第2話バス停
第2話
### 蜃気楼のジェスチャー
けだるい午後のバス停。
じりじりと照りつける太陽がアスファルトを溶かし、陽炎が足元でゆらめいている。イヤホンから流れる気のないポップソングは、もはや蝉の声にかき消されそうだ。あと、5分。早く冷房の効いた鉄の箱が来てくれないかと、わたしはただぼんやりと道路を眺めていた。
その時だった。
反対車線で、一台のタクシーが停まる。中から降りてきたのは、白いシャツを腕まくりした男性だった。入れ違いに、別の男性がタクシーを捕まえようと手を上げる。それが、彼だった。
風が彼の前髪を優しく揺らす。その動きだけで、なぜかスローモーションに見えた。夏の強い日差しに負けない、清潔で、涼しげな笑顔。わたしが今感じている気だるさとはまるで無縁の世界にいるような、突き抜けた爽やかさがあった。思わず見とれて、イヤホンから流れる音楽が遠のいていく。
すると突然、彼がこちらを、いや、まっすぐにわたしのことを見て、大きく手を振った。
それだけじゃない。口を大きく開けて、何かを叫んでいる。道路を走る車の騒音で、声はまったく聞こえない。でも、何度も、何度も、ぶんぶんと腕を振って、満面の笑みで何かを伝えようとしている。
え!
わたし?
一瞬で、体中の血液が顔に集まった。心臓がドクンと大きく跳ねる。
知り合い?いや、こんな爽やかな人、知らない。ナンパ?まさか。じゃあ、誰かと見間違えてる?
周りの視線が、急に針のように感じられて、居たたまれなくなる。恥ずかしい。でも、あの笑顔を無視することもできない。どうしよう、どうしよう。
パニックになったわたしは、一番ありきたりな行動をとった。
「え?」と小さく呟きながら、自分の後ろを振り返る。きっと、わたしの後ろにいる誰かに違いない。そうに決まってる。
けれど。
わたしの後ろには、誰もいなかった。
古びたタバコ屋のシャッターと、壁の落書きがあるだけ。
風が、わたしの髪をさらりと撫でていく。
―― じゃあ、やっぱり、わたしに?
期待と恥ずかしさで、もうどうにかなりそうだった。ゆっくりと、ぎこちなく、彼の方へ視線を戻す。なにか、返事をしなくちゃ。小さくでも、手を振り返すべき?
しかし、そこに彼の姿はなかった。
代わりに、黄色いタクシーのテールランプが、遠ざかっていくのが見えた。彼が立っていた場所には、アスファルトの陽炎が揺れているだけ。まるで、最初から誰もいなかったみたいに。
あっけにとられて、わたしは立ち尽くす。
彼が去っていくほんの数秒の間に、わたしは一体いくつの感情を経験したのだろう。
彼は、なんて叫んでいたんだろう。
あのジェスチャーは、何だったんだろう。
本当に、わたしに向けてだったのだろうか。
やがてバスが到着し、わたしは吸い込まれるように乗り込んだ。冷房の風が、火照った頬に心地いい。
窓の外の景色は、いつもと同じ速度で後ろへ流れていく。
でも、わたしの世界は、ほんの少しだけ、変わってしまった。
答えのわからない問いを胸に抱えて、退屈だったはずの日常が、きらきらと光る謎に満ちて見え始めていた。
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