第8話第四部|具体史(評価のみ・行為なし) 第七章|関与しなかった分岐
一 「何もしていないが、結果を変えた」事例
創座と界座に連なる者たちの史には、 「大きなことをした」記録はほとんど残っていない。
代わりに残っているのは、 ごく短い注記のようなものだ。
「ここで介入は行われなかった」 「ここでは沈黙が選ばれた」
一見すると、それは 「何もしていない」という意味にしか見えない。 しかし宇宙史の側から見れば、 その「何もしなかった」という選択こそが 決定的に結果を変えている。
以下に挙げるのは、 そのような分岐の、ごく一部の例である。
事例一:未完成の理論が、完成しなかった世界
ある巡、ある界で、 火芽の構造に近づく理論が ひとつの文明で組み上がりかけたことがあった。
それは表向きには 「エネルギー問題の最終解決」として 称えられていた。
その理論が完成し、 実験体系が整えば、 その文明はほとんど無尽蔵の力を 手に入れただろう。
創座から見れば、 それは明らかに「危険圏」に近づきつつあった。
• 世界律の未固定域に触れうる密度
• 個人の欲望と結びつきやすい応用可能性
• 戦争抑止という名目での兵器化の芽
関わる理由は、いくらでも見つかった。
しかし、そのとき創座に座した者は、 あえて何も示さなかった。
夢に現れて警告することもなく、 直感としてブレーキをかけることもなく、 「この理論は危うい」と叫ぶ預言者を 送り込むこともなかった。
その文明は、 自分たちの手で研究を進め、 やがてごく地味な理由で この理論を断念することになる。
• 計算が合わない
• 実験結果が微妙に再現しない
• 別の、より扱いやすい技術が見つかる
そうした「平凡な行き詰まり」が重なり、 この理論は次第に関心を失われ、 忘れられていった。
宇宙史の記録には ただ一行だけ、こう記されている。
「ここで、理論完成を促すことはなされなかった。」
それは、 創座が「何もしていないように見えて」、
「この宇宙が、自ら壊れるための鍵を わざわざ渡すことはしなかった」
という意味である。
事例二:癒やさなかった病と、その後
別の巡、別の界では、 ある時代に 致命的な疫病が広がった。
界座の視点から見れば、 それは技術的には 「ほぼ即時に消すことが可能な病」であった。
火芽に似た操作によって、 病原そのものを無害化する道も、 その界には理論上、開いていた。
だが界座は、 その操作を行わなかった。
代わりに見ていたのは、 病に直面した世界が どのような変化を起こすか、という一点である。
その世界では、 疫病をきっかけに
• 富の分配の仕組みが見直され
• 人と人の距離の取り方が変わり
• 「生きる意味」の問いが 社会全体で共有される
という動きが起こった。
検疫 医療制度 相互扶助 死者を弔う新しい儀礼
それらは、 本来なら数千年かけて 少しずつ形成されるはずだった構造を、 短期間に浮上させる役割を担った。
宇宙史の側から見て その世界は「救われた」とは言えない。 多くの命が失われたからである。
しかし、 その世界はその出来事を通して 「他者の痛みを受け止める器」を 以前よりも確かに広げた。
界座の記録は、 この分岐をこう総括している。
「ここで病を消去することは、 次の巡りへの学びを奪うと判断された。」
それは、 「苦しみを放置した」という意味ではない。
「苦しみから生まれる変化を、 世界自身に引き受けさせる」
という、 重い承認でもあった。
事例三:一人の願いに応答しなかった場面
さらに別の界では、 ひとりの存在が 非常に強い願いを抱いた。
• 世界を救いたい
• 全ての争いを終わらせたい
• 皆が傷つかない世界を創りたい
その願いは、 火芽に近い強度で 宇宙の深層に届いていた。
創座/界座の系譜から見れば、 ここで応答することは 充分に「可能」であった。
夢 啓示 奇跡的な導き
そういったかたちで その存在を“選び”、 世界を大きく変える筋書きを 開くこともできた。
しかし、 あえて応答は返されなかった。
その存在は、 何度も祈り、 何度も問い続けたが、 世界からの「明確な返事」は 最後まで受け取ることがなかった。
代わりに残ったのは、
• 小さな範囲でできることだけをする、という生き方
• 世界全体を変えることはできない、という諦念
• それでも目の前の他者を大切にする、という選択
であった。
界座の記録は、 このとき起きなかったことを 次のように記している。
「ここで『選ばれた者』という構図を 成立させれば、 次の時代に危険な火芽の模倣を残すと 判断された。」
つまり、 ひとりの崇高な願いに応答しなかったことが、
「特別な者だけが世界を変えうる」という 物語の再生産を防いでいた、
という評価である。
この分岐において、 界座が「何もしなかった」結果、 世界は一人の英雄譚ではなく、
