも。一度「これだ」と決めたら、寝食を忘れて没頭した。周囲の声はノイズに変わり、視界はトンネルのように狭まり、対象物だけがクリアに輝いて見える。
みんなはそれを「才能」だと言ったけれど、美咲だけは「危なっかしい」と眉をひそめていた。
「大丈夫だよ、美咲」
わたしは、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを握りしめた。
「今回は、違うの」
『何が違うのよ』
「わたしは何も望んでない。ただ、見ているだけ。彼が今日も元気で生きていてくれれば、それでいいの。これは……そう、推し活みたいなものよ」
『ありさ……』
「本当に、幸せなの。だから、もう少しだけ、このままでいさせて」
一方的に電話を切った。
スマホの電源を落とし、バッグの底に放り込む。
これで、ノイズは消えた。
アパートの階段を上りながら、わたしは美咲の言葉を反芻する。
――潜水艦。
悪くない例えだと思った。
ここは深海。光の届かない、静かで、水圧の高い場所。
ここでしか生きられない魚がいるように、わたしもまた、この息苦しいほどの愛の中でしか呼吸ができないのだ。
部屋に戻り、カレンダーを見る。
今日は火曜日ではない。特別なことは何も起きない、平穏な一日。
けれど、わたしの体の中では、確かな変化が起き始めていた。
今朝、コーヒーの匂いを嗅いだ時、わずかに胸が悪くなったのだ。
ただの体調不良かもしれない。
でも、もし、これが彼との「同調」の証だとしたら?
わたしは、まだ平らな自分のお腹を、そっと撫でた。
(第3話へ続く)
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