君にさす光、仮

志乃原七海

第1話プロローグ



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### **第1話:息をする街**


 段ボール箱の山に囲まれて、わたしは窓の外を見つめていた。見慣れない街の灯りが、ガラスに滲んで揺れている。数ヶ月前まで笑い合っていた友人たちの顔、やりがいを感じていた仕事の記憶、育ててくれた両親の心配そうな声。そのすべてを、わたしは荷物と共にあの部屋に置いてきた。


 新しいアパートは、がらんとしていて冷たい。けれど、この部屋の壁一枚を隔てた向こう側には、彼が吸って吐いたのと同じ空気が流れている。そう思うだけで、胸の奥に小さな熾火(おきび)が灯るような、静かな熱を感じるのだ。


 彼との出会いは、偶然だった。

 出張でこの街を訪れた雨の日。傘もささずに駆け込んだ古びた喫茶店で、彼は窓際の席に座って本を読んでいた。外の灰色の世界とは切り離されたように、彼を中心とした半径1メートルだけが、柔らかい光に満ちているように見えた。ただ、その横顔を見ていた。切れ長の目、少しだけ癖のある黒髪、本を持つ指先の形。心臓が、見つけてしまった、と叫んでいた。ずっと探していた、わたしの魂の片割れを。


 一言も交わすことはなかった。彼が店を出ていく背中を、わたしはただ見送った。

 それだけ。たったそれだけの出来事だったのに、わたしの中から彼の存在が消えることはなかった。


 だから、来たのだ。


 わたしの新しい生活は、彼を中心に回っている。

 朝、彼がいつも立ち寄るベーカリーでコーヒーを買う。彼の姿はまだない。でも、昨日彼が触れたかもしれないドアノブにそっと触れる。

 昼、彼が勤めているらしいオフィスビルの向かいにある公園のベンチで、サンドイッチを食べる。何百とある窓のどれかの中に、彼がいる。そう思うだけで、味気ないパンも特別なご馳走になる。

 夕方、彼が時々歩く川沿いの道を、ゆっくりと歩く。彼の残像を探すように。すれ違う人々の中に彼の気配を探し、風の中に彼の吐息を感じようとする。


 友人は言った。「狂ってる」と。

 母は泣いていた。「どうか、自分を大切にして」と。

 分かっている。これは、恋と呼ぶにはあまりに一方的で、歪んでいるのかもしれない。まるで、太陽の周りをただ公転するだけの、名もなき惑星。光をもらうだけで、声を届けることさえできない。


 でも、わたしは満たされている。

 彼の存在が、この名もなき街に意味を与えてくれる。彼が歩く道は輝き、彼が息をする空気は甘い。彼の体温が、この街全体をあたためている。

 わたしは、その中で生きている。彼の世界の一部になれた。それだけで、よかった。


 わたしは彼の名前すら知らない。

 知るのが、怖いのかもしれない。

 名前を知れば、彼に現実の輪郭が与えられてしまう。職業、家族、好きな食べ物、嫌いな音楽。そんな些細な情報が、わたしの中で完璧な神殿のように築き上げられた「彼」という存在を、ただの「人間」に変えてしまうだろう。


 わたしが愛しているのは、あの雨の日の喫茶店で見た、光そのものだったのかもしれない。


 今日もまた、窓辺に立つ。

 この街のどこかで、彼が息をしている。

 その事実だけが、わたしの全て。何もいらない。ただ、この街で、彼と同じ空気を吸い、彼の体温を感じて生きていく。


 わたしの世界は、彼が息をする音だけで、満たされているのだから。


***


 カレンダーの数字に、赤い丸をつける。

 火曜日。

 この一週間、慎重に観察を重ねて分かったことがある。彼は毎週火曜日の夜、駅前のスーパーマーケットに立ち寄る。買うものは決まって、牛乳と、安売りの野菜、それから惣菜のパックが二つ。


 わたしは鏡の前で、丁寧にリップを塗った。

 彼と話すつもりなんてない。視界に入ることさえ望んでいない。けれど、同じ空間で、同じレジの音を聞き、同じ棚の商品を見つめる。それだけで、わたしにとっては神聖な儀式なのだ。


 バッグを手に取り、部屋を出る。

 完璧な世界。汚れることのない、美しい硝子の城。

 わたしはまだ知らなかった。

 どんなに美しく磨き上げられた硝子も、たった一つの小さなひび割れから、音を立てて崩れ落ちるものだということを。


 そのひび割れの音が聞こえ始めたのは、そう、あのスーパーの鮮魚コーナーでのことだった。


(第2話へ続く)

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