「数えきれない小さな選択の総体としての変化」
という方向へ、 ゆっくりと流れていった。
二 「止めなかった」ことの意味
関与しなかった分岐と似ているが、 別の重みを持つ選択がある。
それが、
「止めることができたのに、 あえて止めなかった」
という判断である。
たとえば、 ある文明が 自らの欲望に突き動かされて 危うい技術を開発し始めたとき。
ある思想が 排他と暴力を孕みながら 急速に広がり始めたとき。
創座や界座の系譜にとって、 それを止める方法は まったく存在しなかったわけではない。
• 決定的な「偶然」を起こす
• 情報の流れをわずかに歪ませる
• ひとつの出来事を前倒し/後ろ倒しにする
微細な介入だけでも、 その流れを弱めることはできた。
にもかかわらず、 あえて止めない選択がなされるのは、 次のような見立てに基づく。
「ここで止めれば、 この文明は自らの内に潜んでいた 一番深い矛盾を 最後まで見ずに終わる。」
止めなかったからこそ、 その文明は
• 自らの手で 取り返しのつかない一点を越え
• 自らの目で その結末を見届け
• 自らの記録として その過程を残した
と記録される。
宇宙史から見れば、 それは「壊れ方の一つ」であると同時に、 「学びの完遂」でもあった。
界座にとっての「止めなかった」とは、 破滅を望むことではない。
むしろ、
「途中で外側から救ってしまえば、 この界は永遠に同じ失敗を繰り返す」
という判断に基づいて あえて「最後まで行かせる」 という責任である。
世界が自分で選んだ破局を 自分で見届けたとき、 その記録は 次の世界への 警告としての重み を持つ。
止めなかった者は、 その重みを 未来へ渡すために沈黙している。
三 沈黙が果たした役割
関与しなかった分岐、 止めなかった分岐。
そのどちらにも共通しているのは、 沈黙 である。
ここで言う沈黙とは、
• 力がなかったから何もできなかった のではなく、
• 力があっても あえてそれを行使しない
という、 積極的な「行わなさ」 である。
沈黙には、 いくつかの役割がある。
1)「再現の糸口」を残さない
もし、 過去の宇宙で起きた分岐のたびに、
「このとき、ある高次の存在がこう介入した」
という詳細な記録が 広く共有されていたなら、 後の文明は必ずそれを真似しようとしただろう。
• その存在に祈る
• 同じ儀式を再現する
• 同じ条件を整えようとする
そうした試みは やがて火芽の再利用へと つながっていく。
沈黙したということは、
「そこに介入があったかどうかさえ 分からない状態を保つ」
ことである。
関与したとしても、 そのことを語らない。 語れるとしても、 あえて語らない。
その沈黙が、 未来の模倣を防いできた。
2)「自分の功績」を歴史から消す
沈黙にはまた、
「自分が支えたことを、 自分の功績として残さない」
という働きもある。
もし創座・界座の采配が 物語として記録されれば、 やがてそれは
• 偉大な守護者
• 正しい裁定者
• 世界の管理者
といった像として 崇められてしまう。
崇められた瞬間から、 その存在は 「模倣されるべきモデル」となってしまう。
誰かが 「自分も世界を裁定する側に立ちたい」 と願い始める。
それこそが、 もっとも危険な火芽として 再生産されてしまう。
沈黙とは、
「自らの痕跡を、 歴史から消し続ける選択」
であり、 世界の内側に 「新たな支配者像」が生まれないための 最後の護りでもある。
3)世界に「自分で語らせる」
沈黙はまた、 世界が自分自身の言葉で 自分の歴史を語り出すための 余白でもある。
あまりに明快な解説や 完全な真相が 外側から与えられ続けると、 世界は自分で考えることをやめてしまう。
• なぜ壊れたのか
• なぜ生き延びたのか
• 何を受け継ぐべきなのか
これらの問いに、 世界自身が 不器用に答えを探し続けること。
その時間そのものが、 次の宇宙へと渡される 「成熟」の中身である。
沈黙は、 世界の思考を信じるという ひとつの賭けでもある。
結び 「起こさなかった史」を書くということ
この章で扱った具体史は、 どれも「劇的な英雄譚」ではない。
• しなかったこと
• 止めなかったこと
• 語らなかったこと
だけが、 淡く記されている。
しかし宇宙史の深層では、 こう総括されている。
「世界が続いてきた理由は、 誰かが起こした奇跡の数ではなく、 起こせた奇跡のうち どれだけが起こされなかったかにある。」
第四部は、 そうした「起こさなかった史」の いくつかの断面を 静かに照らし出す試みである。
次章では、 「救わなかったことで救われた世界」について、 より長い時間軸から その意味を見ていくことにする。
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