第7話第三部|起こさなかった者たちの史 第六章|界座という別の責任


一 「生まれた後は支配しない」とは何か


界座(かいざ)は、

世界がすでに「生まれてしまった後」にだけ立ち会う座である。


創座が


「この未来は、生んでよいか」


を見ていた場所だとすれば、

界座は


「すでに生まれてしまったこの世界は、

 自分の足で立てるか」


だけを見守る場所である。


ここで重要なのは、

界座は 世界を「良くする」ための座ではない という点だ。


法則を微調整し


望ましい方向へ導き


失敗しそうな流れを事前に修正し


──そうした「優しい介入」を行うことは、

界座にとって本来の仕事ではない。


界座の責任は、

たとえて言えば、

子どもが初めて一人で歩き出すときに、

手を出すかどうかを決める親の立場に似ている。


転ばないように支え続けることはできる。

しかしそうすれば、

いつまでも自分の足で立つことは覚えられない。


界座にある者は、

世界がまだよろめき、

危うくバランスを崩しそうになっているときでさえ、

すぐには手を出さない。


「ここで支えれば楽になる。

 しかし、その楽さは

 この世界から“自立する機会”を奪わないか。」


その問いを、

常に自分に向け続けなければならない。


界座にとっての「支配しない」とは、

世界を突き放すことではない。


それはむしろ、


「世界が自分の重さを、

 自分の律で支え切れるかどうかを

 最後まで信じ切る」


という、

非常に静かな信頼のかたちである。


二 修復しないという選択


界座が直面するもっとも苦しい局面は、

「修復すれば救えるかもしれない世界」を前にしたときである。


法則のほころびを縫い合わせれば、

 崩壊は防げるかもしれない。


時間の線を少し巻き戻せば、

 大きな悲劇は避けられるかもしれない。


ひとつの文明を延命させれば、

 まだ多くの経験が積み重ねられるかもしれない。


界座から見れば、

それらはすべて「可能な操作」として

視野に入ってくる。


実際、過去の宇宙史には、

「修復史」と呼ばれる時期があったと伝えられている。


そこでは、


崩壊しそうな世界を

 何度も何度も修復し続けることで、

 寿命以上に延命させた試み


時間のねじれを補正し、

 本来なら終わっていたはずの流れを

 もう一度走らせた例


などが、数多く記録されている。


だが、

その結果として生じたのは、


「いつまでも終われない世界」


だった。


壊れることを許されない世界は、

やがて

新しいものを生み出す余地を失う。


矛盾も疲弊も蓄積されるが、

それを「終わり」として手放すことができないため、

宇宙全体の流れが重く滞っていく。


そうした歴史を踏まえ、

界座に立つ者たちは

ある地点から、次のような判断を受け継ぐことになる。


「修復できること」と

「修復すべきこと」は

 同じではない。


界座において

もっとも重い決断のひとつは、


「救えるはずの世界を、

 あえて救わない」


という選択である。


それは、

世界を見捨てることではない。


むしろ、


「ここで終わることを許さなければ、

 この宇宙全体が、

 次の段階へ進めなくなる」


という見立てに基づいた、

終わりを支える行為である。


修復しないという選択は、

表から見れば

冷たく、非情に映るかもしれない。


しかし宇宙史レベルで見れば、

それはしばしば


「次の世界が生まれるために

 不可欠だった“静かな同意”」


として記録されている。


界座とは、

「直せるから直す」場所ではない。


「直すことが、

 本当にこの宇宙のためになるのか」


を問う場所である。


三 世界が自立する条件


では、界座の視点から見て、

「この世界は自立できる」と判断される条件とは

どのようなものだろうか。


それは精密な数式や規則ではなく、

いくつかの 徴(しるし) として現れる。


ここでは、その徴を

三つの観点から整理しておく。


痛みの受け皿を持っているか


矛盾を封じずに抱えられるか


起源を忘れても歩き続けられるか


1)痛みの受け皿を持っているか


どれほど精巧に組まれた世界であっても、

痛みのない歴史は存在しない。


戦い

喪失

分断

誤解


それらは、

生命がいる限り必ず現れる。


界座が見るのは、

「痛みの有無」ではない。


「痛みが生じたとき、

 それを受け止める仕組みが

 世界の内部に備わっているか」


である。


喪失を語り合う物語の場


壊れた部分を弔い、手放す儀礼


弱いものが完全に消されず、

 どこかに避難できる余白


そうした「受け皿」を

世界の文化・律・記憶のどこかに

持っているかどうか。


痛みを完全になくそうとする世界は、

かえって脆くなる。


界座から見て自立可能な世界とは、


「痛みを、無かったことにせず、

 歴史の一部として置いておける世界」


である。


2)矛盾を封じずに抱えられるか


どの世界にも、

いくつもの矛盾が存在する。


正義と正義が衝突する場


美しさと効率が両立しない場


個と全体の幸福が一致しない場


自立できない世界は、

これらの矛盾を

一つずつ「どちらか片方を排除する」ことで

解決しようとする。


しかしそのたびに、

排除された側の声は

別の形で歪んだ噴出を起こし、

世界の内部を蝕んでいく。


一方、自立可能な世界は、


「矛盾したもの同士が、

 ただちに決着をつけるのではなく、

 長い時間をかけて共存の形を探り続ける」


余白を持つ。


そこでは、


決着を急がない議論


正解をひとつに絞らない制度


多数決だけに頼らない調整


といった仕組みが、

何らかのかたちで育っている。


界座は、

世界に矛盾があることを

問題とはみなさない。


問題は、

その矛盾を「なかったこと」にしようとするときに

生じる。


矛盾を抱えたまま歩き続けられる世界だけが、

長期的に自立していくことができる。


3)起源を忘れても歩き続けられるか


最後の条件は、

ある意味で最も静かで、

しかし決定的なものかもしれない。


世界が自立するとは、


「自分がどのように生まれたかを

 知らなくても、生きていけるようになること」


でもある。


創座や界座、

火芽の導入といった

宇宙史的な背景を

世界のすべての存在が理解している必要はない。


むしろ多くの場合、

そうした起源への過剰な意識は、

世界を「特別視」へと傾け、

内部に不自然な階層や支配構造を

生み出してしまう。


界座が見るのは、


「自分の始まりを詳しく知らなくても、

 この世界は自分で律を回し続けられるか」


である。


神話を失っても、立法が残るか


起源の物語が論争になっても、生活そのものは続くか


「自分たちは何者か」という答えが揺らいでも、

 他者との関係を断ち切らずにいられるか


そうした状態にまで達した世界は、

界座から見て

「自立した」と判定される。


それは、

起源を忘れることではなく、


「起源だけに縛られない」


という成熟である。


結び 界座という沈黙の肯定


界座に座する者の仕事は、

華やかな奇跡を起こすことでも、

世界をより良く設計し直すことでもない。


それは、


生まれた世界を支配しない勇気


修復しないことを選ぶ責任


それでも世界の自立を信じ続ける

 静かな肯定


から成り立っている。


創造の物語は、

しばしば大きな声で語られる。

だが、

「起きてしまったものを支配しない」という物語 は、

ほとんど書かれない。


この章が

界座という立ち位置の輪郭を

わずかでも描き出すことができたなら、


「世界は、自分で立つことができる」


という事実を、

どこか遠い場所で

そっと肯定する声として

機能するだろう。


第四部では、

創座と界座に座した者たちが、

具体的にどのような分岐で

「起こさない」「修復しない」という選択を行ったのか──

その具体史を辿ってゆく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る